第20話 モルヒネ

 本番まで1週間を切った。地元の駅から数駅の、行きつけのこの店はいつも居心地がよかった。近頃は分煙の店も増えてきた気がするが、もちろんここは堂々と吸える。特にこれと言った特徴のないチェーンのカフェだが、混んでる日を見た事がない。なぜだか自宅ではあまり台本を読む気にはならなくて、セリフを覚えるのは、家の近くの図書館か、ここだ。今回は本番まで時間がかなりあったたから、もう完璧にセリフは入っているし、役作りもできている。そこからさらに仕上げるんだ。仕上げると言っても正解はわからないから、とにかく台本を可能な限り読み込む。イギリスの俳優のアンソニー・ホプキンスが、「私は、台本を250回は読む」とインタビューかなんかで言っていたのを覚えているけど、そこまでは無理だとしても、手本にはしたい。読めば読むほど、解釈がどんどん変わってくるんだ。最初に読んだ時の世界観は、もうどっかに行ってる。そんでもって、最終的にはわからなくなるんだ。わからなくなると不安や焦りが生まれてきて、撮影が怖くなる。けど、その先があって、撮影直前になるともう開き直るんだ。そんで、今までやってきた事を全部忘れる。脳というか、肉体にすり込まれたものだけを信じるんだ。本番は極力何も考えないで、相手や、そこにあるものにだけ反応する。相手がどういう芝居をしてくるかはわからないから、その都度反応は変わる。覚えたセリフを言えない時は言わない。前野監督は、そういう部分におそらくシビアだから、俺の方向性には合ってると思う。山城さんも大好きだけど、前野さんと仕事をすることで、自分の新境地が開けるかもしれないという期待は強くあった。

 それにしても、俺は1杯のコーヒーで何時間粘るんだ。全然飲んでねぇし。もうすぐ日が暮れるな、帰るか。俺は冷めたホットコーヒーを一気飲みした。テーブルの上の携帯をポケットにしまおうとした時、携帯が震えた。表示は、ペニーさんだ。俺は煙草を手に取ると、そそくさと店を出た。

「はい、もしもし、お疲れ様です」

と俺は、カフェからすぐ近くの改札に向かいながら電話に出た。

「お疲れ様です。今大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です」

「伝えづらい事ではあるんですが、プロデューサーが配役を変えたいと」

「えっ?」と俺は改札前で立ち止まった。

「どういう事ですか?」

「配役を、一条カオルから、ゴンゾーに変更してほしいそうです」

「ゴンゾーって・・・俺、絶対あってないと思うんですけど」

「私もそう思います。端役ですし」

「それに、5日前ですよ」

「はい。ですが、現実的な問題として、柏原さんに残された選択肢は、ゴンゾー役を引き受けるか、降板するかです。社長は、端役だろうが、完璧に演じて実力を見せつけてこいって言ってます」

「そういう事じゃないんですよ・・・端役でも全然いいんですよ、ただ・・」

「気持ちはお察しします。ただ、この業界は、筋の通らない事が通ってしまうこともあります。歯を食いしばって耐える強さも必要かと思います」

「・・・・・」

「明日中には結論をお願いします」

「わかりました・・・」

俺は電話を切ると、改札から少し離れてその場にうずくまった。人目など関係なかった。なんでだ?なんでこうなる?俺が何をした?やっとの思いで掴んだ劇場公開映画の主役じゃないか。俺なんて本当は必要なかったのか?直感的に、俺よりネームがある奴が出てくれることになったんだろうなとは思った。クソが。絵美里ちゃんにはなんて説明すればいいんだ。俺は気だるく立ち上がり、駅構内のコンビニを目指した。


 家に着くまでに、缶チューハイを3本空けた。駅のホームで2本、最寄りの駅から自宅までの帰り道で1本。30分弱の間での3本は、それなりに効いた。本番が終わるまでは禁酒するつもりだったが、失敗に終わった。明日中には、結論を出さなきゃならないが、いったん忘れたかった。やけ酒というわけではないが、これから駅前で待ち合わせて、昔のバイト先の後輩の女の子と飲む事になってる。こんな部屋で1人で飲んでたら、より落ち込んで行くだけだ。こんな時は、かわいい女の子とパーっと飲んで忘れちまった方が良い。絵美里ちゃんには、電車の中で真っ先にメールしたけど、会えるわけもないから、降板させられるかもという事実だけを送った。もちろんまだ返信はないけど、多忙な桜木マロンちゃんなわけだから、仕方がないのは充分承知している。これから会う、まゆちゃんは、コンビニでバイトしてた時の後輩で、当時はまだ高校生で、今は保育士になったらしい。俺とは5歳も離れてるけど、当時から俳優活動を応援してくれて、ありがたい事に俺の面をよく褒めてくれた。今は年に一回くらい連絡を取り合う関係性だけど、さっきメールしたら割りとすぐ返信がきて、明日仕事だけど、21時以降で少しなら大丈夫らしい。そうだよな、保育士だもんな。俺みたいにぷらぷらしてらんないもんな。

 玄関の開く音がした。母ちゃんだ。「お帰り」と俺は自分の部屋から叫んだ。普段はお帰りなんて恥ずかしく言えないけど、酔ってると言えるんだなこれが。

「あんたまた酒飲んでるの?」

親の勘は鋭い。声1つでわかるのか。

「少しね」

「程々にしなさいよ」

とりあえず無視した。過去に何度言われたかわからないセリフだ。

「郵便、またたまってきてるわよ。支払い大丈夫なの?」

これもだ。

「うん、大丈夫、ちゃんと払う」

携帯の時計を見た。21時5分前だ。俺は腰を上げると、ハイボールのロング缶を一気に飲み干し部屋を出た。いつものポディションに腰を下ろしテレビをつけようとしている母ちゃんに、「ちょっと出かけてくる」と投げ捨てると、郵便物はスルーして玄関ヘ向かった。

「雨降ってきたわよ」

マジか。

「傘借りる」

と俺は母ちゃんのダサい赤い傘を手に取り玄関を出た。

 

 駅前に先に着いたのは俺だった。ものの5分で雨が大分強くなった。こんな雨の中呼び出して申しわけないな、とふと思ったが、その時には駅前の1本道をこっちに向かって歩いて来るまゆちゃんを発見してしまった。コンビニ前まで来ると、店内の明かりに照らされてまゆちゃんの顔がはっきりと見えた。顔も然り、小さく手を振るまゆちゃんがかわいかった。俺がふざけて大袈裟に手を振り返していると、ポケットの携帯が震えた。表示は、ペニーさんからの電話だ。一瞬、出るか迷った。どうせ、急かされるんだろう、もうちょっとだけ待って下さいよ、すぐに結論出しますから。まゆちゃんが車通りの多さでこっちへ渡れずにいる。電話に出た。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。先程連絡したばかりなのにすみません。今大丈夫ですか?」

「はい、少しでしたら」

「急展開となり申しわけないのですが、配役を代えてもらう以前に、作品自体がポシャるかもしれません」

「え?」

「まだ確定ではないですが、おそらくその可能性が高いと」

「何があったんですか?」

「驚かれるとは思うんですが、桜木マロンさんが、亡くなられました」

「・・・・・・」

「死因は定かにはされていませんが、自宅マンションのベランダから飛び降りた形跡があり、自殺かと」

「・・・・・・」

「今、代役を探しているんですが、おそらく間に合わないだろうと」

「・・・・・・」

「柏原さん、聞こえてますか・・・」

ペニーさんの声が遠ざかって行く。まゆちゃんがこっちを見ているのがわかる。さっきまでさしていたはずの赤い傘が地面に転がっている。俺はきっと雨に濡れている。冷たさなど感じない。だらりと伸び切った右手には、かろうじて携帯が握られている。これじゃペニーさんの声は聞こえないか。通行人も、通りすがりの車の奴も、まゆちゃんも、不思議そうな顔で俺を見ている気がする。もう何もわからないし、感じない。ここは、どこだ?多分、暗い、暗い闇の世界に今俺はいる。



 


 

 

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