第三章 穏やかさの裏の悲しみ 4

 真紀がショートカットを揺らして去ったあと、理緒は集まったレポートを携えて職員室に向かった。

 しかし、そこに担任教師の姿はなかった。仕方なく、社会科準備室に足を向ける。

「ここにもいない……」

 担任は社会科の教師なので、職員室にいなければ社会科準備室で仕事をしているはずである。両方の場所にいないとなると、もはやどこにいるのか見当がつかない。

 理緒は途方に暮れながら、レポートを胸に抱えて再び職員室の方へ歩きだした。

 もしまた職員室に行ってみて担任がいなかったら、先生の机の上に置いておけばいいかな。誰か別の先生に伝言を頼んで……。

 ああでも、机の上に置くだけだと何かの拍子にバラバラになってしまうかも。困ったなぁ……。

「森澤」

 ふいに名前を呼ばれ、理緒の思考回路が途切れる。

 反射的に顔を上げると、長身の白衣姿が目に飛び込んできた。

「御子柴先生」

 理緒を呼んだのは御子柴だった。長身の教師は、そのまますたすたと理緒に歩み寄ってくる。

「突然声をかけてごめんな。何だか深刻そうな顔をしていたから」

 御子柴の言葉は穏やかだった。

 仏頂面で歩いていたところを、よりにもよって学校一のイケメンに見られていたのかと思うと、恥ずかしさで理緒の頬が熱くなる。

「いえ、あの……そんなに困っていたわけでは、ないんですけど……」

「じゃあ、少しは困ってるというわけか」

 しどろもどろな受け答えをする理緒の前で、御子柴は優しそうな微笑みを浮かべた。親しみやすい雰囲気に、理緒の顔が自然と綻ぶ。

 この教師なら、助けになってくれる気がした。

「集めたレポートを持っていかなければいけないんですけど、担任の先生が見つからなくて」

「ああ、なるほど。レポートってそれか?」

「はい」

 理緒は胸に抱えていた紙の束を持ち上げて見せた。

 御子柴は長い指を顎の下に当て、少し首を傾げる。

「森澤のクラスの担任は、確か社会科の香坂こうさか先生だったよな。香坂先生ならさっき、所用で校外に出たぞ。今日は夜の七時くらいまで戻らないはずだ」

「そうなんですか……」

 どうりで姿が見えないわけだ。

 理緒は思わず溜息を洩らした。すると、御子柴が再び優しそうな笑みを浮かべる。

「俺でよければ預かっておこうか。香坂先生が戻ってきたら俺から渡しておく」

「えっ、でも……」

 理緒にとっては都合のいい提案だったが、すぐに頷けなかった。御子柴に負担がかかるのではないかと思ったからだ。

 躊躇いを見せる理緒を見て、御子柴はもう一歩理緒に近づき、さらに言った。

「大丈夫。俺は今日、授業の準備で学校に残る予定なんだ。ほんのついでだから。安心して任せてくれ」

 レポートの束を受け取ろうと差し出された御子柴の手は、甘いマスクに似合わず、思いのほか骨ばっていて男らしい。

 まっすぐに向けられた優しさに心を打たれ、理緒は胸に抱えていたものを素直に御子柴に託すことにした。

「じゃあ、お願いします」

 紙の束が理緒の手から御子柴の手に渡る。

 御子柴はそれを確実に受け取ると、小脇に抱えた。

「OK。引き受けた。……森澤は、今日は日直か何かだったのか?」

「はい。でももうこれで、仕事は終わりです」

「そうか、役割をきっちりこなして、偉いな。ご褒美としてコーヒーでもどうだ? 俺も飲もうと思ってたところなんだ」

 御子柴はそう言いながら顔を斜め上に向ける。

 視線の先には生物準備室と書かれたプレートがあった。そもそも立ち話をしていたこの場所は、御子柴のテリトリーである生物室の前だ。

「気の利いたカフェじゃなくて申し訳ないが、俺はコーヒーにはうるさいんだ。味は満足してもらえると思うぞ。どうだ、付き合ってくれないか」

 相変わらず親しみやすい笑顔を向けられて、理緒は自然と頷いていた。

「はい。お邪魔します」

 御子柴のあとに続いて生物準備室に足を踏み入れる。

 生物室は授業のたびに行くが、準備室の方に入ったのはこれが初めてだ。室内はとても狭かった。せいぜい六畳くらいだろう。そこにスチール製のデスクと回転椅子が二組置かれていて、これらが床面積の大部分を占めている。

 この学校には生物を受け持つ教師が二人いる。二つあるデスクのうち奥に設置されているのが御子柴のデスクらしい。もう一人の教師は席を外しているようだ。机の他にはキャビネットが一つと、中身の詰まった背の高い本棚があり、スペースを埋めている。

「そのあたりにパイプ椅子が立てかけてあるはずだ。適当に座ってくれ」

 理緒は言われた通り折り畳みのパイプ椅子を出してそこに腰かけた。御子柴は理緒から預かったレポートを丁重にキャビネットにしまってから、窓際の台に歩み寄る。

 そこに載っていたコーヒーマシンのスイッチが入ると、すぐにいい香りが室内に漂ってきた。

 かなり大型のマシンだ。コーヒーメーカーなら理緒の家にもあるが、それとは全く違う形状をしている。家庭用ではなくお店などにあるようなタイプなのかもしれない。

「本格的な機械ですね」

 コポコポと音を立てる機械を見つめながら、理緒は素直に感想を述べた。御子柴はマシンの横にあるケースからカップやシュガースティックを取り出しつつ、少し嬉しそうな顔をする。

「だろう? 俺の私物だよ。性能にこだわったらこうなった。これで淹れると味がいいんだ。他の先生方からもおおむね好評だしな」

「他の先生も飲みにくるんですか?」

「ああ。ここにこのコーヒーマシンを持ち込んで以来、毎日誰かしら来てる。喫茶店でも開いてるような気分だよ。ほら、熱いから気を付けてな」

 理緒の目の前に湯気の立つカップが差し出された。それを両手で包むように受け取ると、濃厚な香りと湯気が間近に迫ってくる。

「いただきます」

 理緒はまず、何も入れずにブラックのまま口に含んだ。普段飲んでいるコーヒーと比べて、違いは歴然だった。ほろ苦さとコクが舌にぱっと広がり、あまりのおいしさに目を見張る。

 理緒は普段、コーヒーにはミルクと砂糖を入れるが、これはブラックのままの方がよさそうだ。

「美味しいです。びっくりするくらい」

「そうか。ならよかった」

 御子柴は自分のカップにもコーヒーを注ぎ、それを片手にデスクに歩み寄った。デスクの上は何かの冊子やノートに加え、たくさんのプリントの類で埋まっている。

 よく見るとノートパソコンも置いてあったが、紙片の中に半分以上隠れていた。自分のデスクの惨状を確認して、御子柴は苦笑した。

「我ながらひどい机だな。森澤とこうしてコーヒーを飲むと分かっていたら、もう少し片づけておいたんだが」

 デスクの中で一番存在感を放っているのは一冊の分厚い本だった。表紙には『Genome』の文字が見える。どうやら外国語で書かれているようだ。

「難しそうな本……」

 理緒が言うと、御子柴はその本を片手で取り上げた。

「ヒトゲノムの論文をまとめた本だ。昔、大学でこの辺を専門にやっててね」

「どんな研究だったんですか?」

「ヒトゲノムを解析してデータ化したあと、それを他の動物と比べたりしながらヒトの進化について探る……。簡単に言うと、そんなところだな」

 御子柴は説明しながら、何かに想いを馳せるように本に視線を落としていた。

 その顔に少し翳りを感じて、理緒は昼休みに真紀たちとした話を思い出す。

 あの分厚い本に書かれているのは『昔』やっていた研究だと御子柴は言った。

 優秀な研究者だった御子柴は、その道を諦めたからこそ今ここにいる 。

 片田舎のただの高校教師として、理緒の前に……。

「研究は楽しかったですか?」

 気が付くと、そんな質問が口をついて出ていた。御子柴は手にしていた本を再び机上に戻すと、軽く溜息を吐く。

「楽しかったよ。自分で選んだ分野だったからな……」

 寂しそうな笑顔だった。胸の奥が何だか苦しくなって、理緒は空になったカップに目を落とした。

「少し辛気臭い顔をしすぎたな。済まない、森澤」

 御子柴が苦笑しながら言った。

「いえ、先生が謝ることじゃ……」

「研究もそれなりに楽しかったが、今の仕事もかなり気に入っているんだぞ。研究をしていたときは数字が並んだ画面を見ているだけだったが、今はこうやって生徒や他の先生と向き合える。生身の人間相手の方が何倍も面白いじゃないか。……それに俺は、ふるさとに戻ってこれたのもよかったと思ってる。ここは空気が綺麗だからな」

 その口調は明るかった。先ほど垣間見えた翳りはもうどこにもない。

 御子柴の爽やかな笑みを見て、理緒は安堵した。

「確かに、このあたりは東京より緑が多いかもしれませんね」

 高校や駅の近くはそこそこ開けているが、少しも歩けば森があり、周りは低い山に囲まれている。自然なら、売るほどあると言っていい。

「豊かな環境は人体にいい影響をもたらす。ここなら健康に過ごせると思ったから、俺は戻ってきた」

 その話を聞いて、理緒は気付いた。

 御子柴が気にしているのは自身の身体についてではない。

 おそらく……。

「お母さまのご様子は、いかがですか。介護をされているんですよね、先生」

「ああ、森澤も事情を知ってたのか。まぁ別に隠してることじゃないからな」

「そのために研究をやめて実家に戻ってきたと聞きました」

「研究職は意外と時間が不規則なんだ。今の仕事なら少なくとも深夜まで拘束されることはないから、母の世話をするのにちょうどよかった」

「介護は、大変だと思います……」

 こんな、至極当たり前のことしか言えなかった。

 夢を諦めるのは辛くなかったですか。泣きたいと思ったことはないんですか。どうしていつも、そんなに優しくて穏やかな顔をしていられるんですか……。

 聞きたいことはいくつもあったが、言葉が出てこない。

 理緒は込み上げてくる想いを沈黙に変えて、御子柴の顔を見つめた。

「大変と言えば大変なのかもな。だがさっきも言っただろう。俺は今、多くの時間を『生きている者』と向き合って過ごしてる。学校にいる間も……介護の場面でもな」

 御子柴は言葉を切り、理緒の方に少しだけ身を乗り出した。

「ここに戻ってこなければ、森澤みたいないい生徒とも出会えなかった。だから後悔はしていない」

「先生……」

 その時、静かな空気をつんざくような電子音が鳴り響き、理緒と御子柴は同時に動きを止めた。

 ピンポンパンポーンというこの音は校内放送を知らせるためのものだ。

 理緒たちは一度顔を見合わせてから、耳を澄まして放送の続きを待った。

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