アシオンナ

相沢泉見

プロローグ 1





「はぁ? アシオンナ? なにそれ」

 唐崎夕子からさきゆうこの隣で、名護なごエリナが目をぱちぱちしばたたかせた。

「アシオンナっていうのは、怪物の名前よ。人を襲うの」

「えー、怪物? なにそれー。おっかしー。嘘でしょ」

 夕子もエリナも市内の高校に通っているクラスメイトだ。だがスカートの長さが十五センチも違っていて、とても同じ制服を着ているようには見えなかった。

 膝丈のスカートを穿き眉をひそめている夕子に対し、エリナはミニスカートのすそをはためかせ、ラメ入りグロスを塗った唇を大きく開けて笑っている。

 大袈裟な動きのせいで、エリナの巻き毛が夕子の腕に揺れた。耳障りな甲高い声は鬱陶しく、漂ってくる香水の匂いが酷くきつい。もはや悪臭といっていいそれに少しむせ返りながらも、夕子は口を尖らせた。

「エリナったら何でそんなに呑気なの? 少し前からアシオンナっていう怪人が出るってあちこちで噂になってるじゃないの。実際、うちの近所も襲われそうになった子がいるの。アシオンナは世にも恐ろしい顔つきをしているんですって。こう……口が大きく裂けてて……」

「やだぁ。それじゃあまるで、一昔前に流行った『口裂け女』じゃない」

 またけらけらと笑ってエリナに、夕子は深く頷いてみせた。

「そう。まさに口裂け女よ! その女は突然背後から『わたしキレイ?』って聞いてくるんですって。それで振り返ったら、襲ってくるの」

「なにその『わたしキレイ?』って。自意識過剰っぽーい」

「口裂け女の決まり文句よ。お母さんの学生時代にそうやって子供が女に襲われる事件が多発して、日本中で大騒ぎになったらしいわ。登下校の時間は警察まで出動したのよ」

 母親から聞いた話を思い出し、夕子は軽く身震いをする。

 一方のエリナは、巻き毛を指で弄びながら、つまらなそうな顔をした。

「オカアサンの学生時代って、そもそもいつの話? 単なる変質者の話がエスカレートしただけなんじゃないの? それに、今回出没してるのって『アシオンナ』とか呼ばれてるんでしょ。口裂け女とは関係なさそうだけど」

「……そう言われてみれば、そうね」

 脱色している上にくるくる巻いた髪。短すぎるスカート。校則を全力で無視しているエリナは一軒チャラチャラしている割に、ときどきこうやって理にかなったことを口にする。

 夕子が返事に詰まっていると、そのエリナはさらに冷静な表情で言った。

「お化けとか妖怪みたいなものでしょ。そんなの本当にいるわけないじゃん。お化けの話を信じちゃうなんて、夕子は高校生なのに子供っぽいねぇー。見た目は大人っぽくてキレイなのに」

 なんだか小馬鹿にされているような気がして、腹が立つ。

 夕子はこれ以上話を続けることを諦めて視線を斜め上に向けた。

 目に飛び込んできたのはいくつかのビル。そのビルの隙間にわずかに見える空が、オレンジ色に染まっている。

 夕子たちが住んでいるのは田舎の地方都市だった。このあたりは一番の繁華街になる。

 東京の真ん中と比べると吹けば飛ぶような場所だが、洋服のショップやCD店、カラオケやゲームセンターなどの娯楽施設が一通り揃っているため、流行を追いかけたい女子高生たちは放課後ここへやってくる。

 夕子もその一人だ。学校では接点のないエリナと知り合ったのも、通りの一角にあるコーヒーショップ。そこで初めてスマートフォン決済をしようとしたところ、上手くいかなくて焦っていた夕子を助けてくれたのがエリナだ。

 以来、なんとなく仲よくなって、放課後は毎日のようにこのかいわいに繰り出している。

 繁華街を貫くメインストリートを歩きながら両脇の店をひやかしているうちに、今日もすっかり日が暮れた。夕子がそろそろ帰ろうかと思っていたころ、通りにけたたましい声が響き渡った。

「エリナァー! 夕子ォー!」

 名前を呼ばれた夕子とエリナは同時に振り返った。バサバサの金髪をなびかせながら、一人の少女が走ってくる。

「うわぁ、百合ゆり! ひっさしぶり!」

 駆けてきた少女とエリナはハイタッチをした。巻き毛と金髪が夕子の視界の中で鬱陶しく跳ねまわる。

 突然現れたこの金髪の少女に関して、夕子は「百合」という名前以外は何も知らなかった。彼女はエリナの中学時代の同級生で、今は別の高校に通っているらしい。

 ある日エリナと一緒に入ったゲームセンターにたまたま百合もいて、三人で何度か遊んだだけの関係だ。夕子にとっては友達と呼べるかどうか微妙なところだが、エリナとは毎日のようにLINEのやり取りをしていると聞いたことがある。

「あたし今日、カレシにドタキャンされてさー」

 百合はわざとらしくしな・・を作って甘えた声を出した。縮れたナイロン糸みたいな金髪の髪がガサガサと音を立てる。

「そうなの? カワイソー!」

 エリナが巻き毛をわさわさ揺らして答えた。『可哀想』という言葉が酷く安っぽく聞こえて、夕子は溜息を吐く。

 だがその溜息を、百合は自分への同情だと都合よく解釈したらしい。真っ赤に彩られた唇を持ち上げて、ぞっとするほど気持ち悪い笑みを浮かべた。

「ねぇエリナ、夕子。あたし一人じゃさみしいしぃ、これから一緒にカラオケ行かない?」

 気持ち悪い顔のまま百合が身を乗り出し、夕子は反射的に少し上半身をのけぞらせてしまった。「先月付き合い始めた彼氏ともう別れたの?」と言いかけて、口を噤む。

 ヘタクソなメイク。口紅がはみ出していて見苦しい。せめてもう少し落ち着いた色にすればいいのに。どぎつい赤で塗られた大きな唇はそう、まるで……。

 ――口裂け女みたい。

「カラオケだって。夕子、どうする?」

 エリナが夕子を振り返る。夕子は咄嗟に申し訳なさそうな顔を作った。

「ごめんね、今日は私、親に早く帰ってこいって言われてるんだ」

 なるべく残念そうな声色でこう言ってから笑顔を見せる。するとエリナと百合は大袈裟に眉尻を下げた。

「あー、夕子の親、キビシイもんねぇ。じゃあ仕方ないね」

「夕子とも遊びたかったのになぁ」

 エリナだけならともかく、百合も一緒となると、夕子にとっては不快指数が倍になる。ただでさえぐるんぐるんの巻き毛とバサバサの金髪が並ぶと鬱陶しいのに、百合が混ざるとお喋りの内容が彼氏がらみの下ネタになるのも耐えられなかった。なので夕子は三回に一回、こうやって二人の誘いを体よく断っている。今回もお決まりのお芝居をしながら夕子はひたすら「早く二人でどっか行ってよ」と念じていた。

「じゃあ夕子、また明日学校でねー」

「バイバイ。今度は一緒にあそぼーね!」

 五分以上粘ったあと、エリナと百合はようやく夕子に手を振りながら繁華街の雑踏に消えていった。夕子は二人の背中が完全に見えなくなるまで見送ってから踵を返した。完璧に作り上げていた『名残惜しそうな顔』を崩し、思いきり溜息を吐く。

 疲れた――心底そう思った。

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