第四章 二人で見上げた星空1
理緒は急な上り坂をゆっくりと進んでいた。十月になると思ったより早く日が落ちる。時刻は夕方の六時過ぎ。あたりはもう真っ暗だ。
細い坂道はきちんと舗装されているものの、両脇は藪だ。勾配がきつく、スローペースで歩いても息が切れる。
『まっすぐ帰るんだぞ』
先ほどの御子柴の言葉が蘇った。あのとき「はい」と返事をしたのに、守れないでいる。
ごめんなさい先生。心の中で詫びつつ、理緒は歩みを止めなかった。
まっすぐ帰るるわけにはいかない。今日は母が仕事を早めに終えて帰宅するからだ。……ある『客』をつれて。
同僚の
一番多いのは会社の帰りに母親が彼を伴ってくるパターンだった。そんなことが何度か続き、最近は会社が休みである土日にも、松田は理緒の家に顔を出す。
年齢は理緒の母より五歳下ということだが、かなりの童顔で、さらに五歳ほど年下に見えた。丸く朴訥な顔とおっとりしたしゃべり方は、会うたびに理緒を和ませてくれる。
松田の実家は農家をしていて、理緒の家を訪れるときは毎回たくさんの野菜を抱えてやってくる。その野菜を使って理緒の母がカレーや鍋を作り、三人で囲むのが最近の恒例となっていた。
食べ終わると、松田はあまり遅くならないうちに帰り支度をし始める。そして去り際、いつも律儀に理緒に聞くのだ。「また来てもいいですか?」と。
松田は理緒の母親だけでなく、同じ分だけ理緒のことも気遣ってくれる。
理緒は彼の訪問をいつも楽しみにしていた。理緒本人が松田にいい印象を抱いているのもあるが、何より、彼が来ると母がとても嬉しそうな顔をするのだ。
松田と母の関係について、理緒は何も聞いていない。だが多分、そう遠くないうちに松田は理緒の新しい父親になるのだろう。
受け入れる準備はできているつもりだった。
母はいつも、理緒のことを一番に考えて生きている。残業が続いて朝が辛くても必ず朝食は一緒に摂るし、弁当だってかかさず作ってくれる。
松田を紹介されてからも、母が理緒のために割く時間は変わっていなかった。仕事に家事……フル稼働する母が、松田と二人きりで過ごせるのはおそらくほんの僅かだろう。
母が親の役割から離れられる時間……恋人とのつかの間の会瀬が少しでも長く続いてほしいと、娘ながらに思う。
だから理緒は、松田が訪れる日、遠回りをして家に帰ることにしている。
三人で夕飯を囲むのを避けることまではしないが、せめて母が料理をしている間だけは、松田と二人きりで過ごしてほしい。
わざと遅く帰っていることを、理緒は母に伝えていなかった。そんなことを言えば「気にしなくていいのに」と笑い飛ばされるだけだ。もしかしたら余計なお節介なのかもしれないが、当分はこの調子で行くつもりだった。
松田が訪問する日、理緒は大抵、真紀とどこかでおしゃべりをして過ごす。
だが今日、その真紀は一足先に帰宅してしまった。ならば学校の図書室に行こうと思っていたが、一斉下校になったためそれもできなくなった。
こんな田舎で、高校生が放課後に行ける場所は限られている。
まずは、高校の近所にある公立図書館だ。理緒はそこで英語の予習をして時間を潰した。
図書館が午後五時で閉館したあとは近くの商店街に足を向け、中にある小さな本屋に立ち寄った。
本好きの理緒がよく行く店だ。そこでしばらく立ち読みをするつもりだったが、店主である気のよさそうなお爺さんの顔を見ていたら申し訳なくなり、結局参考書を一冊だけ買って早々と外に出てしまった。
その時点で、まだ夕方の六時前。
母と松田は、仕事を終えてようやく二人きりになれたところだろう。帰宅するのはもう少しあとにしたかった。他に行けそうな場所はあるだろうか……。
考えあぐねた結果、理緒は今、せっせと坂道を歩いている。
商店街のある場所からバスに乗り、二つ先のバス停で降りたところから、えんえんと続く急勾配。
上りきった場所には、自然公園があった。目的地はそこだ。
このあたりはもともと小高い山だったが、十年ほど前に地元の自治体が公園を作り、そこまでの遊歩道を敷設した。めぼしい見どころがないせいか一帯は常に閑散としているが、勾配のきつい道には一定の間隔で街灯が設置されていてそこそこ明るい。
理緒はその明るさに励まされながら坂道を上りきり、ようやく目的地に到着した。
藪や木々が切り払われ、現れたのはだだっ広い空間だ。秋の心地よい風が頬を撫で、理緒は思わずほっと息を吐く。
街灯があるので、日が落ちていても陰気な感じはしなかった。公園の看板を通り過ぎ、しばらく進むと木造の展望台が建っている。この公園のメインといってもいい施設で、夜間に上れば麓の夜景を一望できる。
以前、友人の真紀をつれてきたとき「うわー何もないね。田舎だと夜景もショボいし」と言われてしまった。その通りだな……とは思うものの、理緒はこの場所がお気に入りである。
展望台からの眺めも悪くないが、最も落ち着けるのは傍にあるベンチだった。少し影になっているせいかあまり利用する者がいないので、一人で寛ぐにはもってこいなのだ。
今日もその指定席へ足を向けたが、理緒はハッと立ち竦んだ。予想外の『先客』がいる。
その人物はベンチに仰向けに寝転んでいた。理緒から見えるのは投げ出された長い脚だけだ。
普段から
すると気配を察知したのか、ベンチからゆっくりと人が起き上がる。
「あっ……黒崎くん?!」
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