第4話 赤い傘
気づけば二十歳を迎えていた。有希の方が一足先に迎えていて、俺等みたいなのが成人だ。大丈夫か世の中。二十歳にもなってこんな事してて大丈夫なのか。いや、二十歳だからこんな事してるのか。11月の心地よい風が、ハチ公前の俺と有希の間を何か言いたげに吹き抜けた。俺はすっかりこの仕事に慣れてしまった。と言っても、稼げるようになったという意味じゃない。女をナンパすることに抵抗がなくなった。シカトされてもなんとも思わなくなった。そして、シカトされる回数が減ってきた。何人かは風俗嬢にした。病んでる女が多く、苦戦した。人の心を持つと、この仕事はできないと思った、だって、弱ってる女を風俗落ちさせるわけだ。初めから風俗嬢になりたいです、なんて女まずいない。俺はまだ情が入ってしまうのか、ここぞという時に迷う事が何度かあった。有希も俺と同じような事を思っているのだろうか、そのへんはわからない。まあ少なくとも、目の前のヒデ君は思っていないだろう。
今日は人が少ない方だと思う。いくらハチ公前とはいえ、日によって人の流れに変動はある。昼過ぎに有希と車で来て、サボりながらも、もう四時間くらいは働いている。ヒデ君もだ。今日は出勤が早目だなと思った。出勤と言っても、彼の場合はただのナンパ目的だ。泰三組に属する事で、このシマを使って毎日自由にナンパできる、いつだったかそんな事を言っていた。彼の実家は金持ちで、通ってはいないが、ヒデ君は慶応大だ。おまけに長身のイケメンで、ギャル男。同い年だが、既に100人以上の女とやったらしい。有希が女にシカトされ戻って来た。
「やっぱヒデ君すげぇよな」
と有希がヒデ君を見ながら言うと、彼が俺等の近くを通り過ぎた。
「ねぇねぇホテル行かない」
と俺の苦手なギャルをナンパしていた。彼のの好みは、ギャルだ。上手くできたもんだ。
「第一声が、ホテル行かない?だもんな」
と俺が呟くと、有希の悪ノリが始まった。
「おれらも真似してみっか」
「無理だよ」
「もしかしたら上手く行くかもしんないぜ」
「じゃまずお前やれよ」
有希が品定めを始めた。改札を抜けて歩いて来る控えめそうな女を見ている。有希の車椅子が回転し始めた。
「すいません、ちょっとわけがありまして、僕とホテル行きません?」
女は少し笑ったが有希を振り切った。撃沈。有希が渋い表情で戻って来る。
「想い伝わんなかったわ」
「なんだよ、ちょっとわけがありましてって」
「マサトやれよ」
「・・・」
スクランブル交差点の方から、改札方面に向かう、多分同世代くらいのひょろい女が視界に入ってしまった。うつむいていて顔がよくわからないが、まっいいやと俺はしぶしぶ近づいて行った。
「すみません、もしよろしければ僕とホテル行きません?」
女が俺を振り返った。その瞬間にはもう、俺の脳は揺れていた。
「気持ちわりぃんだよ、渋谷のゴミが」
と、女は原宿まで届くんじゃないかくらいの大声で叫びながら、俺を思い切り引っ叩いた。フリーズしてしまった。こんな事ってある?いやあったな今。女が足早に去って行く。あんな鬼みたいな形相見たことがない。怖っ。あいつは病気だ。ガラガラという音が近づいて来た。有希が俺を指指している。
「渋谷のゴミ・・・」
笑ってやがる。クスクスと。ヒデ君の視線も感じた。俺はとぼとぼと木陰まで移動すると、ゆっくりと腰を下ろし煙草をくわえた。全てのポッケを弄ったがライターがねぇ。くそが。とりあえず携帯をいじって気を紛らわすしかなかった。全く、一体何だったんだあの女は。マジでついてねぇ。携帯には誰からも連絡がない。最悪だ。携帯にも逃げられないのかちきしょう、と前かがみになっていると、コツコツと音が聞こえた。ヒールの音か?徐々に近づいて来て俺の前で消えた。
「マサト君だよね?」
俺は瞬時に顔を上げた。え?
「わかる?」
「・・・浅野さん?」
「そう」
と彼女は微笑んだ。かなり驚いた。あのイカれた女の事など吹っ飛んだ。記憶がフラッシュバックする。
「えっなんで?どうしたの?びっくりしたぁ」
「私もびっくりした。けど、覚えててくれてよかった」
「そりゃ覚えてるよ。元気?ってかよく気づいたね」
「物凄く大きな声がしたから、振り返ったら、あれ?川島君?て。そしたら近くにマサト君がいて。声かけるか迷ったんだけど」
あれか。あれのお陰か。お礼言わないとなあいつに。
「じゃあ、見られちゃったね」
「凄い迫力だった」
と浅野さんはしとやかに笑った。可愛くなってた。あの頃よりもずっと。出番を失っていた記憶が、ここぞとばかりに俺を中三の夏へと引きずり戻した。
「雨が降っていた。雨が降っているのに、待ち合わせ場所はコートだった。三年最後の総合体育大会の前日、僕は浅野さんに呼び出された。何を言われるかわかっていたけど、それを望んでいた。僕は1人夏休みの学校へ忍び込み、テニスコートへ向かった。先にいたのは彼女だった。赤い傘が目立っていた。コート上でセンターネット越しに浅野さんと向かいあうと、沈黙が続いた。僕はずっと下を向いていた。長い長い沈黙の後、浅野さんが雨にかき消されそうな小さな声で言った。
「私たち、別れた方がいいと思うよ」
別れよう、じゃなかった。僕は少し考えたふりをしてから、「うん」と答えた。彼女は言葉を返さない代わりに、泣いた。ずっとずっと泣いていた。彼女の赤い傘が地面に転がっていた。僕はどうすることもできずに、ただそこに立っているだけだった。気持ちの冷めた人間は、悪魔にもなる。僕は別れの言葉を彼女に言わせた。ずるい奴。本当は早く別れたかったくせに、少し考えたふりをしてから、うんと言った。嘘つき。彼女を深く傷つけてしまったのに、どこかすっきりしている自分がいる。悪魔。悪魔。悪魔。僕は神様に聞いたはずなんだ。どうして浅野さんはいつも優しかったのに、僕の心は離れて行ってしまったのか。離れた心を取り戻したいのに、どうして僕の手はこんなに短いのか。離れた心は、二度と戻らないのか。神様は何も答えてはくれなかった。一年前の夏休み、僕らはコートに忍び込んで一緒にテニスをした。その日も雨が降っていた。二人に雨なんて関係なかった。浅野さんが目の前にいるだけで幸せだった、はずなのに。今日のこの雨はきっと、その一筋一筋がナイフへと変わり、浅野さんの胸にだけ突き刺さっているのだろう。僕のこの汚い心も、切り裂いてくれればよかったのに」
仕事を再開した。浅野さんとはいったんハチ公前で解散し、夜に有希も含めて三人で合う事になった。もちろん有希も浅野さんの事はよく覚えていた。
浅野さんとは、同じテニス部で、中一の三学期から中三の夏休みまで付き合っていた。と言っても、俺が好きだったのは最初の半年間くらいで、それ以降は振られるためにずっと無視してた。自分から告白したのもあってか、別れようと言えなかった。きっと彼女は俺の気持ちが冷めてる事に気づいてたはずだけど、最後の最後まで、俺の気持ちを取り戻そうとしていた。彼女はいつでも優しかった。絵の上手な女の子だった。手紙のやり取りもしたな。けど、本当何もなかったな。恥ずかしくて手も繋げなかったし、キスもしてない。下の名前で、絵美里ちゃん、なんて呼んだこともない気がする。ピュア過ぎて引くな。今はこんなんだけど、今の方がまだマシか。近くにヒデ君がいたので聞いてみた。
「ねぇヒデ君、俺ってチャラそうに見える?」
「いや、見えないね。マサトはピュアだよ、根が真面目じゃん。俺とは違うよ」
さすがにヒデ君とは違うよ。えっけどそうなの?意外だった。もしや、あの頃と俺何も変わってないのか?自分ではわからない。有希にも聞こうと思ったけどやめた。こういう時あいつは絶対にまともには答えない。缶コーヒーを買いに行っていた有希が戻って来た。ヒデ君と俺にも振る舞った。サンキュー、と皆いっせいに煙草を吸い始めた。
「そういやマサト、中学ん時に貸したミスチルのアルバムさ、返せよ」
有希がぼそりと言った。俺はゆっくりと煙を吐き出しながら、蘇りそうになった記憶を無理やり封印した。全く、記憶ってのは厄介なやつだな。
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