第26話 疾雷

 今年の梅雨は雨があまり降らなかった。その反動か、8月に入ってからというもの連日雨だ。それはそれで鬱陶しいが、表に出たくない分、脚本を進めるには都合がいい。何がなんでもお盆までには完成させるつもりで、中華料理屋のバイトはしばらく休みを取った。今日も昼間から原稿用紙に向かっていて、お陰様で8割程度は書き終えた。それがいいかどうかは別として、素人ながらに気持ちは乗っかっていると思う。後はラストシーンをどうするかに全てがかかっているが、イメージしているものがいくつかあって一つに絞れない。あまりドラマチックなものは好まないが、観客の心は少なからず動かしたい。などと頭をフル回転させていたらもう日が暮れそうだ。

 雨の音が徐々に強くなっているのがわかる。このアパートはボロアパートだけにもちろん壁が薄い。昼間はさほどでもなかった雨音が今ははっきりと聞こえる。窓を開け空を眺めると嫌な予感がした。雷の時のドス黒い雲だ。俺は雷が苦手なんだ。子供の頃は雷が鳴ると悪魔に連れ去られるような気がして正気じゃいられなかった。無論、今はそんな事は思わないが、その名残りか情けないことに縮こまってしまう。雷が鳴る前にさらにペンを進めるべきなのだが、集中力も限界に達していた。俺は冷蔵庫を開けると酒の代わりに牛乳を取り出した。書き終えるまで禁酒すると決めたんだ。いざ禁酒をしてみると、身体が健康的になったように思えて気分の悪いものでもなかった。だが、これは止められないだろう。俺は換気扇を回すと煙草に火をつけた。もう20年くらいは吸っているのではないか。そもそも吸い始めたきっかけは、高校の時に失恋をした時で、ヤケクソで母親のセブンスターズを盗んで吸った記憶がある。なんとも情けない理由だが、歳を重ねて行くとそんなダサい自分も受け入れられるようになってしまうのだ。実際それどころじゃないんだな、人生切羽詰まると。


 予感は運悪く的中してしまった。雷鳴が雨音に混ざり響き渡り始めた。きっとまだ遠方にいるのだろう、徐々に激しくなる雨の勢いには勝らないようだ。好きなバンドのとある曲の中に、『合い言葉は雷雨決行、嵐に船を出す』というフレーズがある。俺はまさにその歌詞の通りペンを走らせた。

 雨の勢いはさらに増して行った。窓を開けずとも土砂降りなのがひしひしと伝わってくる。コツコツと窓に打ち付けるような激しい雨粒が、それを証明している。そして、つい先程からの疾雷が俺を苦しめた。遠方にいると認識していたのに、急に距離を詰めて来やがった。美しいのはほんの一瞬の閃光で、数秒後に鳴り響く骨を叩き割ったような轟音がそれを台無しにする。そう感じているのは俺だけかもしれないが、怖いものは怖いんだ。

 もう限界だった。俺は冷蔵庫を開けると、牛乳ではなく缶チューハイを取り出した。やむを得ない、禁酒もいったん終了だ。「プシュッ」、久々に聞くこの馴染みの音に一瞬躊躇いを覚えたが、俺は一気にチューハイを飲み干した。「ドーン」と激しい音が外で鳴り響いた。うわぁ、と思わず声を上げてしまったが、俺以上に室内の電球が悲鳴を上げていた。チカチカ、チカチカとキッチンと和室の電球が点滅し始めた。ん?これから停電にでもなるのか?俺は点滅する電球を何故かボーっと眺めていた。すると全身の力が抜けていくのがわかった。

「あれ?」

煙草を吸いたいが力が入らない。視界が霞んでいく。「ドカン」と再び激しい音が鳴った。その瞬間、電球が息絶えた。暗闇。音のない世界。

地獄かここは?


『俺は今部屋の片隅に座り込んでいて、体育座りをしている。見慣れた景色だ。壁に貼ってある絵美里ちゃんとのツーショット写真に目が行く。テーブルの上にはまだ封の切られていない封筒が置いてある。雨の音も雷の音もしない。静寂が六畳一間の和室を包み込んでいるが、ガチャっ、という冷蔵庫の開閉音がそれを遮った。

「禁酒してるんだ?」

と絵美里ちゃんがキッチンから顔を覗かせた。

「冷蔵庫の貼り紙?」

「うん」

と絵美里ちゃんが微笑む。

「さっき一本飲んじゃったけど、大分続いてる」

「えらい」

と彼女が和室の俺とは対面の片隅に座り込んだ。部屋を一通り見渡すと、俺の顔をまじまじと見つめ始めた。

「なに?」

と俺は訪ねた。

「歳とったね」

と絵美里ちゃんが微笑みながら言った。

「そりゃそうだよ」

と俺は答えると、彼女の顔をまじまじと見つめ返したた。

「なに?」

「エミリちゃんはあの時のまま」

「そんなことないよ」

「楽しみにしてたのに」

「ごめん」

まるで昨日の事のように、記憶が鮮明だ。

「でも俺、役降ろされちゃったから、どっちみち共演できなかったんだよ」

「えっ、そうだったの?」

「うん。どうしても納得いかなくて、事務所も辞めちゃって」

「でも、続けてるんでしょ?」

「・・・・・」

続けてはいるが、頷くことができなかった。

「いつか300キロのストレート投げるんでしょ?」

「・・・・・」

まさか彼女が覚えているとは思わなかった。

「俺があの時さ、いや、その手紙まだ読めてないんだ」

と俺はテーブルの上の封筒に視線を送った。

「いいよ読まなくて。でも、ありがとうって伝えたくて」

「・・・・・」

言葉に詰まってしまった。

「・・・もしもあの日に戻れたらさ・・」

と俺は話題を変えるように切り出した。

「戻れないの」

「え?」

「あの日には戻れない」

「・・・・・」

いつだったか、同じような言葉を絵美里ちゃんの口から聞いた覚えがあった。

「でもどうして・・・痛かったでしょ・・」

「・・・・・」

絵美里ちゃんは一瞬視線を逸らしたが、直ぐにまた俺に視線を送った。

「ねぇ」

「ん?」

「一本もらえないかな?」

「え?」

「せっかくだから」

とお願いのジェスチャーをする絵美里ちゃんが可愛かった。

「うん」

と俺が頷くと、嬉しそうに彼女はキッチンへと消えて行った。換気扇と煙草に火をつける音がした。

「久っさしぶりに吸った」

と彼女の元気な声が聞こえた。

「良かったね」

と俺も声を返した。

「ありがとう」

と彼女の声が聞こえる。

「そっちの世界はどうなの?」

と俺は思い切った質問をした。

「うーん、楽ではないかな」

「じゃあ、ずっとここにいればいいのに」

言葉を放ってから、馬鹿げた事を言っていることに気づいた。

「なんちゃって」

彼女の返答はなかった。

「・・・ヤニクラ大丈夫?」

またしても返答がない。

「・・・・・」

不安になったわけではないが、俺も煙草を吸おうとキッチンへ向かった。

「・・・・え」

言葉を失い戦慄が走った。俺は動く事ができなかった。俺の目の前にいたのは、煙草を指の間に挟み、固まったように佇む、服を身に纏った骸骨だった。』












 


 

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