プロローグ 2

 夕子は心と反対の顔を作るのが苦手ではない。むしろ得意な方だ。でもあの二人と一緒にいると作り笑いが限界になり、顔面がピクピクしてきてしまう。

 エリナや百合と一緒に過ごしていて、その場その場で楽しいと思うことはある。だけどそれは刹那的な感情に過ぎない。二人の会話は流行のうわべをなぞるだけの内容か、下品な内緒話のどちらかだ。二人と過ごして別れたあと、夕子はいつも虚しさで白々しい気持ちになる。

 何より酷いのはあの容姿だ。エリナや百合は、あの巻き毛や金髪をかわいいと思っているのだろうか。長すぎる付け睫毛や凶器みたいに伸ばした爪は、ふざけた仮装のようにしか見えない。厚ぼったく塗りたくられたファンデーションでも隠し切れない荒れた肌を見ていると吐き気がする。

 本当にかわいくなりたいのならば『素』が大事だ。

 そう思いながら夕子は立ち止まり、店のショーウィンドウに自分の姿を映してみた。エリナや百合と比べて、自分の脚の細さを実感する。顔も小さいし、何より姿勢が良い。夕子は一通り自分の姿を眺めて満足し、少し笑みを浮かべた。

 髪は少し茶色く染めてあるだけで、まっすぐ伸ばしている。メイクはほとんどしていない。

 だが実は、夕子は肌や髪の手入れに人一倍時間を掛けている。全て『素』を磨くためだ。そして夕子がここまで手間暇をかけるのは『芸能界に入る』という夢のためだった。

 最初は雑誌の読者モデルから入り、最終的には女優になりたいと思っている。そのためなら努力を惜しむつもりはない。常に正しい姿勢を心掛けているし、間食だってしない。

 すぐ横でエリナや百合がファーストフードを食べ散らかしていても、温かい紅茶を飲んで空腹を紛らわせる。奇抜な髪型をかわいいと褒めながら、家ではああならないように必死にトリートメントを施している。

 芸能界に入る夢については、誰にも話したことがなかった。大抵の人が「そんなの無理だよ」と鼻で笑うに決まっているからだ。誰にも相談できない分、こっそりとブログを開設して、日々の努力目標や女優への想いを切々と綴った。

 夕子は本気だった。そもそも一緒に過ごしていても大してプラスにならないエリナや百合と毎日繁華街に繰り出すのは、雑誌社のスカウトが目的なのだ。

 いつも読んでいるファッション雑誌に憧れの読者モデルのインタビュー記事が載っていて、そのモデルは「地元で友達といたところをスカウトされました」とこの繁華街の名前を挙げていた。夕子はその記事を見て以来、人の行き交うこの場所に足繁く通っている。エリナや百合と一緒にいるのは、二人と一緒にいれば夕子の容姿の良さがより目立つからだ。つまり二人は単なる引き立て役にすぎない。夕子はそうやって、毎日スカウトされるのを待ち続けている。

 目の前で信号が赤に変わり、夕子は歩みを止めた。

 今頃エリナと百合はカラオケをしているだろうか。あの二人はきっと、夕子のことを真面目で大人しいだけのつまらない子だと思っているはずだ。「一緒に遊びたい」などと心にもないことを口に出しているのは夕子だけではない。エリナや百合の言葉の中に潜んでいる影くらい、夕子にだって分かっている。だからこそ、強く思う。

 ――必ず芸能界に入って、エリナや百合を悔しがらせてやりたい。

 夕子はきびきびと足を前に出しながら横断歩道を渡った。この横断歩道を境目にして、繁華街とそうでない地域に分かれる。道を一本通り過ぎただけで高い建物が急に減り、かわりに空の面積が増えた。

 先ほどまでオレンジ色だった空は暗い色に変わっている。夕子は綺麗なウォーキングの姿勢を保ったまま公園に入った。この公園を突っ切ると自宅までの道のりがだいぶショートカットされるのだ。

 公園に足を踏み入れるとそこに人影は全く無く、辺りには木々の香りが立ち込めていた。公園と言っても遊具は一切設置されておらず、木立の合間に遊歩道とベンチがあるだけの場所だ。管理しているのは地元の自治体のはずだが、予算をケチっているのか街灯も皆無で、日が落ちたこの時間は真っ暗になる。

 夕子は一度、エリナと一緒にこの遊歩道を歩いたことがある。エリナを家に招待したときだ。エリナはあたりを見回しながら「辛気臭いところだね」と言い放った。確かにあまり気持ちのいい場所とは言えないが、夕子はいつも通りそこをずんずん進む。

「――ねえ……」

 その時、どこかから人の声が聞こえた。

 夕子は思わず足を止め、耳を澄ます。

「ねえ……キレイ……」

 やはり、聞こえる。

 か細いのに不思議と耳にはっきり届く、女の声だった。

 その声は自分に向かって投げ掛けられている気がした。だが、声の出所がわからない。夕子はあたりを見回したが、真っ暗で良く見えなかった。

「……キレイ」

 キレイ……綺麗。暗闇から聞こえてくる声はそう言っている。夕子の脳裏に一人の女の姿が浮かんだ。


 ――アシオンナ。


 近所の子供が妙な女に襲われた。話を真っ先に聞きつけてきた夕子の母は、「昔も似たような事件があったのよ」と神妙な顔をした。

 そのときに聞いたのが、口裂け女の話だ。


 ――わたしキレイ?


 女はそう言ってマスクを取る。マスクの下から現れるのは、耳まで裂けた大きな口。

 そう、まるでさっきまで一緒だった百合にそっくりな、醜い顔。そしてそのあと、口裂け女は鋏を大きく振り上げる……。


「ねえ……キレイ」


 女の声が耳元で聞こえた気がして、夕子は後ろを振り返った。しかしそこにあるのは暗闇だけだ。背中からどっと汗が噴き出る。

 そんな。まさか本当に、口裂け女が……いや、アシオンナが……?

 夕子はその場から逃げようとしたが、足が震えて動かない。


「ねえ……」


 暗闇から再び声がした。

「だ、誰? 誰なの?」

 夕子は力が抜けそうになるのを堪えながら、声を絞り出した。

「ここよ。わたしは、ここ」

 声は右側から聞こえた。

 夕子がゆっくりそちらを振り向くと、遊歩道の途中に置かれたベンチに、女性が腰掛けていた。

 やや年老いているが、顔立ちは美しかった。もちろん、口は裂けてなどいない。雰囲気はとても優雅で、お金持ちの老婦人といった感じだ。

「こんばんは」

 老婦人は穏やかな声を発し、微笑みながらそっと夕子を手招きした。

 ただの優しそうな人にしか見えない。夕子はすっかり安堵して、肩の力をふっと緩めながら尋ねる。

「私に、何か用ですか?」

「キレイ……。あなた、とてもキレイ」

「えっ?」

 老婦人は夕子を上から下まで見つめて微笑んだ。どうやら本心から褒めてくれているようだ。

 ――そうか。さっきから『わたしキレイ?』じゃなくて『あなたキレイ』と言ってたんだ! そうよね。口裂け女なんて、いるわけないよね……。

 言葉の意味を理解して、夕子は目の前の老婦人を改めて見つめた。

「あなたキレイ。足が……とてもキレイ」

 老婦人はうっとりとした目で夕子を見つめ、さらに褒めた。淡い色のスーツに身を包み、髪にいくらか白髪が混じっている。

 夕子の祖母と同じくらいの年齢だろうか。身なりはきっちりしていて怪しい感じはしなかった。むしろ、こんな片田舎の住民とは思えないほど、洗練されていて上品だ。まるで、どこかの会社の女社長のような……。

 ――あ、この人もしかして、芸能プロダクションの社長さんかもしれない!

 思いついた答えに、夕子の胸が高鳴った。しかしここで焦って悪印象を与えたら何もかもパアだ。ドキドキする胸を押さえながら、夕子は一歩ずつ老婦人に近づいた。

「いいのよ。もっと近くに来て」

 老婦人は夕子に向かってそう促す。夕子は「失礼します」と言ってから、彼女の隣に静かに腰を下ろした。

「あなたの足、本当にキレイ……」

 老婦人は再び、夕子の足に目を向ける。

 当たり前でしょ。これをキープするのに苦労しているんだから。そう言いたかったが、夕子は照れたふりをしながら答えた。

「ありがとうございます。毎日、運動と食事に気を使っているんです」

「ああ……そうなのね。よく動く足。キレイ……羨ましい」

 嬉しい。もっと褒めて。そして早く私を芸能界に連れて行って!

 夕子は内心ほくそ笑んでいたが、落ち着いた礼儀正しい女子高生を演じるため、無駄に言葉を発しなかった。女はそんな夕子をうっとりと見つめながら身体を寄せ、太腿に手を添える。

 そして、夕子の耳元で囁いた。


「その足、わたしに、頂戴」


 次の瞬間、夕子は首筋に熱さを感じた。いや、熱いんじゃない、これは……。

「嘘……なんで……」

 熱さのような痛みだった。

 目玉だけを動かして確認すると、夕子の首筋に老婦人が顔を埋めている。きらりと光っているのは……鋭い歯だ。


 ――ぶちん。


 夕子の首筋はついに噛み千切られ、そこからどっと大量の液体が噴き出す。

 痛みの感覚は、もう無かった。あたり一帯に鉄の匂いが漂う。

 夕子は自分の手を伸ばして、己から噴き出している液体を手の平で受け止めた。

 温かい。

 そして、紅い。

「これ……血?」

 目の前で、老婦人がニヤリと笑った。その口元は、まるで口紅がはみ出したように、血液で真っ赤に染まっている。

 さっきまで一緒にいた百合と同じ顔に見えた。

 まさに、口裂け女……。


「あし……あなたの、アシ、ワタシニ、チョウダイ……」


 骨ばった手が夕子の足に向かって伸びてくる。

「私の……足……欲しいの?」

 流れ出る血を受け止めながら、夕子は聞いた。


「ホシイ……ホシイ……キレイな、アシ……足!」


 ああ、だからアシオンナなのね……そう納得した途端、意識が薄れていく。

 夕子のか細い首からは、朱い液体がとめどなく流れ出ていた。

 彼女の命が尽きるまで。 




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