第四章 二人で見上げた星空2
顔を見た途端、理緒は名前を呼んでいた。
身体を起こしたのは確かに秋人だった。だが、いつもと雰囲気がまるで違っている。
着ているのは、学ランではなく黒いパーカーとジーンズだ。どうやら一度帰宅して、着替えてからここに来たようである。さらに、長い前髪こそそのままだが、眼鏡は細い銀フレームのものから太めのセルフレームのものに変わっていた。
黒崎くんてパーカーとか着るんだ……思ったよりラフな私服に、理緒は新鮮味を感じていた。そうこうしているうちに、セルフレームの眼鏡の奥で、秋人が何度か瞬きをする。
「森澤さん?」
互いに名前を呼び合ったことになる。
理緒は立ち尽くしていた場所から数歩前に出て、ぺこっと頭を下げた。
「……こんばんは、黒崎くん」
「こんばんは……」
秋人はさほど間を置かず、理緒と同じ台詞を口にした。ちゃんと挨拶を返してくれて、心がほわんと暖かくなる。
「ベンチに寝っ転がって、何をしていたの?」
聞くと、秋人は逡巡するように目を伏せた。
だがやがて、ゆっくり口を開く。
「星を……」
そのまま、秋人の視線が上に向けられた。
理緒もそれを追って空を見上げた。そこにはぽつぽつと小さな輝きがちりばめられている。
「星を見てたの?」
こくりと頷くと、秋人はごそごそ動いてベンチの左半分を大きく空けた。
「隣……。他のベンチは、少し遠い場所にあるから……」
その瞬間、ドキっと胸が跳ねた。
秋人は理緒のために、席を詰めてくれたのだ。
「私が座ってもいいの? 寝っ転がって星を見ていたんでしょう?」
「座っていても星は見えるから。僕の隣でよければ……」
秋人の言葉は控えめだった。
だが、気遣いは十分に伝わってくる。
「ありがとう」
理緒が静かに隣に腰かけると、秋人は再び空を見上げた。少し背中を丸め、パーカーのフードに後頭部を埋もれさせるような姿勢で、首を斜め上に向けている。
しばらくして、囁くような声が聞こえた。
「君は……」
声を発したのは秋人だ。
理緒が「えっ?」と聞き返すと、今まで星を映していた目がこちらを向く。
「君はどうして、ここに……」
今度はもう少しはっきり聞こえた。秋人は理緒に、ここに来た理由を尋ねているようだ。
「私? 私は……」
ここに来た理由。それを説明するかどうか迷って、理緒は一旦口を閉ざした。
今日は学校を出てからずっと一人だった。真紀はいないし、学校の図書館も使えない。どこで過ごそうか迷ってここに辿り着き、秋人と出会った。
何をどこから話していいのか分からない。沈黙の時がじりじりと続く。
だが、そんな理緒の隣に秋人はただ黙って座っていた。答えを急かしたり、無理に話題を変えたりしようとはせず、ごく自然な様子で僅かに目を伏せている。
まるで、沈黙に身を委ねているようだった。
理緒を放置しているのではない。黙って同じ時を過ごしてくれているのだ。
多分秋人は、理緒が口を開くまでいつまでも待っているだろう。そして、このまま口を閉ざす方を選んでも、きっと怒らない……。
心の中に安堵が広がっていく。
大丈夫だと思った。
秋人なら、少しくらいつっかえても、言葉に詰まっても、きっと最後まで聞いてくれる。
「私のお父さんは、私が二歳の頃に亡くなっているの……」
一つ深呼吸をしてから、理緒は話し出した。
そこから一つ一つ説明した。母と松田のこと。二人に対する理緒の想い。母と松田に感謝しているからこそ、二人きりの時間を過ごしてほしいと思っていること……。
思ったより長い話になった上に、順序だてて話せたとはとても言えない。
だが秋人は途中で水を差したりせず、黙って理緒の話を聞いていた。
「……だから少しの間、私もここで星を見てから帰るね」
最後にそう言って、理緒はほっと息を吐いた。
全部話せたという安心感で、身体から力がするすると抜けていくのが分かる。
今まで母や松田の件を誰かに話したことはなかった。そうやって抱え込んでいたものを……自分の考えを、誰かに伝えられただけで、心が軽くなった気がする。
真紀や明日香ならきっと、理緒の話を途中で遮って「遠慮しないで早く家に帰っちゃいなよ」と言うだろう。友達を心配してくれているからこそ出てくる言葉なのだろうが、理緒が欲しいのは『正解』や『意見』ではない。
最後まで、余すことなく、話を聞いてくれること……。
「あれ」
理緒の話に耳を傾けていた秋人は、十分な時間を置いてから、すっと上を指さした。
二人の頭上には、いくつもの星が瞬いている。
「夏の大三角だ……」
「え?」
理緒は星空に目を凝らした。
秋人の指先がゆっくりと空をなぞる。
「あの星がこと座のベガ、あれがはくちょう座のデネブ。それから、わし座のアルタイル。夏の大三角だ」
「へー。そうなんだ! もう十月なのに、夏の星が見えるんだね」
理緒は感心して声を弾ませた。星のことは学校で習った程度の知識しかない。
「夏の大三角は、時間によっては真冬でも観測できる」
秋人は指を下ろして、頷いた。
「黒崎くんは、こうやって眺めているだけで星の名前が分かるんだね」
「……いくつかなら」
「すごい! 教えてもらってもいい?」
「上手く説明できるかどうか分からないけど……僕でよければ」
秋人は今現在見えている星の中からとりわけ大きく光って見えるものを選び、星の名前や属する星座を理緒に教えた。言葉の数は少なかったが、解説はとても丁寧で、星空初心者の理緒にも分かりやすい。
インターネットや本で調べもせず、すらすらと説明する秋人を、理緒は心底尊敬した。
「黒崎くんは、昔から星を見ていたの?」
「小学生のころから、時々」
「天体観測って、望遠鏡を使うのかと思った」
「望遠鏡は家になら置いてある。惑星か月を見るときに使う。普段は、双眼鏡だけ持ち歩いてる。……あまり使わないけど」
秋人は足元のリュックサックに軽く視線を落とした。荷物はそれだけのようで、本当に軽装だった。天体観測というより、ただ星空を眺めている、そんな言葉がぴったりだ。
「星空を眺めるときは、何か見るポイントを決めているの?」
理緒がそう尋ねると、秋人は足元の荷物から再び上に視線を移した。
「星の見方はいろいろだけど、僕は空全体を眺めていることが多い。星が空をだんだん動いていくのを見るんだ。自分も相対的に動いているのを感じられるから」
「相対的……?」
理緒が首を傾げると、秋人は腕をスッと伸ばし、再び星を指し示した。
「東から昇ってくる星が空を横切って西に沈んでいく。それを見ていると、地球が回っているのを体感できる。地球が動いているなら、その上にいる僕らは相対的に宇宙を動いていることになる。たとえ地面の上で立ち止まっていても」
秋人はそこまで言うとふっと息を吐いた。そして軽く首を横に振る。
その表情は、どこか寂しそうだ。
「……ごめん。上手く説明できない」
「そんなことないよ」
「説明が下手なんだ。いつも、思っていることが上手く伝えられない」
「ううん。十分だよ。大丈夫。少なくとも、星を見るのって面白いなって思った」
「……なら、いいんだ」
秋人は理緒の隣で、肩の力をストンと抜いた。長い前髪が微かに揺れる。
相変わらず表情から気持ちを読むことはできないが、理緒はその横顔に何だか温かさのようなものを感じた。
「黒崎くんは、いつもここで星を見ているの?」
「いや……。普段は高校の近くの神社に行く。あそこは高台になっていて星がよく見えるし、家からも近いから」
「じゃあ、今日はどうしてこの公園に来たの?」
すると秋人は空を見上げるのをやめて、少し表情を曇らせた。
「神社が立ち入り禁止になっていたから……。代わりになる場所を探してたらここを見つけた」
「え、あの神社、立ち入り禁止になってるの?」
「事件の影響だと思う。現場を封鎖していたのは警察だった」
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