第一章 噂 2

「えぇーっ!」

 理緒は思わず身をのけぞらせて叫んでしまった。

「バカ理緒。声が大きいでしょ」

 真紀は慌てて「しーっ」と唇の前に人差し指を立てる。

「ご、ごめん。でも、正体を知ってるなんて……どういうことなの?」

「それを今から話すんでしょ」

 真紀は手の平を縦にして口に当て、内緒話のポーズを取った。理緒は再び真紀に顔を寄せる。

「アシオンナの正体は――口裂け女だよ」

「口裂け女?」

 理緒の脳裏に、昔漫画で見た怖い顔の女性が浮かんできた。

 自分から読みたくて読んだ漫画ではなく、小学生の頃、クラスの男子に「そんなに怖くないから」と騙されて目にしてしまったものだ。

 口裂け女に関する知識のいくつかはその漫画で知った。今でも多少は覚えている。

 何より記憶に残っているのは、見開き一杯使って口裂け女のアップを描いたコマだった。

 絵の中の口裂け女はすさまじい形相をしており、裂けた口から鋭い歯やうねうねと気味の悪い舌が覗いていた。

 腕のいい漫画家が技量を凝らしただけのことはあり、かなりのインパクトだった。あの口裂け女の絵は今でも理緒のトラウマになっている。真紀の言葉を聞いただけで少し背中がゾクゾクするほどだ。

「あたしの友達の友達が、隣の市で会ったんだよ。口裂け女に」

 理緒のトラウマなど知る由もない真紀は当然、同じ話題を続けた。

「隣の市……。それは最近の話なんだよね?」

 口裂け女が世を賑わせたのは一九八十年代だと漫画に書いてあった。四十年以上前ということになる。

「あたしがこの話を聞いたのは一ヶ月くらい前だから、まぁ最近だね。友達の友達が夜に一人で道を歩いてたら、突然『わたしキレイ?』とかいう声が聞こえてきて、振り返ったら女の人がいたんだって。それで、道でも聞こうとしてるのかなって思って立ち止まったら……」

 怖さを演出するためなのか、真紀はそこでもったいつけたような間を取った。理緒は黙って、話がさらに展開するのを待つ。

「そしたらなんと、突然噛み付こうとしてきたんだって。その女の人」

「か、噛み付く?」

「そう。こう、口をくわっと開けて、ガブっと」

 真紀は手の平を口に見立ててパクパクさせながら「怖いよねぇー!」と言って話を締めくくった。

 確かに怖い話だと理緒も思った。

 だが、それより疑問の方が先に立つ。

 そもそも今の話には肝心の口裂け女が出てこない。女性は出てくるし、「わたし、キレイ?」というお決まりの台詞もあるが、女性の口が裂けていたという明確な表現はどこにもないのだ。

 話によれば、目撃者は女性に噛まれそうになっている。たとえ真っ暗な夜道での出来事だったとしても、もし女性の口が裂けていたらそのときに気が付くだろう。

 それに、目撃者が口裂け女と遭遇した場所……隣の市は確かに殺人事件のあった場所ではあるが、いくらなんでも範囲が広すぎる。夜とは具体的に何時なのかもわからない。

 どうも情報が曖昧だった。

 この手の話は世間にいくらでもある。理緒も小学生の頃に、学校の七不思議や人面魚の話を何度も聞いた。

 そのどれもが『友達の友達が~』から始まるフィクションだ。真紀の話をすべてフィクションだと思っているわけではないが、襲われかけたという部分はともかく、その他の要素は鵜呑みにできない。

「その友達の友達っていうのは、真紀ちゃんも知ってる子なの?」

「知らないよ。知ってる子なら『友達』って言うでしょ」

「えーと……」

 情報ソースの不確かさと反比例して、なぜか自信満々の言葉が返ってきた。何と答えてよいのか戸惑う理緒に対し、真紀は笑みを浮かべて見せる。

「まあ待ちなさい理緒。先を聞いて。ここからが『とっておきの話』の真骨頂なの。新聞には載ってないし、ニュースでも言ってなかった情報だよ」

 ここぞとばかりに胸を張った真紀につられて、理緒も姿勢を正してしまった。真紀はたった一人の素直な聴衆を見て満足そうに頷く。

「うちの隣の家に住んでるおばさんが、夕べたまたま事件現場の近くにいたらしいのね。遺体が見つかって既に警察も来てて、おばさんは警察が捜査してるところをしばらく見てたんだって。そこにマスコミも駆けつけて騒ぎ始めて、周りでいろんな話が飛び交ってたらしいの。そこで聞いた話によると、被害者の子、首筋を何者かに喰い千切られた痕跡があったんだって」

「喰い千切られた……?」

 理緒は思わず自分の首に手をやった。被害にあったのは自分ではないのに、そこにモヤモヤと気味の悪い感覚が走る。

「そう。ニュースでは頸動脈に傷があったとしか言ってなかったけど、傷は噛み切られてできたみたい。他にもなんか、噛んだ痕っていうか、喰い千切ったような傷が遺体に何か所もあったらしいの」

「うわ……」

 人が何者かに身体を喰い千切られる様子を想像しかけて、理緒はぶるぶる首を振った。頚動脈ごと食い破ったら、出血は相当だっただろう。

「公園は整備されてるから動物なんかが紛れ込んで遺体を齧ることは無いし、犯人の仕業以外考えられないって。ほら、これってさっきの、人に噛みつこうとする口裂け女の話を彷彿とさせるでしょ?」

「う……うん」

 報道と真紀の話を合わせるならば、犯人は女子高生を噛み千切って殺したうえ、下半身を刃物で切断して持ち去っている。考えるだけで気分が悪くなりそうだった。いや、もうなっている。

 理緒は首筋に当てていた手を口元に持ってきた。だが真紀は顔色一つ変えずに先を続けた。

「考えてみて、理緒。氾人が被害者に滅茶苦茶恨みを募らせてたと仮定しても、人を傷つけるなら、普通もう少し効率のいい方法を選ぶと思わない? 下半身を切るための刃物は持ってたわけだし」

「そ、そうなのかな……」

 人を傷つける場合の『普通』など、理緒には全く見当がつかない。だがもし真紀が言っていることが本当なのだとしたら、尋常でないのは確かだ。

「人の身体を噛み切ったうえ下半身を切断して持ち去るなんて、普通の人間にはできないでしょ。やっぱり、犯人は目撃された口裂け女に間違いないって!」

「でも、口裂け女って、そんなことするんだっけ……?」

 理緒が漫画で読んだ話では、口裂け女が使用する凶器は鋏か刃物だった。その刃物を使って斬りつけるというのが口裂け女の攻撃方法だ。もちろん斬りつけてくるだけでも十分に怖いが、漫画の中には、噛みついてくるという描写や、ましてや遺体を切断する描写などは無かった。

 記憶違いだろうか……と理緒は首を傾げた。するとその理緒の目の前で、真紀は両方の拳を握り締めて言った。

「よく分からないけど、口裂け女でも新手のタイプなんじゃないかな。やり方が酷いじゃない。こんなの絶対、人間の仕業じゃないよ」

 よく分からないことを『絶対』と断言してしまう真紀を、理緒はいつもすごいと思う。

 真紀の『絶対』が当たる確率は半々くらいだが、少なくとも今回、後半に出てきた遺体に関する話は大部分が真実だろう。ソース源は『友達の友達』という知らない人ではなく『隣のおばさん』という実在する人間なのだ。

「理緒、分かった? 今後は口裂け女に気をつけるんだよ。あいつはどこから来るかわからないから、気を抜いちゃ駄目。理緒は割と呑気な方なんだから」

 犯人=口裂け女という図式がいつの間にか二人の間の共通認識になりかけていて、理緒は戸惑った。真紀の持論に対して強く否定するつもりはないが、肯定もしていない。

「え、えーと。もし犯人が口裂け女なんだとしたら、人間じゃないわけだし、気をつけようがないんじゃないのかな……」

 理緒がそう言うと、真紀は自信満々の表情で腕を組んだ。

「大丈夫。あたし昨日のうちに口裂け女の弱点について詳しーく調べたの。理緒にも教えてしんぜよう!」

 真紀は情報屋でもあり、こういうオカルトめいた話も大好きだった。

 市内にある廃墟で幽霊が出た、などという話を聞くと真っ先に現地調査に行ってしまう。それだけでなく、真紀の家にはその手の本がたくさんあり、インターネットブラウザのブックマークもオカルト一色らしい。

「教えてあげるからさ、これからファミレス行こ、理緒」


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