第2話
アネモスが目覚めてからというもの、数日は騒がしい日々が過ぎていった。侍女と侍従が交互に立ち替わり、医者の多くも押し寄せた。アネモス自身は矢のように過ぎゆくその数日に辟易としていた。
壁面が丸ごと鏡のある一室。そこでアネモスは直立していた。正式には、直立するように見えない力で体を固定されていた。魔法と呼ばれるその力により、鏡の前からぴくりとも動けないアネモスは不機嫌そうにため息をついた。
「なあこれ、いつまでやるんだ」
アネモスの視界の端、同じように直立したラドールに話しかける。ラドールは白いシャツに黒い半ズボンを履き、膝下までのソックスを履いていた。その腰には短刀が差さっており、どこか騎士然とした佇まいだった。
「直立訓練はあと四半刻ほどで、そのあとは歩行訓練に移ります」
「うっそだろ。別にこんなガチガチにしなくたってさあ」
「倒れてしまうではないですか」
「大丈夫だって」
どこからそんな自信が湧いてくるのか、とラドールが訝しげな顔をした。
「こんな怪我しないように気使って貰わなくても、構わないんだがね、俺は」
鏡の中の少年が憎々しげな表情をとる。なんとか魔法の拘束から逃れようとしているのか、体がわずかに揺れている。ラドールはちらりと扉の方を見やった。アネモスにこの魔法を施した家庭教師が来ないか警戒しているのだ。
ラドールがアネモスから目を離したその一瞬。ばちん、と何かが弾ける音がする。
ラドールがその音に弾かれる様に視線を戻せば、そこにはガニ股で鏡の前に立っているアネモスがいた。
「たっ……」
「い、行けた!」
よし! とアネモスがガッツポーズを取れば、その拍子に背中からひっくり返る。後頭部を石の床に強打しそうになったその時、走ってきたラドールがその身を滑り込ませてなんとか事なきを得る。冷や汗をかいたラドールとアネモスは、しばし無言のまま見つめあった。
「悪い……」
「いえ……」
ラドールの太ももに頭を置く形になっていたアネモスがゆっくりと体を起こす。細く、筋肉がほとんど削げ落ちている腕で床に手をつき、同じく欲しい足で立ちあがろうとする。慌てて起き上がったラドールがアネモスの肩を支えようとすると、アネモスは首を振った。
「見てろ、今に立ってやる……!」
アネモスが顔を上げる。
白く長いまつ毛に縁取られた白い瞳がギラギラと瞬いている。その輝きは好戦的な獣を想起させ、痩けて生命力を感じない体の中では不釣り合いなほど強い生命を訴えていた。
ラドールはそんな様子のアネモスに言葉と息を呑み、手を引っ込める。アネモスの体の周りに淡い光が集まり始めていた。露光するそれは細いアネモスの体に取り付き、輝かせる。ぐ、と裸足のアネモスの指に力が込められれば、それに呼応する様に輝きも増していった。
「あ」
アネモスは立ち上がった。
二本の足で、しっかりと立ち上がった。その体は溢れんばかりの光に包まれ、白い全身がそれを反射して余計に明るく輝いていた。ラドールは、その輝きをこの世で最も近い場所で浴びていた。
「よっし、見たか! 俺ァやる時はやるんだ!」
アネモスが、歯を見せて笑った。
「マナ熱ですな」
アネモスは再びベッドに横たわっていた。
額には濡らされたタオルがかけられ、その傍らのサイドテーブルには飲み水とチキンスープ、くし切りにされた林檎が置かれていた。
「マナを過剰に摂取してしまった乳幼児がよくなる現象ですな。命の危険はありません」
ベッドの傍ら、チキンスープのささみをフォークでほぐしていたラドールが安堵の息をつく。鏡張りの部屋で見事たちあがったアネモスは、その後すぐ再び倒れ込んだ。それを支えたラドールは、その体の異様な熱に慌てて医者を呼んだのだった。
「なんて不便な体だ……」
不機嫌そうにアネモスが呟く。先日の老人とは違う、初老の医者は眉間に皺を寄せながら深いため息をついた。
「当たり前でしょう。赤ん坊から十年間も眠っておられたのですから、あらゆる病原菌や要因に耐性がついていないんです。今後、こう言った無茶は控えられますよう」
アネモスは医者を睨みつける。しかし、大きな目が多少細まった程度ではその医者は動じなかった。
医者は器具を片付けると、ラドールに軽く会釈をして部屋を出て行った。ラドールはようやく解し終えたチキンスープのささみを慎重にアネモスの口元まで運んだ。アネモスは未だ不機嫌そうだったが、渋々と言った風にそのささみを口にした。
「うま、え? なんだこのささみ。美味い……」
「えっ」
「何使ってるんだこれ、塩だけではこうはならんだろ」
「えっと、コショウとスパイスを少々……」
「コショウ!?」
高級品じゃないか、とアネモスが声を上げる。ラドールはそれほど貴重なものでもない、ときょとんとした。アネモスは目が覚めてからこちら、ほとんど味付けのされていないパンやチーズばかりを口にしていた。あまりに驚くアネモスに、ラドールは照れくさそうに自らの鼻の頭を掻いた。
「そんなに美味しかったですか?」
「おう。もっとくれ」
アネモスが口を開けると、ラドールが再びささみを運ぶ。その指先はどこか誇らしげだった。
「薄々気づいてはいたけど、この家、かなり裕福だよな。お前もお坊ちゃんぽいし」
「あ、そういえばまだ説明されてませんでしたね」
「うん?」
「ここは都市国家アンドス。その王宮です」
咀嚼していたアネモスの口が止まる。
「アンドスは女王、つまり僕の母上が治める国です。パンが美味しいことで有名なんですよ」
「お前の母ちゃんが女王って、じゃあ、王子……?」
アネモスがそう言うと、ラドールは少しだけ複雑そうな顔をした。
「そうなります。でも、次の女王は妹と決まっているので、僕は王子としてと言うより、騎士として……」
ささみがもう一度アネモスの口元に運ばれる。アネモスはそれをおずおずと口に含んだ。
奇妙な沈黙が降りる。あれほど美味いと感じていたはずのささみに、味らしい味を感じなくなっていたアネモスが気まずそうに目を泳がせる。スープの雫がアネモスの唇に垂れている。ラドールは、徐にそれを指で拭った。
「僕には聖女様をお守りすると言う使命があります。それだけで、十分なのです」
ふわりと微笑むラドールを、アネモスは静かに見つめていた。
食事が終わり、部屋にはアネモスが一人取り残されていた。食後の眠気にうとうとと瞼をまどろませている。午睡には遅い時間だったが、その体の熱も相まって、その意識は限りなく夢に近い領域をふらふらと歩んでいた。
「これはこれは」
聞きなれない声だった。
アネモスは鬱陶しげに瞼を開ける。眼球を動かしても、声の主人らしき者は見当たらない。少しずつ頭が覚醒してきたアネモスが腕に力を込めて上体を起こす。額の布巾がずり下がる。首を回して辺りを見渡しても、何も見当たらない。毛布に隠された手がわずかに発光し始める。
「悪くない警戒心だ。どうやら、中身が変わっているらしい」
どろ、と黒い泥が毛布に落ちる。
アネモスが上を見上げれば、鼻先が触れそうなほどの距離に、一人の男がぶら下がっていた。
振り上げようとしたアネモスの右手を黒い泥が絡めとる。重くのしかかる重量に、熱に浮かされたアネモスの体は沈黙した。蜘蛛のように垂れ下がっていた男はくるりと身を翻し、寝そべるような格好で宙に浮いたままアネモスの顔を覗きこんだ。
髪を全てしまったフード、目元を覆う梟を模した仮面。露出した口元は青白く、全身を覆う黒いローブは夜空を思わせる輝きを持ち、革に包まれた手には鋭い鉤爪が輝いていた。
「ご機嫌よう、聖女様。随分生き汚いじゃないか」
にたり、と男の唇が歪んだ。
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