第三章 穏やかさの裏の悲しみ 3


 放課後。理緒は教室の片隅で困惑していた。

 目の前にはあるじのいない机がある。秋人の席だ。

 理緒は本日の日直だった。放課後、担任から全員分のレポートを集めて持ってくるように言われ、クラスメイトに提出を呼びかけたのだが、ただ一人――秋人だけが未提出なのだ。

 秋人の分を回収すれば日直の仕事が終わるのに、肝心の本人がいない……。

 ちなみに、レポートのテーマは『校外学習で学んだこと』だ。

 理緒を含むT高の二年生は、先月……即ち九月の終わりに校外学習の一環として近郊の観光地を訪れた。校外『学習』などという大層な看板を掲げているが、内容はグループごとの飯盒炊飯体験や自然散策など、どちらかというと遊びに近い。

 ただの遊びで終わらないように、教師たちがレポートの提出を課しているというわけだ。

「ねえ、黒崎くんって、どこに行ったか分かる?」

 理緒は近くにいた男子生徒に声をかけてみた。

 途端に、顰め面が返ってきた。

「さぁ。あいつのことなんて知らねぇな」

 明らかに「黒崎のことなんて聞くなよ」という表情だ。

「困ったなぁ……」

 理緒が溜息を吐くと、男子生徒は秋人の机をちらりと見てから言った。

「もう鞄もねぇし、帰ったんだろ。でもまぁ、さっき授業終わったばっかだからまだその辺にいるんじゃね? 追いかけてみれば?」

「そうだね。そうしてみる」

 理緒はレポートの束を胸に抱え、急いで教室を出た。廊下を小走りに移動して、まっすぐ昇降口を目指す。

 その姿はすぐに理緒の目に飛びこんできた。長い前髪と、きらりと光る銀フレームの眼鏡がどこかに行ってしまわないうちに、名前を呼ぶ。

「黒崎くん!」

 秋人は下駄箱から靴を取り出そうとしていた。突然登場した理緒を見て、無表情のまま動きを止める。

「あの……黒崎く……レポート」

 追いついたのはいいものの、急ぎすぎて息が切れていた。理緒は靴を持って突っ立っている秋人をそのまま待たせ、はぁはぁと呼吸を整えてから口を開く。

「あのね、私、校外学習のレポートを集めてるんだけど、黒崎くんまだ出してないよね」

「参加してない」

 理緒が言い終るか終わらないかのところで、秋人の短い一言が飛んできた。

「え?」

「僕は校外学習の日に学校を休んだ。参加していない生徒はレポートを出さなくてもいいことになっていたから……」

「あ……そうだったんだ」

 理緒は少し拍子抜けしてしまった。

 よく考えてみれば、秋人は学校の勉強や委員の仕事は真面目にこなす。出さなくてはいけないレポートは、きっちり提出してから帰るはずだ。

「ごめんね。お休みしてたって知らなくて。折角の校外学習なのに、風邪でも引いてたの?」

 理緒の問いに、秋人は少し逡巡してからボソっと呟いた。

「……学校の行事にあまり興味がなかったから、行かなかった」

「えー……っと、そ、そうだったんだ……」

 身も蓋もない言い方をされて、返す言葉が見当たらない。まごまごしていると、秋人は理緒から視線を反らして下駄箱に入っていた革靴を取り出した。

「もう帰っていいかな」

「あ、うん。呼び止めてごめんなさい」

 秋人は素早く靴を履き替えると、理緒の方を少しも見ずに学校の外に出て行った。音もなく遠ざかっていくその背中を見送ってから、理緒は踵を返す。

「理緒」

「あ、真紀ちゃん」

 振り向くと、鞄を肩に担いだ真紀が立っていた。

「日直お疲れ! 黒崎のレポートまで気にしなきゃなんないなんて、ホントお疲れ!」

 真紀は理緒の肩をポンポンと労うように叩いた。

「私と黒崎くんの話、聞いてたんだね」

「まあ、最後の方だけね」

 真紀は秋人が去った方を睨みつけたあと、やれやれと溜息を吐いた。秋人のことになると、みんなこうやって微妙な表情をする。

「みんなでわいわい騒げる行事にキョーミないなんて。マジで暗いよね、黒崎って。何考えてるか分かんない。ほんっと不気味な奴だわー」

 バッサリと吐き捨てた真紀に、理緒は顔を顰めた。

「ちょっと真紀ちゃん……いくらなんでもその言い方……」

「えー、だって不気味なものは不気味じゃん。他人嫌いで一人が好きなのは否定しないけど、度が過ぎてるでしょ。それに、何かお高く止まってる感じ? こんな田舎で公然と騒げるのは学校行事くらいだよ。『あまり興味がなかったから、行かなかった』って……。楽しんでるあたしたちのこと馬鹿にしてるんじゃないの?」

「馬鹿にしてるなんて……そんなことはないと思うけど」

 理緒は昨日、図書室で秋人と話したことを思い出していた。

 交わした言葉は少なかったが、理緒にとってはそれで十分だ。少なくとも、彼の考えていることが僅かだが分かった気がする。


『……君が委員の仕事を放り出すようなことをしないのは分かってる。でも……何かあってからじゃ、遅いから』


 分かってる、と秋人は言った。理緒のことを心配してくれた。

 おそらく、言葉には出さなくても、秋人はクラスメイトのことをちゃんと見ている。みんな、秋人のことを少し誤解しているのだ。今までの理緒がそうだったように。

「そういえば理緒は昨日、あの黒崎と図書委員の仕事したんだよね。……どうだった? やっぱりいつも通り、むっつり黙り込んでた?」

「ううん。少しだけど話したよ。黒崎くんがいてくれて、助かった」

 理緒がそう言うと、真紀が驚きの表情を浮かべた。

「えっ、あの黒崎と話したって、嘘でしょ?! 罵詈雑言でも浴びせられたの?!」

「そんなことあるわけないでしょう。普通に話しただけだよ」

 理緒は昨日図書室で起こったことを真紀にかいつまんで話した。

 本を床に落としてしまったところを助けられたと説明すると真紀は「ほー」とか「へー」と、溜息を連発していた。秋人が誰かと会話したという事実がよほど面白かったようだ。

「そっか。黒崎も人間の言葉をちゃんと使えるんだね……」

「真紀ちゃん、そんな……黒崎くんがまるで宇宙人みたいな言い方……」

「宇宙人よりひどいよ。でもその黒崎に口を開かせるなんて、理緒ってばすごくない? 魔法でも使ったわけ?」

 秋人は人外扱いで、理緒は魔法使いにされてしまった。

 散々好き勝手なことを言ったあと、真紀は「うーむ」と首を捻る。

「でもまあ、さすがの黒崎も、全く話さないってことはないか。もともとは普通にしゃべってたみたいだし」

「えぇっ、それ、どういこと?」

 理緒は思わず身を乗り出していた。

 寡黙な秋人が普通にしゃべっていたとは、一体どういうことだろう……。

「どうもこうも言った通りだよー。黒崎って小学校の途中まではもっとずーっと、明るかったんだって」

「えっ……そうなの?」

「うん。黒崎と小学校と中学校が一緒だったっていう男子が隣のクラスにいて、話を聞いたんだ。黒崎は小学校の途中までは明るいっていうか、むしろリーダータイプで、率先してよく喋る子だったみたいだよ」

「…………」

 理緒は黙ったまま立ち尽くしてしまった。

 明朗活発な秋人の姿など、全く想像できない。彼の人を寄せ付けないオーラはもはや鉄壁と言っていい。どうしても、もともと備わっていたものだと思えてしまう。

「小学校の途中までは普通だったのに、どうして今は……」

 ゆっくり声を絞り出すと、真紀は肩を竦めた。

「それがさー、よく分からないの。どうもその時期に黒崎にとって何か重大なことがあったらしいんだけど……」

「何か重大なことって、何?」

「さあね。家庭の事情らしいけど、詳しく聞けなかった。とにかく、突然しゃべらなくなったみたい。他人を寄せ付けなくなったのもその辺からだって」

「……そうなんだ」

 普通の小学生がぱったりと口を噤み、表情まで失くしてしまうなんて、何かよほどのことがあったに違いない。

 そしておそらくそれは、よくない方の『何か』だ。一体、何が……。

 考えれば考えるほど俯きがちになっていた。そんな理緒の肩を、真紀がポンと叩く。

「それより理緒。レポート出してきちゃいなよ。黒崎の分は集めなくていいんでしょ?」

「あっ、そうか。そうだね」

 課せられていた日直の仕事を思い出した。

 顔を上げた理緒の横で、真紀が鞄を担ぎ直す。

「じゃあ、あたしは帰るね。職員室までレポート出しに行くのに付き合ってあげたいけど、今日は用事があってさぁ」

「気をつけて帰ってね、真紀ちゃん」

「うん。また明日ね理緒!」

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