第5話 STAY

 重低音が響き渡っている。薄暗いフロアには人が敷き詰められ、ストロボが陶酔する彼等の姿を刹那に映し出す。クラブシーンではそこそこ有名な箱で、なはずで、名前は前々から聞いたことがあった。道玄坂の中腹部に位置するこのクラブを選んだのは、浅野さんに「どこにする?」と聞かれた時、「クラブは?」となぜか言ってしまったからだ。「マサト君、クラブなんて行くんだ?」の問いに対し、「ちょっとね」と答えた自分が嫌いだ。一度も行ったことはない。その時の有希の半笑いの表情も腹が立った。「いやお前行ったことないだろ」といかにも言いたげだった。いや、お前もだろ。

 フロアの隅のテーブル席で、うちらは中学の時のバカ話しに花を咲かせていた。有希も車椅子から下り、備え付けの椅子に座っていた。この薄暗い照明が、浅野さんをより妖艶に見せた。少し背伸びした服装も魅力的だった。 

「でも、浅野さんホント美人になったね」

有希が煙草をふかしながら言った。

「そんなことないよ」

謙遜する浅野さんに俺が被せる。

「いや、絶対かわいくなった」

「ありがとう。でも、マサト君と川島君もかっこよくなったよ」

「マジ?」

酔っていた俺は立ち上がり、おどけてみせた。有希は至って冷静だった。

「そう言えば、浅野さんて今何やってんの」

有希が質問していた。確かに。

「うーん、写真とか撮られる仕事かな」

「えっモデル?すっげぇ」

と俺は話しに割って入った。

「モデルっていうか・・・」

浅野さんの目線が有希の指先に行ったのがわかった。

「ねぇ、よかったら一本もらえないかな」

有希は浅野さんに無言で煙草を差し出し、火をつけた。

「ありがとう」

「へぇー、浅野さんも吸うんだ」

と思わず俺は言った。

「お酒飲んだ時だけ、ちょっとね」

「浅野さんは美人だから似合うよ」

有希がサラッと言った。

「マサト君と川島君は今何やってるの?」

ドキッとした。聞かれてしまった。

「こいつはバンド。俺は、今は秘密かな」

有希のバンドの誘いは、ちょっと前に断わった。凄く迷ったけど。

「へぇー川島君バンドやってるんだ」

有希が頷く。

「何系?」

「ロックとか、パンクとか、そっち系」

「こいつ結構いいうた歌うんだよ」

少し悔しいけど、俺は酔った勢いで本音を言ってやった。

「私もそっち系好きだよ。グリーン・デイとかたまに聴くし」

「えっ浅野さんグリーン・デイ聴くの?意外」

と俺はオーバーに反応し、有希の煙草を勝手に抜き取り火をつけた。

「うん、バスケットケースとか、グッドリダンスとかめちゃくちゃ好き」

「名曲じゃん」

と有希が一言口を挟む。こいつもテンションが上がっているのがわかった。

「私と同じクラスだった友美ちゃん覚えてる?田辺さん、同じテニス部の」

「わかるよ。テニス上手かったよね」

「俺も一年の時クラス一緒だった」

「友美ちゃんね、高校の時にバンドに目覚めて、今三人組のガールズバンドやってるの。仲良かったから、最初に誘われたんだけど、どうしても忙しくて断っちゃった。今度デビューが決まったみたいで、その内ライブ見に行こうと思ってる」

あの背が高くて、テニスが上手くて、優等生で物静かだった田辺さんが、バンドに目覚めたらしい。音楽にはきっとそれだけの魔力があるのだろう。有希もそれに取り憑かれた1人だ。俺だけだな、宙ぶらりんなのは。 「あの田辺さんがねぇ。くっそ、先越されたわ」

と有希が悔しくなさそうに言った。

「川島君のライブも見に行くよ。決まったら教えて。応援するよ」

「ありがとう」

嫉妬してしまった。こんなかわいい子が見に来てくれるのか。俺は、グラスの酒を一気に飲み干した。

「まあとりあえず、ビートにのろうぜ」

と俺は急にフロアの後ろの方でめちゃくちゃに踊り始めた。有希と浅野さんが俺を見て笑っているのがわかる。うるせぇ、関係ねぇ。しばらく踊っていると、浅野さんが俺のすぐそばに来てクールに踊り出した。このままぶっ壊れたかった。


 クラブを出ると少しばかり寒くなっていた。三人で道玄坂方面へ歩き出した。まだ終電には余裕で間にあう。のんびりと歩いていると、有希が急に車椅子を違う方向へ回転させた。

「マサト悪い、ちょっと急遽人と会う事になっちゃってさ。俺は行くよ。浅野さんまたね」

と有希は不自然な路地へと消えて行った。浅野さんがポカンと小さく手を振りながら言った。

「気を使わせちゃったのかな」

「か、女」

多分、気を使ったんだと思う。か、二割くらいで女だ。有希が見えなくなると、なんとなしにまた歩き出した。しばらく無言にはなったが、浅野さんが先に口を開いた。

「中学の時はさ、今日みたいには喋れなかったよね」

「確かに」

「お互いずっと緊張してた気がする」

「うん」

「一度も下の名前で呼んでくれなかった」

「そうだっけか」

「うん」

「じゃあ、エミリちゃん。これからはエミリちゃん」

「手も繋いでくれなかった」

「・・・」

道玄坂を駅に向かい下っていた。俺は絵美里ちゃんの左手を不意にそっと握った。

「えっ」

と小さく絵美里ちゃんが反応した。彼女の体温が伝わってくると、俺は無意識にピタリと立ち止まった。キョトンとした顔で絵美里ちゃんが俺を見ている。体が勝手に動いた。俺は、下ってきた坂を上り始めた。左手を引き連れて。左手から伝わってくる感情を信じた。とぼとぼと二人で坂を上って行く。絵美里ちゃんが喋らなくなった。俺も。この気まずい空気を言葉で埋めたかったが、急に出てこなくなった。かと言って、二人の手が離れる事もなかったが、こういうとこだな、と自分が情けなくなった。こんな奴の右手で申しわけなく思ったが、もう後には引けなかった。

 料金表を眺めていると、自分の勘違いに気づいた。「STAY」と「REST」を間違えていた。俺は今までずっと、「レスト」の金額帯で「ステイ」ができると思っていた。俺の今の所持金では、どう考えてもレストしかできない。この時間から入るなら、どう考えてもステイだ。最大のミスだ。俺の隣では絵美里ちゃんがシュンと居心地悪そうにしている。やむを得ない、俺は苦渋の決断を下した。

「やっぱやめよう」

と俺は絵美里ちゃんの手を引っ張り、来た道を引き返した。

「私、あるよ」

と絵美里ちゃんが恥ずかしそうに言った。バレてた。金が無いのがバレてた。そりゃそうか。というか、ん?歩く速度を緩めるつもりはなかったが、徐々に速度が落ち、結局は立ち止まった。

「・・・」

「・・・」

俺は、本日三度目のUターンをし、絵美里ちゃんを連れホテルの中へ消えた。くそだせぇ。

 

 こうしてベットに横たわり天井を眺めていると、リラックスどころか、未来への不安が俺の頭の中をぐるぐると駆け巡る。今さっき、隣で横になっている絵美里ちゃんとのセックスを終えたわけだが、で?満足か?確かに中学の時はなんにもなかったが、そのリベンジがしたがったのか?いや違う、ただのアルコールの魔法か?いやそれも違う。じゃあ一体なんなんだ、絵美里ちゃんと再会した時、確かにかわいいなとは思ったが、こんなふうになるとは思わなかった。ただ、手を握った瞬間に、その時感じた自分の自然な気持ちに従った。そしたらこうなった。絵美里ちゃんはどう思っているのだろうか。付き合おうって感じも全く出してこないし、俺も彼女を好きなのかどうかは、不明だ。ただのワンナイトだとしても、せめて料金を支払うのは俺なはずだが、数時間後に財布を手に取るのは彼女だ。ステイ代も払えないダサい男に対して、「私、あるよ」と絵美里ちゃんは言った。セックスしたかったのか?こんな奴と。流石に俺の事はもう好きじゃないだろう、なのにどうして。いや、そんな事より、絵美里ちゃんの言葉に甘えた自分が情けなかった。目先の事しか考えられず、空っぽだ。未来が不安になった。そう思うと、隣で俺に背を向けて横になっている絵美里ちゃんが急に愛おしくなった。というより、甘えたかったんだと思う。結局甘えるんだよ、俺という人間は。俺は体を回転させ、絵美里ちゃんの後頭部をぼーっと眺めた。きれいな髪だな、と素直に感じた。別に念じたわけでは無いが、絵美里ちゃんが俺の方に体を傾けた。目があった。俺は逸らさずに、おそらく腑抜けた面で彼女の目をじっと見ていた。沈黙に痺れを切らしたのか、

「なに?」

と絵美里ちゃんが口を開いた。

「俺、ひどい振り方した気がする」

「別れようって言ったのは私の方だよ」

「そうだけど、ずっとずっと泣いてた。雨に濡れながら。気づいてたでしょ?俺の気持ち」

彼女は何も答えなかった。

「なのに、エミリちゃんはずっと俺のこと好きでいてくれた気がする。俺って悪魔だね」

「マサト君は優しかったよ」

意外な言葉だった。

「あの時ね、辛かったけど、これからもずっと優しいマサト君でいてねって、必至に願ったの。そしたら涙が急に溢れてきて、止まらなくなっちゃった」

「ごめん・・・」

「迷惑かけたのは私の方だよ。マサト君を困らせちゃった」

「・・・・・」

まただ。言葉が出なくなった。俺は誤魔化すように体をひねり彼女に背を向けた。彼女の器の大きさに、自分が酷く小さな男に思えた。

「ねぇ、そう言えば」

と彼女が背中に話しかけた。

「うん?」

と俺はいじけたように反応した。

「有名人になりたいって言ってたよね」

「うん」

「さっきクラブでマサト君がトイレ行ってた時ね、川島君がマサトは舞台やってるって」

「・・・」

「頑張ってるんだ、と思って安心した」

「舞台じゃなくて」

「え?」

「映画に出演する俳優になりたいんだ」

スカウトを始めた初日からなんとなく思っていたもやもやを初めて言葉にした。すっきりした。自分の気持ちに迷いが無い事を確認できた。

「映画?」

「うん」

背中越しに絵美里ちゃんの表情がわかる。

「映画俳優ってことか。じゃあ、スクリーンの外から応援してるね」

独特の言い回しだった。絵美里ちゃんに気付かされてどうする。そうか、俺はスクリーンの中の人になるのか。じゃあ、絶対に出てこないぞ、中から。

「ありがとう」

と俺は素直に言葉を発すると、気を良くしたように絵美里ちゃんの方へ寝返りを打った。

「エミリちゃんて今モデルやってるんだっけ?」

このルックスなら余裕でできるなと思った。細いし。

「モデルなんて言ったっけ?いろいろやってるよ。お互い頑張らなきゃね」

「そうだね」

「ねぇ、もう一杯だけ飲まない?」

「おっいいねー」

絵美里ちゃんが冷蔵庫に向かう。バスローブを羽織った後ろ姿に見惚れてしまった。昔、俺はこの子と付き合っていたのか、いや、本当は俺が描き出した空想世界だったんじゃないのか、とさえ思った。「はい」と絵美里ちゃんが缶ビールを持ってきてくれた。俺はベッドから起き上がると確認した。

「うちらってさ、中学の時付き合ってたよね」

「うん、付き合ってたよ」

現実だった。そりゃ現実だろう。「急にどうしたの?」みたいな反応をしない絵美里ちゃんが好きだった。「乾杯」と言わずに乾杯すると、絵美里ちゃんの方が先にビールに口をつけた。美味しい、と一言呟くと、

「ねぇ、煙草一本もらえないかな」

と申しわけなさそうに言った。

「うん」

と缶ビール片手に俺は立ち上がると、気づいた。ねぇや。そういや、クラブで有希の盗んで吸ってたな。どうしよう。買いに行くのは面倒だ。だるい。

「あっそう言えば、川島君の吸ってたよね?なければ大丈夫だよ、我慢できるから」

なんていい子なんだと思った。俺の心が読めるのか?気分が一瞬で変わった。

「いや、買ってくる」

この子のためなら何でもできると思った、一瞬。


 昼過ぎの道玄坂は繁盛していた。いわゆる、社会的に真っ当に生きてる人達にとっては、「お昼休み」にあたるのか。これだけ飲食店が立ち並んで入れば、毎日飽きる事もないのだろう。知らんけど。ただ、30分とか長くて1時間とかで飯をかっ食らって、ハッピータイム終了ってわけだ。窮屈じゃないか?そう考えると、俺は自由だな。さっきまで隣にいる絵美里ちゃんと昼までおねんねしてて、これから出勤するもしないも自由で、出勤したとしても休憩時間は自由だ。ただ、金がねぇ。そこが唯一あいつらに劣るところだ。目の前の高そうな飲食店には入れない。下手したら「REST」よりも高いんじゃないか?自分がレストよりも高い飯を食ってるところを想像してみた。うん、答えは一つだな。映画俳優として売れるしかない。どうでもいいが、さっきからタクシーが来ねぇ。渋谷なんていくらでもつかまえられそうだけど、この坂を下って来るタクシーが俺には見えない。絵美里ちゃんが、仕事の出勤時間まで時間がなくてタクシーで帰るらしいんだ。凄いよな、タクシー使えちゃうなんて。稼いでるんだろうな。俺なんて、電車か有希のポンコツキューブだよ。タクシーの一台もつかまえられない俺もポンコツだけど。

 ようやく捕まえたタクシーに絵美里ちゃんが乗り込むと少し寂しくなった。「エミリちゃん行っちゃうのかぁ」と心がしゅんとしてているのがわかったが、ぐっと歯を食いしばった。別に好きってわけでもないはずなのに、一体この気持ちはなんなんだろう、とバッグをガサゴソと弄っている絵美里ちゃんの横顔を見ながら思った。運転手に「ちょっと待って下さいね」と彼女は伝えると、ガサゴソが終わった。

「エミリちゃん、連絡するね」

と俺が当たり障りのない言葉をかけると、

「はい」

と彼女は俺の右手を両手で握った。

「え?」

手のひらに違和感を覚えた。

「うん、連絡してね」

手が離れた。ドアが閉まると、ゆっくりと車体が動き出した。中から小さく絵美里ちゃんが手を振っている。俺も小さく左手で振り返す。右手の感触に気を取られながら。絵美里ちゃんが遠ざかって行くと、俺は手のひらの感触を目で確かめた。そんな気はしてた。右手を開放すると、折り畳まれた一万円札が手のひらに乗っていた。「いやぁ、さすがにに」と思った。刹那、迷いも生じたが、タクシーと俺の開いた距離を確かめ、決めた。まだいける。俺は、車道に飛び出し全力でダッシュした。「エミリちゃん、ちょっと待ってて」と念じながら。絶対にこれは返そう。下り坂が救いだった。












 


 


 


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