遅すぎたスタート

和田ひろぴー

第1話

 何時の頃からだろう。洋(よう)は魚を眺めるのに夢中になっていた。家の冷蔵庫には、父が設えた小さな水槽が置かれ、その中に色取り取りな小魚が気持ち良さそうに群れているのを、椅子の上に立ちながら冷蔵庫に寄り掛かって眺めるのが、彼の日課だった。

「ふーん。色んなお魚がいるなー。」

落書き帳の絵も、魚の絵が専らだった。来る日も来る日も、魚を眺めては、それを絵に描いて楽しんでいた。近所の子供達が野球やら何やらと、外で遊んでいる間も、洋はひたすら魚に心奪われながら過ごしていた。たまに父が近所の金魚屋さんや水族館に連れていってくれたが、その時、彼は点にも陞気持ちだった。薄暗くて何処となく湿った空気感のお店も、彼にはそれがパラダイスの香りだった。水族館で自分よりも大きなタカアシガニや、薄暗い中を間近に泳いでいるようなサメ達を見つめながら、まるで自分が深海にいるような気分に浸っていた。夏休みの自由研究も、やはり魚のことばかりを題材にしては提出していたが、その思い入れが余程通じたのかして、先生からの評価も高かった。

「将来は、魚の研究者になりたいなあ。」

そんなことを、いつも口にしながら、洋は毎日を過ごしていた。学校での勉強は割と得意な方で、先生が一度話してくれたことは大抵頭に入っていた。そのままいけば、研究者への道も夢ではないと、洋は何気に思っていた。

 中学校へ入ると、事態は一変した。小学校の時とは異なり、自分の思考や感覚的に捉えたものを挙手して答えれば正解していたものが、此処では授業で教わったことをキッチリと覚えて、それを答案に書かなければ点数が採れなかった。想像力を求められていた小学時代とは異なり、主に暗記中心の勉強スタイルが、洋を悩ませた。

「小学校の時、あれだけ点数が採れてたのに、中学校の勉強って、つまらない上に、厄介だなあ・・。」

そんな具合に、自然体で勉強をしていてよかった昔とは違い、洋の成績は、あれよあれよという間に、酷いものになっていった。仕方無く、近所の塾に通うことで、なんとか成績は中程度には保てるようにはなったが、別の問題が、学校では発生していた。中一の時、とある転校生が近隣の街からやって来た。一見普通に見えたその生徒は、実は切れだしたら止まらない粗暴な性格だった。そんな彼の登場で、学内は影響を受けた生徒を中心に、日増しに荒れていった。

「ガシャーン!。」

何処からともなく硝子の割れる音が響いた。そんな日常だった。教員達は初めこそ慌てふためいていたが、逆に生徒達は同級生が引き起こすハプニングを些か心待ちにしたり、授業が中断することで勉強をしなくて済むといった雰囲気が次第に学内に漂うようになった。そして、洋は授業こそ大人しくは聞いていたが、親しかった友人達が荒れ出したのをきっかけに、いつの間にか自身もそんな連中と親しく付き合うようになっていた。

「オレさ、将来、何か経営するとか、デッカいことやりたいんだ。オマエは?。」

「うーん、オレは魚が好きだから、研究者かな。」

洋はたまたま家で魚を飼っていたということで気の合った小森と、この先の進路について話すことがよくあった。学力的には共に中の上ぐらいには位置していたが、授業を放棄し、次第に学校にも来なくなった小森は、かなり際どい犯罪行為を繰り返すようになっていた。洋はみんなとたむろして談笑することはあったが、だんだん先鋭化されていく仲間の行為には着いていけなかった。

「オマエもやってみろよ。」

溜まり場で仲間から喫煙やその他の犯罪行為を唆されることも少なくは無かったが、洋はそのような申し出を悉く拒んだ。

「何でアイツら、あんなことするんだろう・・。」

洋は格好こそみんなと同じく長い学ランを着たり、奇抜な頭髪をしたりもしたが、こと行為に至っては、彼らと同調するのに抵抗感があった。怖いとか、進路の問題とか、そういうことでは無く、そこまで粗暴に荒れる心境に、洋はどうしてもなれなかった。仲間同士で血を見る喧嘩をしたり、気に食わない教師を殴って骨折させたり、まるで何かの腹いせのように振る舞う心理を、洋は理解出来なかった。そして、彼らが何故荒れるのかということよりも、どうして自分はそんな風にはならないのかについて考えてみた。そして、出た結論は一つ、

「オレ、魚好きだし、親父と同じ趣味で魚見にいったりしてるのが楽しいし、何より、家に何の不満も無いよな。ちゃんと愛情かけてもらってるし。」

そういう極めて自然な心持ちでいられることが、洋の精神を安定させるべく、大きな価値観として占めていたのだった。その後、荒れていた仲間は進学に苦慮し、彼らと最後まで行動を共にはしなかった洋は、自身の信ずる道へ進むべく、こっそりという訳でも無いが、必要な勉強を続けて、成績に伴った高校に進学した。


 見るからに楽しそうな公立高校に進みたい気持ちはあったが、洋の成績では、その高校には少し届かなかった。そして、担任に勧められるがままに、自身の成績に見合った高校に進んだ洋だったが、春の心地良い花吹雪は、彼にとっては苦痛なものとなった。

「あれ?。何だろう・・。」

突然、彼を動悸や目眩が襲った。特に理由など無い。何気に過ごしていても、ふとした弾みに心がパニックを起こすようになった。その瞬間、自分はもう死ぬかも知れないと思うほど、絶望感に全身を包まれた。やがて、その感覚は薄れてはいったが、その時の強烈なインパクトは深く脳裏に刻まれ、片時たりとて忘れることは無かった。そんな心境を誰に吐露しても、あるいは自身が病気では無いかと、専門機関に診てもらいにいっても、納得のいく的を射た答えは得られなかった。

「オレ、こんな絶望感を背負ったまま生きてくしか無いのかな。」

傍目には普通に見えるので、洋や自身の状態がそのようになっていても、休んだり、どっかに隠れたりといったことは一切しなかった。どうせ逃げても、心の奥底から湧いてくるあの嫌な感情からは、逃げ場所など無かった。そしていつしか、そんな発作のようなものを抱えながらも、陰鬱なままで高校生活を過ごすようになった。その間、魚に対する思いだけは、不思議と頭から離れることは無かった。

「やっぱ、魚の研究をするのなら、水産系の大学かな・・。」

そんな風に淡い期待を抱いていた洋だったが、彼のいる高校は、そのような感情を見事に打ち砕くほど、進学という意味では適していない所だった。

「この学校に来る生徒は、多少は勉強が出来たという自負を持ってやって来ます。そして、定期テストの度に思うような点数が採れないと、自分はやれば出来ると、そんな風に自分にいい聞かせる。でも、いいですか?。やれば出来るは、何も出来ないと同じこと。そのことを、肝に銘じておくように。」

とあるクラスのホームルームで、担任が何気にいった言葉だった。やれば出来るは何も出来ない。洋自身も、自身はやれば出来ると暗に考えてはいた。そして、その言葉を間接的に聞いたとき、

「ちっ。けったくそ悪いけど、どうやらそれが真理だろうな・・。」

と、長年この学校を見てきた教員の言葉に、深い信憑性があることを感じた。そして、学年が進み、進路別のクラス編成で文系か理系の、いずれのクラスに進むかを決めた後の授業は、大学進学に向けた対策というよりは、寧ろ、単に教科書の消化といった、テンションの低い状態であることは、誰の目にも明らかだった。進学校に進んだ連中は、ピリピリしながらも、自分が望む大学に手が届く所まで来ている。だから、今目の前にあるものを信じてひたすら勉強しようという空気感が漂っていた。逆に、かつて連んでいたヤンチャな仲間達は、当初は高校には進んだものの、殆どが即座に辞め、早く金を稼ごうと、様々な職について自身の稼ぎで自身の車を転がしたりと、いきり立ちながらも、青春を謳歌しているといった感じだった。そして、そのどちらの側にも付くことの出来なかった洋は、自身の危うい精神を抱えたまま、中途半端な偏差値の数字が示すように、自身の立ち位置もまた、中途半端なまま虚ろな日々を過ごしていた。当然、それは自身が蒔いた種である。自身が身の程の進路を妥協して選択したばっかりに、それに応じた環境が、自然と自身の周りを取り巻いている。当然の結果だった。此処で悪あがきをしたところで、急に学力が上がるものでも無い。そんな投げやりま毎日を無為に過ごした結果、彼の成績は卒業さえ危うい状況になっていた。

「キミ、このままじゃ、単位が十二個も足りないぞ。どうする?。」

担任や各教科の先生が心配して話しかけたが、逆に開き直っていた洋は、

「予備校いくのも勿体ないし、そのまま留年させて下さい。」

と、淡々と頼んでみた。しかし、どの教員も、三年生で留年というのは聞いたことが無いと、そのまま止まるのを拒否した。仕方無く、洋は追試テストを受ける組の仲間入りをし、ひたすら缶詰で勉強をさせられた。僅かに集められた成績の危うい連中は、小さな部屋に閉じ込められ、解りもしないプリントと格闘した。あまりにも勉強をサボっていると、何が何処から解らなくなったのか、さらには、一体自分は何のために此処でこうしているのかすら理解不能になっていた。自身の事なのに。無論、洋もその中の一人だった。そして、落とした数学二教科のうち、一つは辛うじてパスしたが、もう一つは駄目なままだった。そして最期には、物理の単位が残っていた。洋はこの教師が心の底から大嫌いだった。彼の口癖は、

「どうしてキミ達は解ろうとしないのか。」

だった。授業に集中することも無く、ボーッとした生徒達を前に嘆く年配の教員は、説明と嫌味を交互に繰り返しつつ、授業を行っていた。


 そんな彼の言葉に、洋はいつも、

「どうしてオマエは、解らせようとしないのか。」

と、心の中で復唱し、ああ、少しでも早く、彼の前から姿を消して一生縁を切りたいとさえ願っていた。ところが、結局は最期の最期まで、その教師との因縁は付きまとうこととなった。彼は進路指導の主任をしていた。そして、何の進路も決まらない洋をわざわざ進路指導室に呼び、あれこれと洋の素行を詰った。中学の時ほどは服装も態度も奇抜にはしていなかったので、早く縁を切りたい一心で、洋は彼の言葉を聞き流していた。すると、

「キミには何をいっても無駄のようだね。ボクはキミの顔を見たくない。」

そういって、一枚の紙を洋に渡した。それは、僅か一日の間に本を数冊読み、膨大な枚数の感想文を書いてくるようにとの課題だった。その申し出を聞かなければ、洋は望み通り、もう一度三年生としてこの学校に止まることは出来る。しかしそれは同時に、今目の前にいるこの人間と再び縁が出来てしまうことにもなる。ムカつくという感情はある。しかし、中学校の時に見た、本当にむかついた人間が取る行動を、洋は思い出していた。頭から体を吹きながら泣き叫ぶ相手に何の躊躇も無く、教室の机を無限大の記号の如く回転させながら振り下ろしていたかつての仲間。人は体内から血を奪われると、急に寒気が襲って体がガタガタ震え出す。もし、この教師があの現場に放り出されて、連中に睨まれたなら、恐らくは同じ目に遭わされたことだろう。しかし、洋にはそんな粗暴な行為をする衝動も必然性も無かった。そして、彼が本当に望んでいるのは、あの最も嫌な、絶望感が黒い波となって押し寄せてくる、例の感情だった。此処で卒業か否かを拗らせて、嫌な因縁を引きずるよりはと、洋は目の前の人物が示した課題に従うことになった。そして苦心の末、彼は何とか課題の本を購入し、徹夜でそれを読みつつ、幾枚もの原稿用紙と格闘した。そして、それを提出することで、数学の単位が僅かに足りないままで卒業することが出来た。いや、まるで心太のように、無理矢理押し出されたといった心境だった。

「さーて、これでやっと、解放されたなあ。」

洋は勉強の出来無さという現実を直視しないまま、適当に予備校にでもいけば、自然と大学に進めて、自身の好きな魚の研究が出来るだろうと、高を括っていた。しかし、大手の予備校は、既に募集を締め切っているか、入学試験という高いハードルのある所かの、どちらかだった。仕方無く、洋はチラシで見つけた繁華街の場末に位置する予備校を見つけて、其処に潜り込んだ。

 ほぼ誰でも入れるであろうその予備校は、見るからに違法建築っぽい細長いビルだった。もし一階から火災が起きても、上層階に非常口は無かった。こんな所に来るのは、自分のような人間ぐらいだろうと、そう思っていた所に、洋は思わぬ人物を見つけた。

「よう!。オマエも此処か。」

「おう。」

それは、中学時代、同じ生徒会を務めていた御簾(みす)だった。彼は学内でもかなり優秀な成績で、高校はその地域でトップの所に通っていた。そんな彼が、一体何故と、洋は不思議に思った。しかし、それは簡単な絡繰りだった。

「特待生でいけるからな。此処。」

彼の出身高校ならば、予備校側が学費を免除して入学させる仕組みがあった。優秀な生徒が合格すれば、予備校側の看板にもなるからだった。洋はどっち付かずの中間な学校だったので、生気の学費で入学していた。しかし、洋はそのことには疑問を抱かなかった。賢い人間が、いつの世も得をする。その縮図がそれだろうと、その程度にしか受け止めていなかった。寧ろ、何故彼のような出身校の人間が、浪人などするのだろうと、そのことの方が気になって仕方が無かった。後に解ったことだが、大学受験もピンキリで、ある一定以上のレベル、特に国公立大を目指すのであれば、並大抵な勉強では到底無理だった。洋は勉強のことよりもパニックの発作ばかり気に病み、御簾はクラブでスポーツに明け暮れ、共に勉強は疎かにしていた。そして、その結果が、二人の再会に繋がった。二人はそれぞれ別のクラスになっていたが、とある講義だけは一緒だった。それが小論文の講義だった。各コースに分かれていた学生も、その講義の時だけは大教室に集められた。洋も何気にそのコースを取っていたので、授業が始まる前に大教室に向かった。すると、

「わっ!、何だこれ・・。」

其処には通路も埋め尽くさんばかりの生徒が溢れていた。そして、教室の前方から、マイクを付けた黒いスーツの優男が登場すると、教室内は静まり返った。

「さて、今日は前回の詩についての解説だ。」

洋が最初の講義だと思っていたのは、実は第二回目だった。とある難関私立大で出された、中原中也の詩の一節が紹介され、其処に込められた作者の意図を答えよという、そういう問題だった。独特の世界観かつ、極めて抽象的で、メタファーに富んだその詩は、心地良いリズムだった。


 そんな名作であろう詩も、洋にはちんぷんかんぷんだった。すると、

「今回出してもらった解答を読ませてもらったけど、オマエら、全然解ってないな!。」

優男は目を吊り上がらせながら、提出された解答を罵倒し始めた

「これも駄目、これも駄目。全然じゃないか!。」

そういいながら、優男は殴り書きで板書を始め、

「中也がこの詩に込めていたものは、決意だ!。そんなことも解らないのか!。」

と、それを理解出来ないオマエ達は作品に対して失礼だといわんばかりの激高ぶりだった。ところが、

「だたし、一人だけ惜しい解答をしたヤツがいる。それは御簾だけだな。」

洋は目を見張った。確かにヤツは出来る。だからこそ、あんな高校にもいけたのだろう。しかし、進学クラスの連中が悉く罵られる中、何故彼の答案だけが評価を得られたんだろうと。付き合いが古かっただけに、洋にはそのことが不思議でならなかった。実は御簾は本の虫だった。文学の世界にも精通しているらしかった。その後、優男はこの場末の予備校で、唯一の人気講師であることが解った。だから、あれだけ大挙して人が押しかけていたのだと。そして、彼は目を掛けた優秀な生徒と共に、近くの茶店で茶をするのが日課だった。当然、御簾はその中心にいた。そんな様子を、洋はいつしか羨望の眼差しで見つめていた。優男は、世の中のことをまるで全てお見通しといった具合に、全ての事象を論理的に切って捨てては、解答を導き出す。人気を博するのも当然だった。そして、彼はセラピストも兼ねているらしかった。人が抱える心の問題。そういうものにも極めて明るいようだった。

「あの人なら、ボクの抱えている、あの絶望感の塊について、何か知っているかも知れない。」

そう思いつつ、洋は優男に近付こうとするも、取り巻きの学生に阻まれて、なかなか近付けないでいた。それでも、とある昼食時、洋は意を決して講師控え室に彼を訪れた。すると、優男は一人部屋でサンドウィッチを頬張っていた。

「あの・・、」

「ん?。どうした?。」

洋は彼と言葉を交わすのは初めてではあったが、この機会を逃したら、恐らく後は無いだろうと思い、自身の身に起きた心理的な出来事を懸命に説明した。そして、洋の話を聞いた優男は、

「人間というのは、絶対的に孤独なんだよ。そういうものに苛まれるんだよ。だから、それをどうすればいいか、考えるんだ。考えて考えて考え抜くんだよ。」

と、励ましとも違う、ましてや慰めとも違う、今、洋に最も必要であろう姿勢を、端的な言葉で示唆した。孤独。それは拒否したくでも出来ない、絶対なる現象。すると、

「キミはエレンディラに似てるな。ガルシア・マルケスの書いた。読んでみるといいよ。」

そういいながら、優男は再びサンドウィッチに齧り付いた。まるで全ての謎を解く魔法の呪文を得た気持ち、そんな風に洋は感じた。その日の帰り道、彼は近くにある大きな書店で、優男にいわれた小説と、自身の心を悩ます不安や絶望の塊に関係していると思われる本を数冊買うと、早速家に帰って読み始めた。ところが、

「何じゃこりゃ。」

優男が授けてくれた魔法は、あまりにも難解過ぎた。それは限りなく幻想的な世界が描かれた小説で、中で起きていること全てが非現実的なのは解るが、それが一体、何を意図していて、どの部分がどう自身と共通しているのかすら見出すことが出来なかった。仕方無く、洋は自身で選んだ書籍の方に目を遣った。すると、これまで在り来たりに人間の不安と、それとの向き合い方しか目にしてこなかった洋にとって、人間の精神構造や、周囲や社会との関係性と自我の位置付け、そして、人間が抱く不安や衝動に、どのように向き合うべきかといった、これまでに無い分析が成された世界が開かれていた。そして、洋は答えでは無く、其処に記されているものが方向性であると、何となく感じた。

「不安や絶望は不快な感情だから、人はそれを異物として否定したがる。でも、そうじゃ無い。それは既に、自分の一部なんだ。自身の心の奥底から湧いてくるんだから、そうなんだ。だから、いくら切り離そうとしても切り離せない。常に付いて回る。まるで犬の尾のように。だから人は、そういうものを直視し、受け入れ、そして、それを自身として生きていくんだ。」

その後も、洋はそういうメンタルに関する本を読み漁った。自身の立場など、どうでも良かった。本当に生きたいと思う自分でいられるために必要なことは何か。洋は真剣に追い求めた。当然、学業は疎かになった。しかし、それでも構わなかった。相変わらず、答えが出た訳では無かった。代わりに、人間は苦悩する生き物だという確信を得ると同時に、自身もそういう自覚を持てたという、そのような到達点のような心境に達することは出来た。それは社会一般からすれば、逃避に見えるかも知れない。本来するべきこと、学業を疎かにしているのも間違い無い。しかし、それこそが、洋には必要なことだった。


 そのまま、当然のように洋は浪人を繰り返した。その間、上位校出身の者達は次々に合格を決め、逆に、洋と同じ出身校の者は、ぞくぞくと撤退していった。気がつけば、周囲に同年齢か、それ以上の者は、医学部を目指す者だけになっていた。洋も周囲の目が全く気にならない訳では無かった。このまま浪人を重ねても、合格に結びつく判断材料も持ち合わせてはいない。彼は自問自答した。本当に自分がしたいものは、一体何なのか。そして、

「魚・・だよな。」

彼は決して忘れていた訳では無かったが、その道へ進むべく方向性が、自身にとっては遠く遠く感じていた。そして、常に抱えていた絶望感への対処法は、自分なりには一定のケリが付いた。不安は不安のままでいこうと。そして、今目の前に残された選択肢は、自ずと定まった。彼は親に無理をいって、最期の受験機会を申し出た。日頃は仕方無いと思いつつも賛同してくれていた親父が、

「これが最期だぞ。」

そう呟きながら、やはり背中を押してくれた。その気持ちに応えるつもりは勿論あったが、ここまで辛抱して自身の放蕩を見守ってくれた両親に対して、洋は感謝の気持ちで一杯だった。そして、彼の気持ちを後押ししてくれる人物が、もう一人いた。

「オレ、此処の予備校いったら、受かったぞ。」

それは洋と小学校から高校まで同じ学校の、近所に住む友人だった。彼もまた、適当な浪人時代を過ごしつつ、授業に飽きるとパチンコに明け暮れるといった具合に、極めて退廃的な生活を送っていたが、やはり別の友人の助言で通った予備校に合格出来たのだった。そして、

「いいか。与えられたテキストだけを信じて、それだけをやるんだ。他のことは一切しない。ただ、それだけだ。」

同じ高校の出身者が二人も合格出来たことが、洋にとっては何より説得力があった。彼の通っていた高校は、ひと学年五百人以上はいたが、希望する大学に受かった人間は、殆どいなかった。それでは、学校全体に進学ムードなど湧くはずが無い。とあるクラスの担任などは懇談の際に、

「うちの学校から大学に進学出来るとでも、お思いですか?。」

と、明言したと話す友人もいた。気付けば、彼は卒業して、既に四年の時が経っていた。もはや医学部を受験する者でも、そこまで年数を重ねるのも多くは無い。しかし、

「ボクから魚を取ったら、何が残るんだろう・・。」

と、改めて自身の人生を振り返ったとき、そのことだけが唯一の道標だと、洋は感じた。ならば、友人のアドバイス通り、後はひたすら、信ずる道を進むのみ。それで本当に、希望する場所に到達出来るのだろうか。当然、疑問はあった。しかし、

「自分に残されたものは、今目の前にある、無下に過ごして備わらなかった学力を付けてくれるテキストのみ。」

そう気持ちを切り替えて、以後、一切振り返ること無く勉強に明け暮れた。あれだけ理由を付けてサボっていたはずの勉強が、背水の陣という諺のように、この機を逃しては、もはや人生のシフトチェンジは不可能だろうという直感の元、洋はただただ、明日の授業の為の予習を繰り返した。予備校の講師の助言は悉く守り、その通り実践した。機会として与えてくれる小さなテストや小講義も、全て参加した。夏休みになると、朝の涼しいうちに夏前の復習を行い、熱すぎる日中は体を休め、夕方以降は深夜まで勉強に勤しんだ。夏休みに勉強するヤツって、どんなヤツだろうと、そんな人間がいるのかと思っていたが、いつしか自分が、そうなっていた。そして、一年近く徹底的に、与えられた課題やテキストを忠実にこなし、気付けば年明けが、入試が迫っていた。そんなある晩、洋は家のバルコニーに立ちながら、夜空を眺めていた。そして、自身の全身全霊をかけてやってきた受験勉強に想いを馳せ、

「やれるだけのことは全部やりました。ボクは信心深くも無いですが、もし神様がいるのなら、片腕一本持ってかれてもいいです。それで合格できるのなら。」

そう心の中で呟きつつ、星を眺めていた。

 彼は既に、自分の人生が変わり始めていると解るぐらい、今までに無い努力を積み重ねた。それで駄目なら、その先は自分の進むべき道では無いと、潔い諦めも付いた。同時に、先のことが解らずに不安を抱くのは、するべき努力が足りないからだという感慨も得た。そして洋は、その後の受験スケジュールを淡々とこなした。結果は自ずとついて来た。当たり前の、シンプルな決め事を、ひたすらこなす。それが、こんなにも遠いものなのかと。しかし、それが自身の運命なのだろうと、洋は思った。合格の知らせに、洋の両親は涙した。そして洋は、一人ひっそり、自身の変化を祝った。それが自分には、合格の時だったのだと、そう思いながら。

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遅すぎたスタート 和田ひろぴー @wadahiroaki

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