第3話
仮面の男は猫のように体をくねらせ、空中で伸びをする。その間もアネモスの体は黒い泥に覆われ、その白い瞳で目の前の元凶を睨みつけることしかできない。
「随分な魂じゃないか。その体は役不足じゃないか?」
男は笑う。アネモスは皮肉めいて口角を釣り上げた。
「そうか? 意外と居心地は悪かないぜ」
「強がらない方がいい。私には分かるぞ、やっと死ねたと思ったのに……、気づいたらそんな脆い体に押し込まれていた落胆……」
わざとらしく自分の体を抱きしめ、男が再び身をくねらせる。喉の奥で転がすような笑い声が低く響き、アネモスの骨を揺らす。
「解放してやろう。お前の魂を冥界に還してやる」
にたり、と再び男の唇が歪む。
不意に泥を突き破る眩い光が迸る。男が目を細め怯むと、アネモスの手がその襟ぐりを掴んだ。その白い腕は再度光り輝いていた。
瞬間、その拳から火花が迸り、男のローブに飛び移る。小さな穴が開き燃え広がるローブの中、仮面の男はますます笑顔を深めた。
「素晴らしい。前世は戦士か?」
燃え上がるアネモスの拳に、自らの手を重ね、男は微笑む。散った火花は全て氷の礫となり、アネモスの拳が霜に覆われていく。燃えていた服もすぐに鎮火し、開いた穴の淵から糸が伸び、まるで生きているように修復が始まった。
「名を聞いておこう。戦士よ」
アネモスの眼光がぎらつく。
「俺に名は無い」
「ふふ、そうか」
アネモスの胸に手が置かれた。その手は黒く深く沈み込む。胸骨を過ぎ、肺を掻き分け、アネモスの小さな心臓を包み込む。鉤爪が肉に柔く沈み込んだ。
しかし、アネモスは穏やかだった。
その顔には冷や汗一つなく、瞳もまた鏡面の湖のような静謐さのまま、目の前の男を見つめていた。アネモスと男の視線が絡む。梟の仮面越しに、白と黒がかち合った。吊り上がっていた男の口角は少しずつ下がり、その顔から表情がなくなった。
「……やめておこう」
男が手を引いた。骨と肉に触れていたはずの手は全く乾いており、本当に胸の中に手が沈んでいたのかと疑うほどだった。
「お前、名前は?」
アネモスが唇を開く。己の手を見つめていた男が、少しだけ顔を上げた。
「……アロン」
アロン、そう名乗った男に、アネモスは口角と眉尻を上げた。好戦的で勝ち気なその笑みが、アロンの脳裏を刺激する。
「そうかよ。で? アロンは何をしにきたんだ」
枕を立て、アネモスがヘッドボードにもたれる。アロンは浮いていた体を下ろし、ベッドの上に着地した。唯一露出したその口元は、先程とは打って変わり真一文字に結ばれている。
「……本当に、名はないのか」
「あん? 無いって言ってるだろ」
「そんなはずはない、あるはずだ」
「ねえってば! あったとしても思い出せねえんだよ!」
思い出せない? アロンはオウム返しした。仮面に隠れた眉間に皺が寄る。
「記憶が曖昧なんだよ。なんとなく自分が何をしたかは思い出せるが、それでもその結果誰に何と呼ばれたかも分からない。守るべきものも、守れなかったものもあった気がするが、それも思い出せない」
「……ああ、そうか」
アロンは唇を震わせた。ゆらゆらと、仮面の奥の鈍光がゆらめいている。
黒い手がアネモスの頬に触れた。手のひらが頬を包み込み、まだ骨の目立つ箇所を親指でなぞる。親指は頬を滑り薄い唇を撫でた。ラドールに撫でられた感触が残るそこを、アロンの親指が塗り替えていく。アネモスは、黙りこくって目の前の男を見つめていた。
「……聖女は私達を妨げる障害だ」
アロンが呟く。
「しかし、お前に聖女の力は残っていない」
「あ? そうなの?」
アネモスは思わず、と言った風に声を出す。間抜けな反応に、アロンはようやく微笑んだ。
「聖女の力は魂に由来する。その魂が抜け出した今、その体は少しばかりマナが馴染みやすい肉に過ぎない」
「馴染みやすい? マナ熱とやらが出たのにか?」
「馴染むから熱が出る程度で済んだんだ馬鹿者。普通はあんな風に考えなしにマナを取り込めば四肢が破裂する」
「破裂……」
わずかに青ざめながらアネモスが首を引っ込める。その頬をアロンが摘むも、すぐにするりとその指をすり抜けた。ふと、アネモスが何かに気づいたように眉を上げた。
「……見てたのか?」
「……監視観察はあらゆる基本だ」
「はあ!? じゃあお前着替えとか風呂とか」
「私が気遣う理由はないな」
大きな声でアネモスが猛る。アロンは思わず両手で耳を塞ぎ、憎々しげな顔をした。アネモスは手を額に当て、もう片方の手で自らの肩をさすった。
「本当の聖女に申し訳ねえ……」
「魂はすでに還っているが」
「そういう問題じゃないだろ。この体は、もとはその聖女のものだったんだ。俺はそれを乗っ取ってる……」
額の手がずり下がり、口元を覆う。アネモスの目元が窄まり、苦しげな表情を浮かべた。アロンがそれを見つめている。徐に黒い手がアネモスの顎を捉える。無理やり引き寄せられ、口元を覆っていた手が外れて滑った。親指と人差し指に頬を押し込まれ、口が薄く開く。わずかな痛みを伴うそれに、アネモスが眉を寄せた。
不意に、唇が触れる。
アネモスの薄い子供の口唇が、アロンの厚いそれに覆われている。アネモスの瞳が見開き、その手に再び光が凝集する前に、アロンの唇は離れた。アロンは自らの唇を舐めながら、ぽつりと小さく呟く。
「肉体がこれほど邪魔だとは」
仮面の奥の表情が揺らぐ。呆気に取られるアネモスに「また来る」と言い残し、アロンはするりとその姿を消した。
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