第二章 初めて交わした言葉 1
図書室に着くと、秋人が先に来ていた。メタルフレームの眼鏡を時折押し上げながら、カウンターの端で、いつものごとく完璧な無表情で文庫本に目を落としている。
理緒は秋人の方をちらっと見ながら彼と同じようにカウンターの裏に回った。そこには図書委員や司書教諭が座って、貸し出しや返却の受付などの軽作業ができるようにテーブルが備え付けてあるのだ。
受付業務の方は、黒崎くん一人で何とかなりそう……そう思い、理緒は傍らにあった小さなワゴンに向き直る。
そこは返却された本を一時的に置いておく場所だった。返ってきた本がここにいくらか貯まったときは、ワゴンを押して棚の間を歩き、日本十進分類法に基づいて分類されている本を棚の所定の位置に戻す作業を行う。
図書委員の仕事は、貸し出し・返却のカウンター業務と、この本を戻す作業がメイン。ワゴンを覗くと、中には返却済みの本が二十冊程度置かれていた。そろそろ棚に戻す作業をしたほうがよさそうだ。
理緒は本の背表紙に貼られたラベルをもとに、ワゴン内の本をジャンルごとに並べなおしてからワゴンを押して書棚へ向かった。
真っ先に行ったのは、『日本の小説』が並べられた棚だ。
図書室で一番数が多いのが、このジャンルの本だった。理緒もたまに借りて帰ったりする。
本を読むのは割と好きだ。自分で本を購入するには限度があるので、図書室の存在は有難い。四月の委員決めのとき図書委員を選んだのも、大好きな図書室に関われると思ったからだ。
だが、もう一人の委員があの秋人というのは想定外だった。他人嫌いと言われている彼がすぐ傍に座っていると、大好きな図書室にいてもなんだか緊張してしまう。
一緒の委員になってもう半年だが、今まで秋人と話をしたことは一度もなかった。
これからも口をきくことなんてないのかもしれない……そんなことを思いながら、理緒は一番手前にあった本を棚に戻すため、棚を見上げる。
どうやら今手にしている本は、一番上の段に戻さなくてはならないようだ。理緒にとっては高さがありすぎる。背伸びをすればなんとか手が届くが、棚の奥まで本を差し込むことまではできない。
「やっぱり、無理か……」
何度か渡来したところで、諦めた。
理緒のように棚に背が届かない者のために、この図書室には一台だけ踏み台が用意されている。あたりを見回すとそれはすぐに見つかったが、別の女子生徒が使用している最中だった。後ろで待っている生徒もいて、当分順番は回って来そうにない。
この『踏み台待ち』は、T高の図書室においてしばしば見受けられる光景である。
そもそも棚が高すぎるのだ。理緒の身長は大体百六十センチ弱で決して低い方ではないのだが、その理緒でさえ手が届かないとなると、棚の方に問題があるとしか思えない。棚を総取り替えしろとは言わないが、せめて踏み台の数をもう少し増やすべきだといつも思う。
まごまごしているうちに、踏み台の後ろにもう一人順番待ちをする女子生徒が並んでしまった。
仕方がないので、再び棚に向き直る。もう何回かトライすれば、上手く本を押し込めるかもしれない。
理緒は返却済みの本を手にして、ジャンプするような勢いで背伸びをした。
最初は上手くいくと思ったが、すぐに嫌な手応えを感じた。半分まで棚に押し込んだ本が、それ以上奥に入らない。一度引き出そうとしたが、今度は妙な重さが加わっていた。隣の本に引っかかってしまったようだ。
びくともしなくなってしまった本を左右に動かしているうちに、悲劇が起きた。
「あっ……嘘!」
何冊もの本がまとめて棚から飛び出し、理緒の頭上めがけて降ってくる。
棚に並んでいた本が列ごと崩壊したのだ。咄嗟に避けてぶつかるのは免れたが、何冊もの本が無残にもあたりに散らばってしまった。
静かな図書室の中に派手な音が響き渡り、みんなの視線が発生源の理緒に集まる。
「す、すみません」
理緒は、周りにぺこりと頭を下げてからその場にしゃがみこんだ。
恥ずかしさで俯きながら本を拾っていると、視界にスッと手が伸びてきた。驚いて顔を上げると、目の前にいたのは、もう一人の図書委員である秋人だった。
「黒崎くん……」
秋人は黙って本を拾い集めた。長く伸びた前髪と眼鏡のフレームの影が、俯きがちな顔を覆っている。
理緒も再び床に視線を戻し、一緒に手を動かした。おおかた集め終わると秋人は立ち上がり、眼鏡を押し上げてから本を棚に戻し始める。
「僕が片付けるから」
ふいに穏やかな声がして、理緒は一瞬戸惑った。
声の主が秋人だと判明したとき、腰が抜けるほど驚いた。
間違いなく、授業以外で秋人の声を聞いたのは初めてだ。
黒崎くんて喋るんだ……という失礼極まりない言葉を寸前で飲み込み、理緒は口を半開きにして目の前の秋人を見つめた。
秋人は本棚の方を向いて淡々と作業を続けていたが、やがて立ち尽くしている理緒に視線を投げる。
「本を棚に戻すのは僕がやる」
再び聞こえてきた秋人の声。
今度は視線までバッチリ合ってしまい、理緒はごくりと息を呑む。
「この作業は、僕がやるほうがいいと思う」
秋人は理緒と目の前の本棚に代わる代わる目を向けた。
それで、何が言いたいのか分かった。秋人なら棚の上に手が届く。理緒が無理に作業を続けるよりも、彼に任せたほうが効率がいい。
だからこそ秋人は、自分がやると言っているのだ。
「ありがとう。ごめんなさい。じゃあ私は、カウンターに戻るね」
理緒は秋人に軽く頭を下げてから踵を返した。しかし足を一歩出す前に、背中に声が掛かる。
「君はもう、もう帰っていいよ」
「え?」
理緒はその台詞に驚いて、再び秋人に向き直った。
「帰っていいよ。今日は人が少ないし」
理緒は秋人の言葉を十分に咀嚼してから、念のために聞いた。
「それは……今日の委員の仕事を、黒崎くんが一人で引き受けるってこと?」
すると秋人は本を戻す作業を中断して、床に視線を落とした。
「僕なら一人でやれるから」
一人。
この言葉は常に秋人に付き纏う。秋人は常に一人を好む。……そして今も一人になろうとしている。今まで何人もの生徒が、秋人からこの孤独を引きはがそうとして、失敗した。
だが、彼だけに仕事を押し付けるわけにはいかない。理緒は大きく
「ううん、私もちゃんと仕事をします」
「帰っていいよ」
「でも、私も、図書委員の一人だし……」
「帰っていいから」
理緒の再三の否定にも関わらず、秋人は同じ台詞を繰り返した。
強い拒絶感が伝わってくる。「帰っていいよ」という言葉を用いているが、これでは「帰れ」と言っているのと同じだ。
秋人の頑なな態度に気圧され、理緒は唇を噛んで視線を落とした。
理緒は秋人の足を引っ張り、やらなくてもいい作業を増やしてしまっている。秋人にとっては、むしろ邪魔なのだろう。
それを嫌というほど理解して、心が重くなる。
しばらくして、俯く理緒の前で、秋人は深く溜息を吐いた。
「君が帰っても、誰かに言ったりしないから」
「え……?」
秋人の台詞に、理緒は身体を硬直させる。
「最後まで二人で仕事をしたことにしておくから。だから帰っていいよ」
秋人は理緒を無視して淡々と無機質な言葉を重ねた。
君のサボりを告げ口したりしないよ……つまりはこういうことだ。
違う。それは理緒の欲しかった言葉ではない。
理緒は告げ口される心配をしているわけではなかった。もちろん、サボりたいわけでもない。
「私も仕事をします。図書委員は二人いるんだし、ちゃんと……」
「一人でいい」
秋人の口調は相変わらずそっけない。自分の気持ちが全く伝わっていないような気がして、理緒の胸がぎゅっと痛くなる。
「どうして、そんなに私を帰らせようとするの……?」
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