一章 都市国家アンドス編

第1話

 隕石を壊した。

 悪神を殺した。

 地震を止めた。

 病を捩じ伏せた。

 全てを調和に還した。

 世界を救った。幾度となく。助けてくれと請われれば、惜しみなくそれに応えた。敵を殺し、暴れる概念を捩じ伏せ、友と出会い、別れ、孤独に戦った。

 それは英雄。いまはもう名前も忘れられた英雄。

 英雄は老人となり、老人は墓石となる。かつて世界を救った老人は、一人、友の墓前でその目を瞑った。全てを手放し、命の輪廻へと合流する。



 はずだった。

 一人の少年が目覚める。

 白い髪、白い肌、白い瞳。全てが白いその少年は眉間に皺を寄せた。その頬や腕は痩せ衰え、少年であるはずだがどこか老人を彷彿とさせた。少年は柔らかなベッドの中、小さく身動ぎながら呻く。衰えた体では起き上がることすらままならず、嗄れた喉では声を出すこともできない。少年はなんとかその身を震わせるが、自らにかけられた毛布さえ重く感じた。

 少年はこめかみを冷や汗で濡らしながら周囲を眼球で見渡した。白い石で作られた室内は繊細な黄金の装飾がなされ、大きな窓がベッドの左手側に取り付けられている。窓には赤く重そうなカーテンが下げられ、その隙間から青空が垣間見えた。吊り下げられた照明には蝋燭の火が灯り、小さく揺らめいている。

「だれか……」

 少年が声を絞り出す。その声は誰に届くわけでもなく、床に敷かれたカーペットに空しく落ちた。少年の浅い息が焦りや困惑からか少しずつ荒くなっていく。

 くぐもった小さな足音が響く。少年はその足音をほとんど反射的に分析する。軽い、歩幅が狭い、靴底の音がする。裕福な子供の足音だ。敵意は感じられない、助けを求めなければ。少年はもう一度小さく呻いた。なんとか首を回し、足音がした方を見る。そこには豪奢な両開きの扉があった。その向こうで足音は止まる。

 重い音をたてて、その扉が開く。その扉は分厚く、子供の腕には重たいのか非常に緩慢な動きだった。ゆっくり開いた扉の向こう、自らの体重をほとんど全てかけるように、足を踏ん張らせた少年がその扉を押していた。

「あっ」

 青い目が瞬いていた。

 短く切り揃えられた金髪と、その向こうにある青い瞳。幼いながらも彫りの深い顔立ちには、確かな高貴さが潜んでいた。

 少年は目が溢れそうなほど大きく瞼を見開き、握りしめていた花が折れ曲がるほど強く拳を作っている。二人の少年の白い視線と青い視線がしばらくかち合った後、金髪の少年はほとんど転びそうになりながら廊下へと踵を返した。

「は、母上ー!」

 小さな体から想像もつかないほど、大きな声だった。ベッドの上の少年は、半ば呆然とその後ろ姿を見送った。


「信じられませんな……」

 片眼鏡を掛けた老人が呟く。

 白い少年は毛布を剥がれ、その胸に聴診器を当てられていた。白い瞳は鐘のような形をしている聴診器を訝しげに見つめている。

「心拍数も安定していますし、呼吸も正常の範囲内。筋肉は衰えておりますが、それ以外は至って健康体。もともと自力での呼吸ができていたとはいえ、とても十年も昏睡していたとは思えない」

 老人の向こう、心配そうな顔をした女性と、先ほどの少年が立っている。女性は簡素なローブとエプロンを纏い、タオルと水瓶を手に持っている。清潔にまとまった黒髪は、彼女が奉仕する身分であると物語っていた。

「先生、アネモス様は……」

 少年が老人に聞く。老人は渋い顔つきを柔らかくほぐし、少年へと微笑みかけた。

「おお、ラドール様。どうかご心配召されるな。アネモス様は生きております。それも限りなく、健康に。お体も方も少し運動を嗜めばすぐに立って歩けるようになりましょう」

 問題は……、と老人がわずかに眉を顰める。

「お心の方が、いかほどでしょう……。アネモス様がお眠りになられたのはまだ首も据わらぬ赤子の時分。お心の成長具合がどうにも……」

「なあ」

「言葉の方も、おそらく今から学ばねばならないでしょう。情操教育も赤子に合わせるようにゆっくりと……」

「なあってば」

「はい?」

 老人が振り返る。胸元がはだけたままの白い少年、アネモスは、片眉を吊り上げながらぶっきらぼうに唇を歪めた。

「そろそろ水、貰っていいか」

 アネモスはちら、と女性の手の中にある水瓶に目配せをする。

 先生と呼ばれた老人は、一拍置いて腰掛けていた椅子から盛大に滑り落ちた。

「こっ腰がっ……!」

「先生!」

 どすん、と重い音が響き、ラドールと呼ばれた少年が気の毒そうに目を細めた。老人は女性の手を借りながらゆっくりと起き上がり、信じられないものを見るような目でアネモスを凝視した。あまりに眉を上げて驚くもので、片眼鏡がぽろりと老人の眼孔から転げ落ちる。

「なんと、お言葉が……」

「あと寒いんだけど、胸。腕動かせねえし、誰か留めてよ」

 その言葉から一拍置き、ラドールが恐る恐るその手をアネモスの胸もとに伸ばした。寛げられた寝巻きの胸元を閉じると、アネモスはありがとう、とぎこちない笑みをラドールに向けた。

 その笑顔にはっとしたラドールは、慌てて女性の手から水瓶を取り、その口をアネモスの口元へと寄せた。寝台に乗り上げ、その青い目は未だ大きく見開かれている。明らかに緊張しているが、意外にもその手元はしかと水瓶を支えていた。

 アネモスが薄く唇を開けると、ラドールはそっと水瓶を傾けた。アネモスの口にゆっくりと水が注がれていく。老人は女性に半ば縋り付きながらアネモスが咽せないか、ラドールの手元が狂わないか注意深く観察していた。結果、老人の心配は杞憂となり、アネモスは離れた水瓶に一息をついた。

「悪いね。お前さん中々水を飲ませるのが上手いじゃないか」

 アネモスがそういうと、ラドールは無言でこくこくと首を縦に振った。その様子を見たアネモスが目を細める。

「信じられん! もはや神の所業だ!」

 興奮した老人が身を乗り出す。

「一体なぜこうも流暢に言葉を!? その上情操やコミュニケーションにも問題が一切見受けられない! 素晴らしい! この現象を人為的に起こすことができれば、医学が一足、否三足飛びで発展しますぞ!」

 論文に起こさねば! と老人は鞄を掴んで腰を引きつらせながら部屋を飛び出した。女性はアネモスと扉をしばし見比べたあと、老人が残していってしまった片眼鏡を拾い上げて部屋を出ていった。

 必然的に、ラドールとアネモスだけが取り残された。

「言葉を喋るのがそんなに珍しいことか?」

 アネモスが怪訝そうにそう呟くと、遠慮がちにラドールが唇を開く。

「あ、あの、聖女様は長い間お眠りになっていましたので、その……」

「聖女?」

 アネモスはさらに怪訝そうな顔をした。

「おいおい、まさか俺のことを言ってんのか? 悪いけど俺、男だぜ。ほら股の間、ちゃんとついてるし」

 見るか? とアネモスが問いかけるとラドールは猛烈な勢いで首を横に振った。

「それでも、あなたは聖女様なのです。お生まれになった時、そのような神託がありました」

「ふうん。なあ、それよりお前、その喋り方なんだよ」

「え?」

「まだ子供のくせにそんなかしこまった喋り方しなくてもいいだろ。もっと気楽に話せよ」

「それは……」

 お前も子供のくせに、と言わんばかりにラドールが微妙な表情を浮かべる。もごもごと唇を動かすラドールに、アネモスは興味を失ったように視線を逸らした。

「聞きてえことが山ほどある。のに、ちょっと喋っただけで顎が疲れる。なんなんだ全く」

 アネモスが気怠げに呟けば、ラドールは何も悪くないはずなのにバツが悪そうな顔をする。

「ああ、別にお前を責めてるわけじゃないさ。悪い」

「いえ……」

 はは、とアネモスが乾いた笑い声を小さくあげる。白い瞳はカーテンが閉じられた窓へと移る。薄く開いた隙間から青い空が見える。ラドールはアネモスの視線に気づくと、カーテンを開いた。差し込んだ日差しにアネモスが目を細める。

「ああ、ありがとう」

「……眩しいですか?」

「うん、少し……。ああ、閉じなくて良い」

 浅く息を吐き、アネモスはその窓の向こうを眺めた。白い雲と青い空。それを遮る木々の葉と鳥の羽ばたき。アネモスの眼差しには穏やかな希死と老成した達観が含まれていた。

「どうしたもんかな……」

 アネモスの呟きだけが落ちていった。

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