第22話 終焉の森

 この緩やかな坂を登り切って右に曲がればあのボロアパートに辿り着く。駅から徒歩数分の、住宅街に位置するあの部屋を内見した時、即決した。住めればよかったし、家賃が安かった。六畳一間の和室だが、風呂とトイレは付いていた。野郎の一人暮らしなど、そんなもんで十分だ。

 母ちゃんは弟が住んでるマンションに住む事になった。だから俺は実家を飛び出せたわけだ。その実家というのも、もはや無くなったわけだが。この決断が正しかったのかどうかなんてわからない。環境を変えれば何かが変わるだなんて別に思わない。ただ、吸い寄せられるように行き着いたのがこの街、下北沢だ。何度かしか来たことはなかったが、いい街だと思った。芸人の卵やミュージシャン、そして役者が多く存在する街だと聞いた。この街で俺は、役者を続ける事を決断した。もはやなんのあてもないが。

 昨年末、俺は死を覚悟した。それは衝動に近かった。今なら死ねると本気で思った。今考えると甘かったが、役者としての成功がないなら、生きてる意味などないと思い始めていた。

 俺はその日、昼過ぎに自宅を出た。富士の樹海に向かうためだ。自殺の名所とされるそこなら、誰にも見つからずに確実に死ねると思った。ネクタイ3本と、大量の酒をバッグに詰め込んで。ロープではなく、ネクタイでも首は吊れると本に書いてあった。家を出る前にも、電車の中でも俺は酒をかっ喰らった。新宿駅に着いた頃には、それなり出来上がっていた。

 新宿から更に電車を乗り継ぎ、大月駅へ向かった。時間の感覚も、恐怖心も無くなりかけていた。大月で降りると、富士急行線に乗り換え、富士の樹海のすぐ近くの河口湖駅を目指した。そこまで行ってしまえば後はもう死ぬだけだ。酒が回っていたせいか、本当に怖くはなかった。

 河口湖駅で下車すると、バス停を発見した。そこからバスに乗り、紅葉台入口で下りれば、神聖なる樹海へと入れるわけだ。辺りはまだ明るかった。俺は人っ子一人いないバス停で、無心でバスを待った。その時だった。雨が降ってきたのだ。その雨は徐々に強くなって行った。

 なぜだか、笑えてきた。人がこれから死のうと言う時に、雨。中学の時、テニスコートで絵美里ちゃんと別れた時も、雨。絵美里ちゃんが亡くなったのを知った時も、、、

 笑いという物は、楽しい時だけ込み上げてくる物ではないという事を知った。人生など所詮泣きっ面に蜂で、俺の命など、雨に流される程の価値もないのだと気付かされた。酔って体温が上がっていたはずだが、手がかじかんでいるのがわかった。もしその手を温めたいのなら、自分の力でなんとかするしかないのだ。誰も助けてはくれない。生きたきゃ生きればいいし、死にたきゃ死ねばいい。ただそれだけの事だ。そう確信を得た時、なぜだか生に対する活力が湧いてきた。まだ生きてみたいと思えた。どうせ俺など天から見放された存在なわけだ。それなら俺の好き勝手にやってやろう、そう思えたんだ。俺は誰もいないバス停から、河口湖駅へ向かい踵を返した。バッグが大分軽くなっていた。


 地元の駅へ着くと、辺りはすっかり暗くなっていた。電車賃が幾らか足りなかったので、キセルをした。まさか戻って来るとは思わなかった。戻って来た時の、安堵感が俺の本心なのだと思う。所詮はヘタレだった。死ぬ勇気などなかったのだ。だから俺はこの坂を今上っているんだ。新居のボロアパートに向かって。荷物は大して持って来なかった。スーツケースとボストンバッグに必要最低限の物は詰め込んだ。それ以外の物は、弟のマンションに置かせてもらう事になってる。必要になったら取りに行けばいい。

 坂を上りきると、右ヘ曲がった。すると直ぐにボロアパートが見えた。6部屋しかないアパートの2階の1番奥が俺の部屋だ。スーツケースを持ち上げ、俺はミシミシと音を立てる階段を上る。蹴り破れそうな程か弱い玄関の前に辿り着くと、鍵を回した。部屋の中は内見の時よりも幾分かはきれいになっていた。俺は荷物を放り投げると、和室へと向かい、窓を開けた。すると、遠くの方に咲いている桜の木々が目に入った。あの辺りは緑道にでもなっているのだろうか。ちょうど桜が満開のこの時期だ、後で行ってみようと思った。その前に煙草だ。俺は和室に倒れるように寝っ転がると、煙草に火を付けた。天井をボッーっと見つめていると、自分はあの満開の桜のように、まだ咲けていない事に気付いた。咲いていないのだから、散ることも枯れることもできないのだ。散るも枯れるも、まず大前提は咲くことだ。俳優として、それができるだろうか。一度折れた心を取り戻せるだろうか。じゃなくて、やるしかないんだよな、生を選んだのだから。玄関を開けっ放しにしていたせいで、心地よい風邪が部屋の中をすり抜けた。お陰で煙草の灰がさっそく畳を汚した。この灰のようになってたまるか、これが今の俺の精一杯の反抗かもしれない。けど、全ては前を向いた瞬間から始まるんだ。窓の外の吸い込まれそうな青空が、少しだけ俺の味方をしてくれた、ような気がした。

 

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