031譚 塔に囚われた罪人(下)
そんな彼の記憶は短い。
はじめに見たものは、髭面の男ふたり。兄のオーヴラと、弟のラウロス。彼らは兄弟にしてはあまり似ておらず、オーヴラが彼の手を引いて言った。
「お前さん、俺たちと来ないか」
そこはキオール山脈の北西を走る大河のほとり。彼は凍てついた森の中、ひとり佇んでいた。
そして牢獄の中にいた時。その彼は、推定十五ぽっちだったのだ――……。
「あんた、確か」
寒さのあまり、感覚を失いつつあるケルバンは、鉄格子の向こうに訪れた黒ずくめの男を見た。
第一王子に嫁いできた娘の連れていた神官だ。確か、
「犯罪者に何か
黒い
「すべてを、やり直したくはないか」
「……は?」
何を言っているんだ、こいつは。
だが、そんな唖然とするケルバンに構うこと無くその男は言葉を次ぐ。
「新たな命として生まれ変わり、すべてをやり直したくはないか?」
「何を、わけの解らないことを」
あまりにも突拍子もない提案に、ケルバンは顔を顰めずにはいられない。
「私なら、叶えることができる。やり直したくはないか?裏切り者の聖騎士よ」
「馬鹿馬鹿しい。寝言は寝て言え」
「――そうか」
その神官は
その翌日。
ラウロス傭兵団の傭兵が聖騎士及び準聖騎士により、
「なんで……」
そのことを知らせたのは、前任の聖騎士ギャラガーだった。苦しげに顔を曇らせて、項垂れて鉄格子の前に立っている。あの艷やかだった髭も水気を失い、その老騎士はひどく疲れているのだろうと厭でも伝わる。
「すまない、ケルバン。君を救うどころか……君と共謀したとして、彼らが……」
巻き込んだ。
自分を、拾ってくれた彼らを。
ギャラガーが悔しげに己の手を強く握りしめると、
「国王に新たな宰相が付いたのだが。どうやらその宰相は徹底的に君を潰すつもりらしい……」
「体よく、使われた、ということか……」
掠れた声で、ケルバンは答える。
だがその黄金の眼は茫然として蒼然としている。今の国王は病に臥せっていると聞く。次の国王を定めないといけないだろう。きっとそれで、ケルバンがちょうど扱いやすいと判断されたのだろう。
「ギャラガー……もう来るな。いくら貴族だからってこのままだと、あんたも無事では済まされない」
ケルバンは力なく項垂れる。鎖で縛り上げられているから、顔を覆うこともできない。
まだ何か言いたげだったが、冷たくあしらって、無理矢理ギャラガーを帰した。もうこれ以上、耐えられない。自分のそばに居てくれた人たちを失うのは。
だがその日の夜。前任者で、己を見出してくれたその老騎士が捕らえられた。
「頼む……お前の自主でもなんでもいい。ギャラガー様を救ってくれ」
訪ねてきたエイルビーが言った。だがもはや、ケルバンは声を出すこともできない。今何かを言って、この兄弟子まで始末されてしまったら。そう思うと、何も頃場を交わせない――ケルバンは口を噤み、黙し続けた。エイルビーは薄情者、と罵った。
翌朝。前任聖騎士ギャラガーも打ち首に処された。
「そういや、知ってるか。国王は異国の神官をいたく気に入って、宰相としているらしい」
「異国の神官?」
「なんでも珍しい神の神官らしいぞ」
その日。見張り兵たちが忍び声で噂をしていた。ギャラガーの処刑を噂していた流れで、そんな話が出たのだ。
異国の、それでいて珍しい神の神官。
ケルバンには覚えがあった。あの黒い
その七日後の夜。
凍てつくような寒さの夜。
「すべてを、やり直したくはないか」
またあの神官が訪れた。男は黒い
「裏切り者よ。お前に機会をやろう」
はん、とケルバンは笑った。
「馬鹿馬鹿しい」
そんなこと、できるはずがない。そう呟くその声はどこか、弱弱しい。
七日間の間、様々な感情が胸を渦巻いた。疲れ切っていた。それはこれまで、感じることのなかった激しい憎しみ、哀しみ。もどかしい。自分がすべてを巻き込んだことに。もどかしい。すべてを奪われたことに。
そんなよくわからない感情に曝されて、疲弊して――そうしているうちに考えることに、生きることに、疲れ、絶望するようになった。
ケルバンはくつくつと、乾いた嗤いをこぼす。そうしないと、気が狂ってしまいそうだからだ。
「あんた、暇なんだな。使い捨ての駒を
「これは善意の提案だ。乗るか、そるか。それはお前次第」
「善意?笑わせるな。そもそもこう仕向けたのはあんただ。あんたが、あいつに進言したんだ」
この男は宰相だ。国王の右腕で、頭脳だ。
だがなおも、その男はしらを切る。
「そんな些細なことは、重要ではない」
否。切ってすらいない。開き直っている、という方が適切だ。神官の男は、笑いも泣きもしない。罵りも嘲りもしない。ただ同じことを、繰り返し問い続ける。
「もう一度問おう」男は淡々と、言葉を鳴らす。「まっさらな命となり、すべてを一からやり直したくはないか?」
そんなことができたら、どんなによいことか。
このつまらない茶番劇のような人生もきっと、ずっとずっとマシなものになっていただろう。どこにでもいるような家族と暮らして、友人を作って、生涯をともにする唯一の誰かと出会う。
別に、高望みなんてしない。しなくたっていい。普通が一番だ。平凡な平穏な生き方が一番楽で、そしてきっと一番幸せだ。
ケルバンが口を噤んでいると、男はそっと金の杯を差し出した。それは、黒い宝石で縁取られた黄金の杯。内側には神々の文字――
「これに、心の臓を捧げよ。
男の言う、「資格」の意味を、ケルバンは理解していた。そして誰がその「資格」を有しているかも。この男は神官だ。その神官が資格と言うのなら、それは間違えなく、神々の血を引く、ということ。
もしかすれば本当に、この杯に命を捧げれば、すべてがやり直せるのかもしれない。生きていてよかった、と思えるような人生を歩めるのかもしれない。
けれど。
ケルバンは同じ言葉を返す。
「馬鹿馬鹿しい」
そんなこと、信じられるはずがない。何を考えているのかさっぱり解らないが、この神官はすべてを奪った男。信用なんて、できるはずがない。
そう、内心で嘲笑ったその瞬間。
カツン、という音が塔の階段から鳴らされた。
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