第25話 老人
「お疲れ様です」
とりんちゃんが元気よく休憩室に入ってきた。「お疲れ様」、と俺が一瞬パソコンから目を離して返すと、決して狭くはない縦長のこの休憩室の一番奥に取り付けられた更衣室へとりんちゃんは入っていった。
「出ようか?」
と俺はPCで発注の途中だったが、椅子から腰を上げようとした。
「大丈夫です」
と彼女は答えたが、彼女の性格上そう答えると思っていた。まあ、カーテンあるしな。
「ほい」
と俺は発注業務を続けた。
「そういえばマサトさん、この前言ってたオーディションどうだったんですか?」
とカーテンの内側からりんちゃんの声が飛んで来た。聞かれたくない質問だった。俺は今脚本以外にも役者復帰のために地道にオーディションを受けている。とは言っても、こんな年齢になった無所属の俺にほぼ需要なんてものはなく、年に数回受けるか受けないかのレベルだが。
「落ちた」
「ありゃ、残念」
「ホント残念」
「マサトさん、私も女優になれますかね?」
「んー、じゃあオーディションするから俺ん家来れば」
「えっ、行っていいんですか?」
予想外の返答だった。
「えっ、逆にいいんですか?」
と俺は念を押した。
「何がですか」
「来るんですか」
「はい」
とりんちゃんが貫いた。
「えっキモっ、て言われた時の切り返し考えてたのに」
「全然キモくないですよ」
カーテンが開いた。私服のりんちゃんがなぜだか輝いて見えた。
「・・・・・」
俺は指でカメラのフレームを作り、りんちゃんを覗いた。
「何してるんですか」
とりんちゃんが笑いながら言った。
「りんちゃんさ・・」
と俺が言いかけたところで三原君がやって来た。
「マサトさん、豚キムチがまたキレてるっす。店長出せって」
「今か」
と俺は呟くと、渋々腰を上げた。
「りんちゃん、合格」
そう俺は告げると、三原君とドアの間をすり抜け、豚キムチの席へ向かった。
今日の出来事を書くのは簡単だ。例えば、豚キムチ。今日もいつもの如くクレームを入れてきて、いつもの如く対応した。ただ、いつもと一つ違ったのは、あいつは俺の事を社員だと思っていたらしい。俺がバイトだと伝えると、驚いた表情を見せた。勝手に俺の事を店長扱いしたのはあいつだし、俺は一言も自ら店長だなんて言ってない。最初にクレームを受けた時、店長が不在だったため、バイトリーダー的なポディションの俺が対応した事から、そう思い込んでるだけだ。そもそもあの店に社員はほとんどやって来ない。実際の店長も4店舗間を回っているからほぼ不在だ。大手の飲食チェーンなんてそんなもんで、そのほとんどがアルバイトだけで構成されている。だから、年齢が大分上で歴の長い俺がいつもあいつの対応をしているのだ。
いつもの緑道の腰掛けに座り、そんな事を考えていたらバカバカしくなって来た。豚キムチなんてどうでもいい。中華料理屋すらどうでもいい。俺は今脚本を書き上げなければならない。ただ、俺が夜に缶チューハイ片手にこの場所に居ると言うことは、何かが上手く行っていないということだ。その何かとは言うまでもなく脚本だ。ついさっきまで家で原稿用紙と向き合っていた。もう7割程度は書き上げたが、そこからが進まない。脚本の勉強もせずに、自力で書き上げようという考えが甘かったのか、部屋中原稿用紙の海だ。無論、片付ける気力などない。ただの気分転換か、行き詰まりが極限に達した時俺はここへ来る。もちろん今日は後者だ。今宵はもう書けないとペンを投げた。ここへ来て、酒をかっ喰らっても物語りは生まれないと十分承知なのだが。
腰掛けに座り俯いていると左手側に人の気配を感じた。その足音は俺から少し離れた場所で止まった。チラッと様子をうかがうと、小汚い格好の老人が腰を下ろすところだった。浮浪者か。もうじき梅雨に入るというのに薄汚いコートを羽織っている。俺も将来ああなるのだろうか、その可能性は全くもってゼロではないと感じた。俺は缶チューハイを一口口に含むと煙草に火をつけ再び顔を伏せた。しばらくすると嫌な足音が近づいて来た。明らかに浮浪者だ。確実に俺に向かって来ている。「ちっ」と声に出してしまったかもしれない。それは俺のかなり近くで止まった。
「あっ、あのぅ、もしよろしければ一本恵んで頂けないでしょうか」
「・・・・・」
煙草か、目的は。別にいいや煙草くらい。その代わりもう絡んでくんなよ。内心そう思った。匂いは全くもってきつくなかった。俺はポケットから煙草とライターを取り出すと、丸々老人に差し出した。
「全部上げますよ」
「えっ」
老人が言葉に詰まっているのがわかった。
「あっ、ありがとうございます。あっありがとうございます」
と老人がかすれた声で狼狽しながら何度も言った。煙草に火をつけると俺から少し離れた場所に座り、再び頭を何度も下げた。俺は足元に置いてあった未開封のコップ酒を手に取ると、老人の元へ近づいた。
「これも上げますよ」
と俺は老人の足元へそれを置くと、直ぐに元の場所へと戻った。
「あっ、ありがとうございます」
としゃがれた声が案の定聞こえたが、無視して俺は地面を眺めた。どうでもいい。
「あっ、あっ、あのぅ、失礼ですが、どうかされましたか」
と老人の細い声が俺に飛んで来た。
「・・・・・」
まさか絡んで来るとは思わなかった。
「・・・・・」
「・・・・・」
嫌な間だ。
「書けないんですよ」
俺は間を埋めるためにそう答えた。
「・・・・・」
老人は何も言わなかった。そりゃそうだろう。
「終わってるんですかね、俺」
と俺は続けてやった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「私の経験から言わせてもらえば、もうダメだと思う事は今まで数え切れない程ありました」
「・・・・・・」
「ですが、こんな無様な姿ではありますが、私はまだ生きております」
「・・・・・」
「生きている限り終わってはいないと、僭越ながら信じております」
「・・・・・」
「こんな惨めな私がまだ生かされているのは、きっと、私にはまだやるべき事が残されているのだと、そう思うようにしています」
「・・・・・・」
言葉を返す必要がないと思った。俺はただ老人の言葉を聞いていた。
「大丈夫です。きっと、上手く行きます」
そう老人は言い放つと、もう何も言わなくなった。
「・・・・・」
詳細は知らずとも、俺が今抱えている難題の本質を見透かされているようだった。俺は眠りから覚めたように顔を上げ、老人に無言で「グッド」のジェスチャーをした。老人はコップ酒をすすると、俺に皺くちゃの笑みでジェスチャーを返した。
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