第二章 初めて交わした言葉 2
半分消え入りそうな声で尋ねると、秋人は静かに答えた。
「今すぐ帰れば、君の友達に追いつけるかもしれない」
「友達って、真紀ちゃんのこと? あっ……!」
思い当たる節があり、少し大きな声を出してしまった。その声に反応して、図書室にいた生徒の何人かが睨むような視線を送ってくる。
理緒は身を縮めて秋人に一歩近寄り、今度は囁くように言った。
「もしかして、私と真紀ちゃんの話、聞こえちゃってた?」
長い前髪の隙間から、秋人の視線がまっすぐに注がれている。それが首肯の代わりだと理緒は理解した。
さっき教室で、真紀は理緒に放課後の誘いをかけた。しかも秋人の方をチラチラ見ながら。理緒も真紀と遊べないことを残念がったのは事実だ。しかも、二人して秋人の方をチラチラ見ていた。
こうなると「仕事をほったらかしにして真紀と遊びたがっている」と取られても仕方がないしれない。
しかし理緒は図書委員としての仕事をサボるつもりなど全くなかった。今までだって一度もほったらかしにしたことはない。真面目にこなしていたつもりだったが、秋人からの信用は得られていないのだろうか。
「さっきは黒崎くんのことを勝手に話題にしちゃってごめんなさい。でも、私は黒崎くんに委員の仕事を押し付けて、真紀ちゃんと帰っちゃうなんてことは……」
「違う」
理緒の言葉の途中で、秋人は首を微かに横に振った。
「そういうことを言いたいんじゃないんだ。僕はただ……」
秋人はそこまで言うと、本棚を見つめたまま黙った。二人の間に沈黙が訪れる。
それは、これで話が終わりだと思えるほどの長い沈黙だった。
だが理緒は黙って秋人が再び口を開くのを待った。秋人が言葉を選んでいるだけだと思ったからだ。
やがて思った通り、沈黙は静かに破られた。
「僕はただ、今すぐここを出れば、君は一人で帰らずに済むと思って……」
「一人で帰らずに、済む?」
秋人の言葉はもどかしいほど慎重だった。
「……あんな事件があったから、日が落ちてから一人で歩くのは危ない。だから……」
理緒はそこでようやく秋人の真意を掴んだ。
秋人は自分が一人になりたいから帰れと言っているのではない。クラスメイトを邪険にして追い払おうとしていたわけでもない。
ただ、理緒を夜道で一人にしたくないと思っているのだ。
「黒崎くん、私の帰り道を心配してくれてたの?」
確かめるようにそう聞くと、秋人は微かに頷いた。
「……君が委員の仕事を放り出すようなことをしないのは分かってる。でも……何かあってからじゃ、遅いから」
分かってる。
その言葉は理緒の胸を一杯にした。秋人は理緒のことをきちんと見ていた。信頼もしている。その上で、理緒の身を案じてくれていたのだ。
「だから、帰ってもいいよ」
秋人は再びそう言った。先ほどと全く同じ台詞を。
しかしその中に、拒絶の雰囲気はなかった。理緒にはもう、秋人の真意が伝わっている。
「黒崎くん。私のことを考えてくれてありがとう。でも大丈夫。私はバス通学だから、一人で歩く時間は少ないの。それにうちはそんなに遠くないから、委員の仕事が終わっても遅くならないうちに帰れるし。だから、最後まで委員の仕事をしたい」
理緒の言葉を聞き終わると、秋人は軽く息を吐いて頷いた。
「分かった」
そこで、二人の間にある空気がふっと緩む。
理緒の心の中が、何か温かいもので満たされていく気がした。分かり合えたことが、とても嬉しい。
「森澤さん」
ふいに名前を呼ばれてドキリとする。
「は、はい」
「僕が本を棚に戻すから、君は……」
言葉の途中で、秋人は後ろを振り返った。彼の視線の先にあるのは図書室のカウンターだ。
それだけで、理緒には秋人の意図が十分に伝わった。
「うん。分かった。私はカウンターの方をやるね」
理緒は大きく頷くと、踵を返して自分の持ち場を目指した。
ほんのりと温かくなった胸をそっと押さえながら。
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