032譚 復讐の徒(上)
廊下のあちらこちらで、カツカツと慌ただしい足音が響かれる。ドタドタと言ってもいい。城内は侵入者が入ったと非常に騒がしかった。
多くの衛兵たちが駆け回り、その侵入者を探し回る。彼らの意識はもっぱら、その不届き者に向けられている中、ケルバンはその王城の、とある一室の中にいた。
暗闇の中、がらんとして、何者の姿もない部屋だ。ある物は鉄組の寝台と、書斎机。それから大きな書棚や小さなチェスト、それと洋服掛け。それくらいしかない。部屋の主がいない。そしてそれは、
「……目ぼしい物はないか」
ケルバンは独り言つ。
その多くは報告書の類。本のような物はほとんどない。それが
ふと、ケルバンは思考を止めた。冷たく細い風がヒュウッと耳を撫でている。ケルバンは手に持っていた報告書を元の位置に戻し、すっと出入り口の扉を見据えた。
「ようやく来たか」
ダークグレイの
西門から出てすぐ。急坂の森林の中。雪の降り積もる、木々の合間。ケルバンはそこに、ひとりの人影を認めた。その人影はゆらり、と動くとケルバンへ意識を留め、口を開く。
「何用だ。私は急いでいるゆえ、そこを
深く鋭さのある、けれどもケルバン同様にどこか淡白な声だ。
「
「――貴様、何者だ」
しんとした声で問いを続く。それは立派な髭を蓄えた
ケルバンはやおら、フードを下ろした。さわさわと風が吹き渡り、その下に隠されていた黄金のざんばら髪を撫でつける。曇天の隙間から覗くその髪と同じ色の月がケルバンを照らし――その爛々と燃える黄金の瞳、そしてその奇妙なほどに整った白い顔をはっきりと映し出した。
「貴様もしや――黄金の聖騎士か!」
老聖騎士ブライアンが声を張る。
「数日ぶりだな?ガヴェインでは世話になった」
ケルバンはいつものように濃淡のない声を鳴らす。無表情で、冷徹な黄金を向けている。そんなケルバンに対し、ブライアンは眉を吊り上げて、低く声を押し鳴らす。
「ガヴェインで、だと?」
ふむ、とケルバンは考える素振りをする。そして、おもむろに髪に触れ、それを赤茶に変えた。
「こんな髪をして、顔に火傷を負った傭兵に覚えは?」
ケルバンの答えに、ブライアンは愕然とする。顎や鼻の形が違いすぎる。「呼び掛け」で変えたと言うのか。だがケルバンはまた髪を黄金に戻し、ゆっくりとブライアンへ寄る。その手には一振りの短剣。腰元の
ブライアンは動揺を隠せぬ声で問う。
「まさか、復讐のために私を呼んだというのか?」
その理由に、ブライアンは心当たりがあった。ラウロス傭兵の殲滅。それに、この老騎士も加わっていた。ブライアンは続ける。
「私に復讐などお門違いにも程がある」
「そうだな」
あっさりとケルバンは肯定する。だが、歩き寄ることを止めない。ブライアンは急ぎ剣を抜き、己の手の平へ走らせる。その勢いで一筋の鮮血が直線を描いて宙へ放られ、雪で白い土に赤い染みを数滴作る。
生温かい血の伝う手を翳しブライアンは、
「それ以上近付くでない」
だが、ケルバンはその歩を緩めない。変わらず、感情を映さない。ただただ、妖しいほどに整った顔を向けているだけ。そのことにブライアンは冷たい汗を伝わらせ、追い立てられるように
「〈幾千幾万の神々よ、我に力を。大気をもって大地を凍てる壁を!〉」
彼の十八番は「自然の」水を用いて厚い氷を築き、周囲すべてを囚えて封じ込めること。その威力は聖騎士領ガヴェインで知らしめている。
だが詠唱言い終えても、何も起こらない。ブライアンは愕然とする。水はそこかしこにあり、冷えた極寒の大気に「運動(熱/下降)」の神々がいないはずがない。なぜ、ひとりも「呼び掛け」に答えない。
不意に、ブライアンはケルバンの、短剣の握っていない方の手に目が留まる。その手には手袋はされておらず、一筋の赤い――。
「な!「上書き」だと!?」
氷の操作に関して、ブライアンの右に出る者はいないはずなのだ。ブライアンは氷結を司る神々の血を引く者。その中でも、ブライアンは色濃くその血を継いでいる。だと言うのに、上書き。それはすなわち。
ケルバンの黄金が、昏く光を宿す。
「〈幾千幾万の神々よ、我に力を。その身を囚える、水の枷と、枷を留める冷気を〉」
ブライアンは息を呑む。ケルバンはいつの間にか懐へ潜り込み、ブライアンの肩をその赤く染まる手で触れていた。
「ぐああ!」
ブライアンはつんざくような声を上げる。血の滴った雪の上から氷の鎖が出現し、ブライアンの体を絡めて囚える。
(何!?同時に水も「呼び掛け」ただと!?)
体の内側は凍てつかない。つまり、この若者は「物質(水)」も神々から借ったということだ。ケルバンは黄金の
「先に言っておく」
「な、何をだ」
身動きのとれぬブライアンはたじろぐ。氷は氷と思えぬほどに硬く、指一本を震わすことも叶わない。ケルバンはそんなブライアンへ冷ややかな眼差しを向けたまま、静かに、語りかけるように言葉を放つ。
「これはただの、事務的処理に過ぎない。憂さ晴らしですらない。あんたは、俺の
「何を……、!」
それ以上の言葉は紡がれない。ブライアンの胸に、ケルバンの短剣を握る手が貫通していた。
ブライアンは赤黒く染まる己の胸へ瞠目する。痛みすら忘れて。まるでひとつひとつの動きがスローモーション。息を呑み、ただただ、その黒々とした染みがどんどん広がり、氷の鎖を伝って雪の上へ一滴、その血が落とされるその瞬間を見た。
その刹那。
胸を貫いていたケルバンの腕が引き抜かれる。多量の血が放射状に飛び散り、ケルバンはそれを真っ向から浴びる。その足元には氷壁の支えを失い、倒れ伏した老騎士の姿がある。
ブライアンは決して、私利私欲のためにラウロス傭兵団をその手に掛けたわけではない。王命というのもあったが、それ以前にこの王国の、そしてそこに住まう民たちを思ってのことだった。ブライアンは心から王国を愛し、そのために神々を敬い、そして剣を振るう、生粋の騎士だった。
だが、そんな彼の使命感など、ケルバンにはどうでもいいこと。ケルバンは明々と照る満月を見上げた。
「俺が殺す」
「俺が、殺さなくてはならないんだ」
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