第三章 穏やかさの裏の悲しみ 1






「じゃあ次は連鎖と組み換えの計算問題だ。遺伝の範囲の中でもちょっと難しい部類だな。よし、せっかくだから、誰かに前に出て解いてもらおう」

 白衣を着た長身の教師が、軽く笑みを浮かべながら名簿を取り上げる。女子生徒のうち何人かが、その姿を見てうっとりと溜息を漏らした。

 今行われているのは生物の授業だ。教壇に立つ御子柴惣一郎みこしばそういちろうは、T高イチのイケメン教師と呼ばれている。

 そう言われるだけのことはあり、御子柴の顔立ちは芸能人と比べても見劣りしないほど端正だった。性格は明るく温厚で、当然生徒からの人気はすこぶる高い。イケメンに目のない女子はもちろん、男子にも御子柴のファンは多い。

 基本的に生徒に優しい教師ではあるが、御子柴は授業に手を抜かない。難しい問題でも容赦なく当ててくる。

「ヤバっ。今日って十六日? 出席番号十六番ってあたしじゃん。当てられそうだよー」

 理緒の隣で、真紀が口をへの字にして嘆いた。親友の予想は外れていないだろう、と理緒は思う。だいたいの教師は、日付と出席番号をもとに生徒を指名するのだ。

 生物の時間は、教室ではなく生物室に移動して授業を受ける。自由席なので、真紀とはいつも隣同士だった。

 クラスメイトの多くは真紀の隣の席を指して『助っ人シート』と呼んでいる。なぜなら、授業で当てられると、真紀が隣に座った者に泣きつくから……。

 特に理系の科目になると、その傾向が顕著になる。

「ねえ理緒~。ちょっとノート見せて」

 案の定、真紀は理緒の方に身を寄せて、半ば拝むように言っってきた。こういうことはもう慣れっこの理緒は、すでに問題の答えが書きこまれたノートを素早く隣に滑らせる。

「じゃあ、佐川真紀。解いてくれ」

 予想通り御子柴に指名された真紀は、黒板の前に出ると理緒のノートの内容をそっくりそのまま書き写した。

 御子柴は赤いチョークでマルをつける。

「うん。正解。よくできたな」

「えへへ。御子柴先生、あたし、偉いでしょ? もっと褒めてよ!」

 黒板の前に立った真紀は、頬を紅潮させて大きく胸を張った。渾身のドヤ顔だ。

 だが御子柴はふっと一つ溜息を吐いて、真紀が手にしていたノートを指さす。

「佐川。前に出て書いてくれたのは確かに偉いぞ。森澤理緒のノートを丸写ししなければもっと偉かったな」

 ノートの表紙には理緒の名前がくっきりと……。

「うわっ! バレた!」

 真紀の顔が耳まで顔を赤くなった。

「今の問題は森澤が解いたことにする。でもせっかく黒板のところまで来てもらったし、佐川には次の問題を解いてもらおうかな。今度は森澤のノートを見ないで」

「嘘、無理! カンベンしてくださ~い!」

 黒板の前では真紀と御子柴の楽しいやり取りがまだ続いている。まるでコントのようなやり取りに、生物室のあちこちから笑い声が上がる。

 そんな中、秋人だけが一人、無表情だった。

 一番端の席で教科書に目を落とすその様を、理緒は横目でそっと窺う。

 相変わらずの鉄仮面ぶりだったが、秋人は黙っていても相手のことをちゃんと考えているし、思いやりだってある。昨日、二人で図書委員の仕事をこなしたことで、それが分かった。

 秋人は真紀とは違い、心の中のことが顔に現れるタイプではないのだ。でも、少し待てば必ず答えてくれる。

 次に図書委員の仕事をするときは、黒崎くんともう少し話せるかな……そこまで考えたところで、真紀が黒板の前から戻ってきた。

「ノート、ありがと。理緒」

 小声でそう言われたので、理緒も囁き返す。

「結局、私のを写したってバレちゃったね」

「ズルは駄目ってことがよ~く分かったよ。でも御子柴先生とたくさん話せたからいいや」

 生物は苦手のようだが、真紀も御子柴ファンの一人だ。

 それから十五分ほど過ぎたころ、授業終了のチャイムが鳴り響いた。

「よし、じゃあ今日はここまでだ。来週は次のページからだな。このあいだ開始した交配実験の方も、各班ごとにきちんと進めておいてくれよ」

 御子柴のその台詞が授業の締めの合図となった。これが午前中最後のコマなので、今から昼休みということになる。

 授業が終わると女子生徒たちがわらわらと教卓を取り囲み始めた。生徒に人気のある御子柴は、休み時間のたびにこうしてみんなの輪の中心になる。

「さっすが御子柴先生。昼休みのうちは女子から開放されそうもないね」

 きゃあきゃあと黄色い歓声を上げる集団を見ながら真紀が言った。理緒は教科書やノートをトントンと揃えながら相槌を打つ。

「ホントだね。御子柴先生、人気者だもんね」

「あの輪の中に加わって御子柴先生と話したい気持ちもあるけど、あたしたちはお昼にしない? お腹すいちゃった」

 真紀にかかると花より団子、イケメン教師よりお昼ご飯。

 女子高生の割に色っぽさが微塵もないが、これがいつもの真紀だ。理緒はにっこり笑って頷く。

「うん。そうしよう」

 理緒と真紀は女子生徒の垣根ごしに御子柴に一礼したあと、生物室を出た。

 この高校には購買と食堂がある。高校のすぐ隣にはコンビニとパン屋が並んでおり、そこまで昼食を買出しに出る生徒もいる。理緒と真紀は弁当派だった。二人で並んで廊下を歩き、自動販売機に立ち寄ってお茶を買う。

 理緒の分は「さっきノート見せてもらったから」と真紀が奢ってくれた。ついでに手も洗い、教室に戻ったところでランチタイムの始まりだ。

 ランチボックスの蓋を開けた途端、黄色くつやつやした玉子焼きが目に飛び込んできて、理緒は思わず顔を綻ばせた。

 弁当は毎朝母親が作ってくれる。理緒の母は働いていて朝も晩も忙しくしているが、弁当作りだけは欠かしたことがなかった。手作りのおかずのうち、理緒が一番好きなのがこの玉子焼きだ。いただきます、と手を合わせてから箸をつける。

「理緒のお弁当、いつも美味しそうだよねぇ」

 真紀が自分の弁当と理緒の手元を見比べながら言った。

「美味しいよ。お母さんは大変そうだけど」

「あ、そうか。理緒の家ってお母さんバリバリの正社員だもんねー。でもそのお弁当、凝ってて美味しそー。特に唐揚げとか……」

 真紀の熱烈な視線を感じて、理緒は二つある唐揚げをひとつ真紀の口に入れてやった。真紀は代わりに自分の弁当箱に入っていたウインナーを理緒に差し出す。

「あ、やっぱ美味しー! この唐揚げ、冷凍食品じゃなくて手作りだよね。ちょっとうちのお母さんにも見習ってほしい味だわ」

「真紀ちゃんのお弁当だってなかなかいい感じだと思うけど」

 交換したウインナーの感想を兼ねて理緒がそう言うと、真紀は大袈裟に頭を振った。

「ううん。うちのなんてまだまだ。女一人で家を支えて、こんな美味しいお弁当作っちゃう理緒のお母さんはホントすごいって!」

 理緒の父親は、理緒が二歳を過ぎたばかりのころ、若年性のガンでこの世を去っている。

 以来、ずっと母親と二人暮らしだ。

 理緒の母親は、夫を亡くしたあと、幼い娘を抱えて母親と大黒柱としての役目を一挙に担ってきた。しばらくは仕事をセーブしながら家のことと仕事を半々の割合でこなし、本格的に仕事に復帰したのは理緒が小学生になってから。今では会社でそれなりのポジションに就いているようで、残業もフルにこなし、帰宅が深夜になることもある。

 帰りがどんなに遅くなっても、翌朝必ず弁当を作って理緒を送り出してくれた。参観日の類は欠かさず来るし、理緒が相談事を持ちかけると納得のいくまで応じてくれる。

 お陰で、父親がいなくても不自由はしなかった。母娘おやこ喧嘩は時々するが、適度な距離感を保って見守ってくれる母親を、理緒は心から頼もしいと思っている。

「それにしても、御子柴先生はホント、イケメンだよねぇ」

 いち早く弁当箱を空にすると、真紀はパックのお茶にストローを差しながら言った。空腹を満たしたあとですかさずイケメンの話題を出してくるところが実に真紀らしい。

「ねぇねぇ、御子柴先生がどうしたの?」

 そのとき、横から別の女子生徒が口を挟んできた。

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