第三章 穏やかさの裏の悲しみ 2


 同じクラスの明日香あすかだ。たまたま空いていた隣の席にさっと座った彼女の手には、パックの飲み物とチョコ菓子の箱箱がある。すでに昼食を済ませていて、お菓子はデザートにするつもりらしい。

「御子柴先生がイケメンすぎるって話をしてただけだよー」

 真紀はそう答えながら明日香に向かって手の平を差し出した。明日香はその手にチョコ菓子を二つ載せ、理緒にも同じ数だけ分配する。

「あー、確かに御子柴先生はカッコイイよね! ヘタな芸能人よりよっぽどいい」

 チョコを配り終えた明日香は頬を紅潮させた。

 真紀はそんなクラスメイトを見て、ニヤニヤしながら脇腹を小突く。

「ちょっと明日香。あんたそんなこと言っていいの? カレシいるじゃん。浮気ぃ?」

「やだなぁ真紀。浮気なんかじゃないって。リョウくんとは仲いいし、さっきも一緒にお昼食べたばかりだよ。御子柴先生は、何ていうか、アイドルみたいなものなの。彼氏がいようがいるまいが、女子だろうが男子だろうが、あの先生のことはみんな好きになっちゃうって」

 明日香は少し困ったような顔で反論する。

 『リョウくん』とは明日香の彼氏で、一つ年上の三年生だ。二人が付き合っていることはすでに学校じゅうが知っている。

「え~、でも、アイドルにガチ恋する人だっているじゃん。明日香もリョウ先輩を差し置いて、御子柴先生に……なーんて」

「もー! そんなんじゃないってば。カッコイイって言っただけじゃない。ねぇ理緒。別にコレ、浮気じゃないよね?」

 ふいに話に巻き込まれ、返答に困る。

 普段から聞き役に回ることが多い理緒だが、この手の話題のときはそれが特に顕著だった。誰かと付き合ったりした経験がまだないので、的確な言葉が出てこない。

 母親は「彼氏が出来たら早くうちに連れてらっしゃい」と楽しみにしているようだが、理緒はまだ『恋心』自体にいまいちピンと来ていなかった。期待に応えるのはだいぶ先になるだろうな、と思っている。

「ま、なんだかんだ言って、御子柴先生はものすごーーーく、カッコイイよね」

 明日香をさんざんからかっていた真紀は、やがてそう結論付けた。

「うんうん。あんなにカッコイイ上に、スポーツもできるしね!」

 私が好きなのはリョウくんだけ……などと言っていた明日香は、再び頬を染めて頷く。

「しかも御子柴先生って国立の医学部に行ったあと、K大の大学院に移って生物の研究してたんでしょ。もう完璧すぎて、どこからツッこめばいいか分かんないよ」

 真紀と明日香は口々に御子柴を褒め称えた。

 黙ってやり取りを聞いている理緒も、特に異存はない。

 現在三十四歳の御子柴は、ベテランが多いT高校の教師の中では若手になる。真紀が口にした通り国立大学の医学部に進んだが、生物学の分野に興味が出て、途中からはそちらの道を選択したらしい。

 生物の研究者として、御子柴が残した成果は多大なるものだった。何度か権威のあるサイエンス雑誌に論文が掲載され、御子柴惣一郎の名前は研究職を離れた今でも界隈に轟いている。

 頭脳明晰なだけではなく運動神経も抜群で、高校のときにテニスの全国大会に出た経験もあるとのこと。

 この御子柴のプロフィールは、T高にいる全ての者が把握している。御子柴が自ら暴露したわけではなく、生徒が自主的にインターネットなどで調べて広めたのだ。どの情報も御子柴の熱心なファンによって徹底的に洗われ、経歴の全てに誇張や偽りがないことが証明されている。

「うーん、でも、何でそんな優秀な人がこんな片田舎で高校教師やってるんだろう」

 御子柴を一通り褒めたたえたあと、やや冷静になった明日香が首を傾げた。

 そう言われてみると、理緒も不思議だった。高校教師は立派な仕事だが、御子柴の抜きん出た優秀さと比較すると少し釣り合っていない気もする。

「あたし、その理由知ってるかもー。どうしよう、話そうかなー。どうしようかなー」

 すると、真紀がニヤリと不敵な笑みを浮かべた。もったいぶっている様子ではあるが、ぜひとも聞いてください、という表情だ。

「すごい真紀。さすが情報屋! 教えて教えて!」

「えへへ。仕方ないなぁー」

 明日香におだてられると、真紀は得意げな顔で話し出した。

「御子柴先生は、お母さんの介護のために大学の研究室を抜けて、先祖代々住んでるこの土地に戻ってきて高校教師になったんだって」

「何それ、ホント?」

 明日香は目を丸くした。理緒も初耳で、同様に驚く。

「ホントだよ。御子柴家って、先生のお父さんの代まではずっと医者だったの。御子柴医院っていう診療所をやってて、うちのお母さんが昔、よくそこで診てもらってたんだって。だからお母さんは御子柴家のことを少し知ってるんだよね。そのお母さんから聞いた話だし、間違いないと思う」

「その御子柴医院っていうのは、もうないの?」

 理緒がそう訊くと、真紀は頷いた。

「うん。今御子柴先生が住んでる家がその跡地だよ。先生のお父さんは、先生と先生のお母さんを残して早くに亡くなったから、診療所はあたしたちが生まれる前に閉鎖になっちゃったみたい。先生は一人息子で、最初は医学部に行ったけど結局生物の方に進んだでしょ。だから後継ぎもいないの。先生が進学で上京してから、先生のお母さんはしばらく一人でその跡地に住んでたんだけど、体調を崩しちゃってね。だから先生はまた実家に戻ってきたってわけ」

 一度都会に出た若者がまた田舎に戻ってくる……これ自体はよくあることだ。

 だが真紀の話を総合すると、戻ってきたというより戻らざるを得なかったというのが正解だろう。

 理緒には生物の研究がどういったものなのかよく分からないが、親の介護と両立するのが難しいことくらいは見当がつく。御子柴は母親のために有望視された研究者の立場を捨て、ビルより畑の多いこの場所で、高校生を相手に教科書を読み解く日々を選んだのだ。

「御子柴先生って苦労人だったんだ。なんか……泣けるね」

 明日香は目にうっすらと涙を溜めて言った。

 理緒も同じ気持ちだった。

 普段の御子柴は、厳しいものを背負っていることなど微塵も感じさせない。多くの生徒が御子柴を思い浮かべるときに出てくるのは、人当たりがよくて明るい姿だ。

 実際に親の介護をするとなると、大変以外の何物でもないだろう。やりたかった研究を辞すのだって、とても悲しいはずだ。

 御子柴は、生徒に囲まれて穏やかに微笑む裏で、いつもどんな想いを抱いているのだろう……そう思うと、理緒の胸に切ない感情が込み上げる。勝手に悲しんだりするのはエゴなのかもしれないが、心を痛めずにはいられない。

 俯きがちになってしまった理緒の傍らで、真紀がふぅっーと一つ息を吐いた。

「感動するよねー。あたしも最近、お母さんからこの話聞いたばっかりでさ。それまで御子柴先生がこんなに大変だなんて全然知らなかった。めっちゃ優秀な人のに、こんな田舎の高校で教師やらせとくなんてもったいないよー」

「まぁでも、御子柴先生がこの高校の先生をやっていなかったら出会えなかったわけだしねぇ。研究を途中で諦めたのは可哀想だけど、わたしとしては結果オーライだなぁ」

 明日香は目の端に溜まっていた涙をさっとぬぐってたちまち笑顔になる。

「あー、明日香ってばまた浮気してる!」

「だから浮気じゃないって! もー、真紀に何とか言ってやってよ理緒」

 真紀と明日香は再びじゃれ合い始めた。

 理緒はそんな二人を見て軽く微笑みながら、心の片隅では御子柴のことを考えていた。

 だがいくら考えても脳裏を過るのはあの穏やかな笑顔で、そのことが余計、理緒の胸を切なくさせた。

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