017譚 物好きな神さま(下)


「ティララ、歌っておくれよ!」

 

「お前さんの歌はどんな飯より元気をくれるぜ!」

 

 酒場にある男たちがガヤガヤと騒ぎ立てた。

 神々の血を引かぬ者でも、こうして人間に入り混ざる神々に「呼びかけ」ることはできる。人間と生活しているのだから、その言葉は「神詞かむことば」でなくてもいい。

 だがしかし、神々は非常に気まぐれだ。気分で恋愛の真似事をしてみたり、本当に熱を上げて子供をこさえてしまったりする。そして。

 柔らかな緑髪に橄欖石ペリドットの瞳をした、物好きな神はどんな大輪の花よりも華やかな笑顔を向けて応じた。

 

「そうね。今日はとっても気分がいいの」

 

 こうして歌を歌うのも気分次第だ。その安くない感じがいっそう周囲を夢中にさせるのかもしれないが、神々は別に子悪魔というのではない。単なる気分屋だ。

 ティララは本当に気分がいいらしく、すでにフンフンと鼻歌を歌っている。そして酒場の中央に立つと、すうっと息を吐いた。

 

「本当に綺麗……まるで風ですね。春先に野山を駆け抜ける、穏やかな風」

 

 その透き通る声に、アラニスはほうっとした。古代語の歌だ。たぶん大昔、光の王国付近で歌われていたに違いない人間の歌。なぜ人間の歌とわかるかというと、その歌が戦死した夫へ悲しみを綴った妻の歌だからだ。この地において。神さまに戦死はない。

 パンを頬張っていたケルバンはそのパンを飲み込むと、指についた(手袋は外している)パン屑を舐めながら言葉を返す。

 

「春先って……あんた、詩人だな。実際、あいつは風を司る神だからな、そう聞こえてもおかしくはない」

 

「やっぱり。わたしも、風を司るカミサマの血を引いているので。唯一使える……ヨビカケ?も風なんです」

 ところどころ、発音が怪しい。アラニスはその発音の難しさに舌を噛みそうになっている。

「それは便利だな。手紙が送れる。文字が書ければ、だが」

 風を司る神は「運動(移動)」を司る神々の一種で、高位の神。そして別名「渡し」の神と呼ばれる。気が乗れば、文を思った相手に届けてくれるし、誰かの言葉を変わりに伝えてくれたりもする。

 アラニスは「そうですね」と笑って、何気なく尋ねた。


「ケルバンは文字、読めるんですか?」


 だがケルバンは沈黙で返す。なぜかスープを啜り出して、あえて答えられない状況を作ったりもしている。アラニスは眉を潜ませた。

「もしかして読めないんですか?」


「……神詞かむことばなら、一部」


「…………」

 それはもはや、読めてもあまり役に立たない。日常生活で神詞かむことばなんて、まず使わない。それに、神々と文のやり取りはしないので、神々に関する古代文献を漁るときくらいにしか使えない。

(まあ、庶民の人たちは読めない人が大半だから……)

 元聖騎士としてそれはどうなんだ、というところではあるが。アラニスは取り繕うようにこほん、と咳払いをすると、話題を帰ることにした。


「そう言えば、ケルバンって独特な発音なさいますよね。神詞かむことば


「そうか?」

 アラニスは、足首の治療を施した時のケルバンの詠唱を思い起こしていた。神詞かむことばの呪文は幾度となく聞いたことのあるアラニスだが、ケルバンのそれはかなり独特なものであった。抑揚の付け方もだいぶ違うのだ。

「はい。なんだか歌っているみたいで……不思議な感じです」

 

「私が教えたから当然ね」

 

 突然に、ティララの鈴の音のような声が差し込まれる。アラニスは目を剥かずにはいられなかった。いつの間にか、彼女は歌い終わって、ケルバンの横の座席に腰掛けている。

 アラニスは周囲に聞かれぬよう身を乗り出し、声を小さくして尋ね返す。

「教えたって、どういう意味ですか?」

「この子がまだ見習いだった時に教えてあげたのよ。だって気持ち悪かったんですもの。この子、から、聴かせて覚えさせたのよ」

 つまりはリスニング教育だ。本場の人間を教師にするなぞ、なんとも贅沢な。

 だがアラニスはそんなことよりも、別の言葉が気になった。

「気持ち悪いって……?」

「ええ。皆、古い発音をするんだもの。仕方ないから聞いているけど、それはそれは分かりづらいのよ。人間だって、時と共に発音も文法も変わるんだから、考慮してほしいわよね」

 それは言えている。なぜ神様は言葉が変わらないと思われているのか。アラニスは気恥ずかしさで赤面した。

「……なんかごめんなさい」

「いいのよお。たいてい、から。仕方ないもの。あなたも、私が、聞こえないと思うわ」

「話す?」

 ティララの言っていることが解せず、アラニスは眉を顰める。

「ええ。あなたたちの言う、「神々」や『精霊』の言葉のことよ。私は今、人間の声で、人間の言葉を話しているから通じているだけ。神詞かむことばっていうのも人間専用に似た発音を集めているだけ。本当に私たちが話したら、全然聞こえてくれないんだもの」

 神々は、人間とで話す。たまにそのが拾える人間がいるので、その人間が神々と会話するために開発したのが、神詞かむことばである。


「そう言えば……私も聞いたことないです。ケルバンは聞こえるの?」

「この子、それでスカウトされたんですもの。この子の言葉は聞いてて楽だわー。翻訳しなくていいんだもの」


 翻訳レベルに通じていないらしい。人間側はもう少し努力が必要ということだ。神々の声が聞こえないので、神々が気まぐれにマンツーマンをしてくれないといけないのだが。

「ティララ……あまりこっちへ来るな。に見つかったらどうする」

 ケルバンがようやく声を鳴らした。いつもの淡々とした様子ではなく、いかにも迷惑そうな様子の声だ。

 だがむしろ、いっそうティララはずずいと近寄る。腕に手を回して、あの豊かな胸を押し付けている。アラニスはまたぎょっとして、ティララの胸に釘付けになる。なんてはしたない。神さまに端ないなんてないけど。

 ティララはアラニスの赤面を愉快に思ったのか、コロコロと笑って、

「大丈夫よ。彼はお坊ちゃまだもの。こんなところ来ないわ」

 その言葉に、アラニスはきょとんとした。お坊ちゃま、とは誰のことかと。

 

 すると矢庭に、酒場の外でガシャンと陶器を割るような音が鳴り響かれた。そして間もなくして、激しい怒鳴り声が轟かされる。

 

「おい、てめえ!やりやがったな!」

「てめえが先だろうが!」


 荒くれ者ふたりの取っ組み合い。つまりは、喧嘩である。

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