第3話 坂の上の小さな映画館
夏の終わりに正確な線引きがあったとしても、その線を越えても暑かったら別にまだ夏だ。ハチ公前はまだまだくそ暑かった。日中という時間帯と、目の前の人混みが暑さを倍増させているのか、とにかく鬱陶しい場所だと思った。忠犬ハチ公もかわいそうなやつだな、こんな所に毎日毎日突っ立ってなきゃならないのか、目の前のヤマンバギャルを見てどう感じているのだろう、などとくだらぬ事を木陰に座り考えていると有希が近づいて来た。
「マサトもやってみろよ。後でちゃんと泰三さんには紹介するわけだから。な」
有希はさっきからずっと、通りすがる女に声をかけている。それが嫌だったわけではなく、単純に暑さと人混みがだるかった。俺はしぶしぶ腰を上げた。
「やるか」
有希に紹介されたバイトは、風俗嬢のスカウトだ。今有希がやってる様に、ひたすら女に声をかけ続ける。縄張りってのがあって、ハチ公前からは出ちゃだめらしい。ハチ公前を仕切ってる人が泰三さんて人で、後で紹介される予定になってる。絶対にヤクザだろ、と思ったが、有希は違うと言っている。ろくなバイトじゃないが、劇団を辞めてから一ヶ月近く何もしていないわけで、やるしかなかった。とにかく風俗で働く女を見つけるしか選択肢はない。自分がスカウトした子の月の売上げの10%が給料になるみたいで、スカウトできなければゼロだ。有希が若い女を追っかけつかまえた。話し込んでいる。あいつにできて俺にできないわけがない。「よっしゃ、やってやる」と俺は意気込んだ。
信号が変わると人々はいっせいにスクランブル交差点を渡り始めた。TVでよく見た光景だった。右手側に見える薬局も、正面のTSUTAYAのビルも、左に見える109も、画面の向こう側のものだと思っていたが、俺は今その向こう側にいる。田舎者だと悟られたくないがゆえに平静を装っているが、内心はドキドキしているのかもしれない。渋谷の街を全身で感じながら、俺も交差点を渡った。
縄張りを出たところで、当たり前だがスカウト行為をしなきゃ問題ないわけだ。こっち側にも俺等と同じ様に女に声をかける胡散臭い奴らがいた。こっちにはこっちのボスがいるわけか、きっとヤクザだろうな、有希が言ってた泰三って人も絶対。俺は、「厄介な世界に飛び込んじまったな」と吐き捨てると、憂鬱から逃げ出すようにセンター街に足を踏み入れた。見渡す限り商店が軒を連ね、人で溢れている。その隙間で、パチ物のアクセサリーや、合法ドラッグを路上で販売する外国人が目立つ。マジックマッシュルームでも売っているのか、興味もなかったが、ちらっと覗いてみたら売られそうになったのですぐに通り過ぎた。うす汚ない路地裏にはギャルの格好をした女子高生がたむろしていた。全員肌を焼いていて、メイクも髪型も似た者同士だ。何故あんな格好が今流行っているのか俺には理解できない。ついさっきまで若い女に声をかけ続けていたが、極力ギャルは避けた。見た目もそうだが、あの、ノリ、についていけなかった。
センター街を中程まで歩くと、交番に突き当たった。風俗嬢のスカウトは、違法じゃないのか聞きたかったがもちろんやめた。ここら辺まで来ると、ガヤつきが少し落ち着いたように思えた。交番を中心に道が二手に別れていて、どちらの道も人気が多いとは言えなかった。俺は何も考えずに右へ進んだ。土地勘は皆無だ。少し歩くと、右側に坂道が見えた。道幅の狭い上り坂だ。その丁度入口に、美味そうな定食屋を見つけた。さっきまで女に声をかけっぱなしで、しかも朝から何も食べていないことを思い出した。ここで腹を満たして、一服して、ハチ公前に戻るのもありだな、とは思ったが、この坂道がどこまで続いているのかが気になり、上ってみる事にした。緩やかな上り坂で、右側に小洒落た飲食店や雑貨屋が並んでいた。千葉にこんなオシャレな店は無く、一人で入るのは不可能だと思った。洒落ているのは右側だけではなく、坂を上り切る手前左側の建物に、映画のポスターが何枚か貼られていて、上り切るとその全貌が明らかとなった。そこには、見たこともないような外観と構造の映画館があった。「オシャレだなぁ」、思わず言ってしまった。映画館はどでかいものだと思っていたが、このコンパクトさが雰囲気を更に醸し出している。これが、単館というやつか、気づけば俺は吸い込まれるように、入口の上映スケジュールを確認していた。3作品中、一つがドンピシャだった。別に観たいとは思わなかったが、飯を食うより映画を観る方が長く時間を潰せるという理由で、チケットを買い2階へ続く階段を上った。出てる俳優もほとんど知らなかったし、正直、内容などどうでもよかった。
上映ホールの扉をくぐると中はガラガラだった。渋谷の人混みから解放されるには丁度いいと思った。好きな席を選べるのも好都合だ。俺は席に着くと、無意識に今日の事を振り返ってしまった。
思ったより過酷な仕事だった。最初の1時間はほとんど声をかけられなかった。かけたとしても緊張して声がひよっていた。有希は車椅子を起用にさばき、次々と若い女に声をかけていた。途中、俺から見たら中々のブスを引っ掛けどこかへ消えて行った。俺は一人となったがとりあえず必死にやった。シカトはされ続けるが、それには慣れてきた。トータルで三、四十人は声をかけたのではないか、内一人だけ話しをちゃんと聞いてくれた子がいたが、連絡先は交換できなかった。四時間程度頑張ったつもりではあるが、限界が来て俺は今ここにいる。要するにサボってはいるのだが、時給がないので休憩は自由だ。有希は今頃あのブスと何をしているのだろうか。ホールが暗くなり予告編が始まった。俺は律儀に携帯の電源をオフった。
映画館を出ると夜になっていた。さっき上ってきた坂を下り、ハチ公前へ向かった。今度は左側に見える飲食店や雑貨屋がライトアップされ、この坂を鮮やかに照らしている。俺は真剣に、「あの映画の主人公の心も照らしてほしかったな」と思った。今観てきた映画は、男子校生達の話しで、主人公の心が冷めているが故に、バッドエンドで終ってしまうという歯痒くもやりきれない物語だ。だが、心を奪われてしまった。観終わった後、しばらく席から動けなかった。映画って泣けるんだ、って初めて思った。高校一年の終わりに、「ザ・ブルーハーツ」を聴いた時以来の衝撃だった。完全に想定外の出来事で、俺はサボった俺とこの坂に感謝した。
スクランブル交差点まで差し掛かると、ハチ公前という現実が見えた。夜になり暑さがだいぶ和らいだのは救いだった。もうしばらくはやんねぇとな、と呟き交差点を渡ると、すぐに有希の姿が目に入った。人だかりの中でもあいつは目立つ。俺が徐々に近づいて行くと、有希が気づいた。
「おぅ。どっか行ってたのか」
「ちょっとな」
俺はポケットに手を突っ込み、ただ有希の前に突っ立っている。
「そうか。もう少しで泰三さん来っからよ、まあ気楽にやろうぜ」
「なあユキ、今俺の全身からオーラ出てないか」
「あ?」
「なんか変われた気がするんだよ」
有希がまじまじと俺を見ている。
「いや、出てないね」
俺はポケットから手を取り出し、自分のオーラを確認した。出てなかった。
「頭おかしくなったか?」
真面目に答えた。
「いや、大丈夫だ。そんな事よりよ、お前も途中で女とどっか消えたじゃん。あれどうなったの」
「あーあれか。上がったぞ」
「上がったっていうのは、風俗で働く事になったってことか?」
「そうだな」
「お前すげぇな、けど結構ブスだったぞ」
俺は思わず笑ってしまった。
「ブスにはブスなりの需要があんだよ。だからぶーちゃんでも一応ナンパした方がいいぞ」
確かに。それなりに可愛い子しかナンパしていなかった自分に気づいた。その瞬間、目の前を若いギャル風のブスが通り過ぎた。俺はすぐに追っかけナンパした。
「すみません、ちょっとだけお時間ありませんか・・・」
「ねぇよ」
とブスが何事もなかったかのように去って行った。「ウザっ」、と内心腹が立ったが、すぐに気持ちを切り替えた。
「いや、あれはないっしょ」
と有希がニヤけながら言った。
「は?お前がブスでも声かけろって言ったんだろ」
「限度はあるだろ」
有希の背後からこっちへ近づいて来る男が視界に入った。ん?三人組か?「川島」とセンターの男が有希を呼んだ。
「あっ泰三さん、お疲れ様です」
有希は車椅子をくるりと回転させ、センターの男の両サイドの男達にもペコペコと頭を下げていた。「終わった」、と思った。要するに、センターの高そうなスーツを着ている、オールバック、色黒、グラサン、セカンドバッグ、の強面の男が泰三さんて人で、両脇の若い黒ずくめがその手下ってわけか。まるでVシネマの世界だな。
「今日上げたんだってな」
泰三さんが嬉しそうに有希に言った。
「はい。ぶーちゃんすけど、なんとか」
「そうか、ハメんのもいいけどよ、その調子で頼むぞ」
「いや全然ハメてないっすよ」
有希がペコペコしていると、泰三さんの視線を感じた。有希がそれに気づいた。
「あっ、こいつが柏原です」
俺もペコペコした。
「柏原って言います。よろしくお願いします」
「君が柏原君か、イケメンだな。ハメまくりか」
泰三さんがそう言うと、手下達が笑った。俺はとりあえず、「いえ」と謙遜する事しかできなかった。
「まあ最初は稼げねぇけど、すぐに稼げるようになっから。なんかあったら必ず俺に連絡しろよ」
と泰三さんが俺に名刺を差し出した。訛ってた。めちゃくちゃ訛ってた。この人出身は東北か?
「川島、何時からやってたんだ?」
と、東北、いや泰三さんが有希に訪ねた。
「昼過ぎです」
「そうか、疲れただろ」
「いえ、全然大丈夫です」
泰三さんが手下を振り返り、「ピースあるか」と言った。手下の一人が懐からシルバーのケースを取り出し泰三さんに渡した。泰三さんはそれを開けると、カプセルを二つ抜き取った。
「柏くらも疲れただろ」
そんな事ないです、というリアクションをした。
「これ飲むとよ、元気出っから。じゃんじゃん上げてくれよな」
うちらの話しを聞いていたのかいないのか、泰三さんはカプセルを有希と俺に渡し「あばよ」と手下を引き連れ去って行った。俺の手のひらにはまだ、「ピース?」が転がっていた。
「お前柏くらって言われてなかった?」
有希がニヤつきながら言った。
「な」
俺はピースをポケットにしまうと、吹き出しそうになって言った。
「てか、めっちゃ訛ってねぇ?」
有希が爆笑した。
「先に言っといてくれよ。笑いそうになったわ」
「悪りぃ、マサトの反応が見たくて」
有希はよく悪ノリをする。そして俺もする。こいつと俺にしかわからないノリがきっとある。けど、あれは笑うだろ。東北訛りの強面色黒ヤクザって。あっ、ヤクザじゃないのか。
泰三さん達がいなくなってから俺等は一時間くらいスカウトをして、地元へ帰る事にした。有希は車を持っていたが、共に電車で来た。地元へ帰るには二回乗り換えをしなきゃならない。俺等は既に二回目の乗り換えを終え電車の中だ。実家へと続くこの線は大抵空いている。俺は角の席に座り、有希はその横のドアの前にいた。俺は徐ろに「あれ」をポケットから取り出した。
「これ絶対ヤバいやつだろ」
有希が俺の手のひらを眺める。
「ピースって言ってたぞ」
「・・・平和」
何が平和だよ、と自分で言って思った。
「飲んでみっか」
と有希もピースを取り出した。
「・・・」
顔を見合わせた。「せーの」と有希が言った。
何かが変わった気がした。自分の中の。劇団の事はもう忘れた。こんな薬に頼らなくても、上手くやって行ける気がした。多分、「何か」、はわかってるんだけど、冷静に判断したかった。冷静に判断したところで、結論は変わらないのもわかってるんだけど、俺は何故か宝物が入った目の前の箱を、すぐに開けようとはしなかった。箱の鍵を持っているのは俺だけだ、と余裕をこいてる自分が少し嫌だが、「今度こそ失くさないようにしないとな」と俺は強く自分に言い聞かせた。
扉が開いた。俺等の駅だ。有希が先にガチャンと乱雑に下りて行く。器用なもんだ。一番広い改札を抜けると、すぐに駅の敷地外に出れる。地元の匂いがした。俺はすぐに煙草に火をつけた。有希も。静かな街だ。有希のポンコツキューブはすぐ近くに路駐してある。俺の家は駅からすぐ近くだが、こいつの家は車で10分くらいはかかる。今から手で運転して実家へと帰るわけだ。
「これから渋谷車で行こうぜ」
無理だとわかっていたが言ってみた。
「それもいいかもな」
有希は車椅子を運転席から器用に、車内に取り付けられたアームを使って後部座席にしまいながら言った。予想外の回答だった。
「じゃあな」とあっさり車が発車した。俺は有希を見送る事もなく、家に向かった。ポケットからピースを取り出す。歩きながら俺は、手のひらに乗ったそれをあっさりと指で弾いた。「あばよ」。
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