第4話
アネモスは鬱屈としていた。
体を動かし、食事を山ほど摂り、早く寝て早く起きた。鬱憤を晴らすように規則正しい数日を過ごしたせいか、医者も驚くほど早い調子で回復し、壁伝いではあるが自力での歩行もすでに難なくこなせるようになっていた。
肉体的な回復を済ませたアネモスが次に求めたのは知識だった。自分が置かれている状況、国、聖女という存在、世界の勢力図、料理本。あらゆる知識を吸収しようとアネモスは王宮の図書室に入り浸っていた。しかし、アネモスの日々には苛立ちが募るばかりであった。
「……読めねえ」
文字の壁である。
王宮の図書室。アネモスの寝室ほどの広さの部屋に、申し訳程度の本棚。蔵書量もさほど多くはなく、比較的新しいものが多かった。
アネモスは窓際の椅子に腰掛け、歩行を補助するための大ぶりな杖を苛立たし気に掻いた。膝の上には大きな本が開かれ、大きな絵と文章が描かれている。絵の内容から察するに童話のようだが、アネモスは子供向けに綴られたであろう文字すら読むことができなかった。文字の上を滑り続ける目に疲れ、少年の相に似合わない顰め面のままアネモスは天井を仰いだ。
「聖女様、こちらにいましたか」
大きな扉が開く。小さな体でそれを押し開けたラドールがそこに立っていた。腰には木剣が刺さっており、その額には薄く汗がにじんでいた。訓練終わりであろうラドールを、ちらりと一瞥してから、アネモスは鬱陶し気に片手をあげる。緩慢なその仕草に、ラドールは扉を閉めてアネモスの側へと寄った。
「お加減が?」
心配するラドールの言葉に、アネモスは低い声で、あー、と唸った。
「何も、俺にそんなべったりしなくてもいいんだぜ? ただでさえ訓練で疲れてんだろ」
アネモスは窓にもたれ、片眉を吊り上げてラドールを見詰めた。ラドールは、その視線に慌てて額の汗を拭い姿勢を正す。
「僕はあなたをお守りするのが責務です! そのための訓練も……、決して苦ではありません!」
瞳を輝かせるラドールを前に、アネモスは口の中で「そういうことじゃない」、と言い淀んだ。しかし、あまりに誇らしげに頬を染めるラドールを前に、アネモスは全ての言葉を飲み込む他なかった。アネモスは椅子から立ち上がり、杖を付きながら先ほどまで苦心していた本をラドールに押し付けた。ラドールはその本を慌てて受け止める。大ぶりな杖を付きながら、アネモスは扉に手を掛けた。
「部屋で読み聞かせてくれ」
アネモスがそう言うと、ラドールは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「パン作りのレシピ本かよ」
アネモスはベッドに腰掛けながら残念そうな顔をした。挿絵に描かれているパンをこねる絵のタッチが牧歌的で、それを童話と勘違いしていたらしかった。
「別の本もお持ちしましょうか?」
ラドールがそう聞くと、アネモスは小さく唸った。
「文字を読めるようになりてえ。そういう、なんか、子供向けの本とかがあるなら……」
「なるほど、文字ですか……。僕では上手に教えられるかどうか」
「お前は誰に習ったんだ?」
「家庭教師です。月に二度か三度ほど」
アネモスはその言葉に怪訝そうに眉をひそめた。何か言葉を零そうと口を開き、すぐに閉じた。仏頂面でしばし考えこんだあと、ラドールの腕を掴んだ。
「一文字一文字お前が声に出して読め。俺はそれを覚える」
ベッドの傍らに置かれた椅子に座っていたラドールは、驚き、腕を引かれるがままにアネモスの隣に引きずられた。ラドールの手に握られていた本をアネモスが横からのぞき込む。アネモスはラドールの手を取り、その指を本に綴られた文字に添わせる。指先で言葉をなぞりながら声に出して読んでほしい、という意思表示だった。ラドールはそれを具に感じ取り、ごくりと一つ生唾を飲み込んだ。青い瞳の中に、長い睫毛を伏せたアネモスが映る。
「えっと……、じゃあ、まずは生地を作るところから……」
本のページが捲られ、最初の項目に戻る。ラドールの震える指先が紙に触れ、ゆっくりと文字をなぞり出す。
少年の高い、少し緊張して張った声が部屋にぽつぽつと落ちていく。ラドールはうなじまで紅潮させながら、本の文字を追いかけていく。ラドールのそんな様子を意に介することもなく、アネモスは真剣な面持ちで文字とラドールの声に集中した。
文章に区切りができればそこでアネモスは一度ラドールを静止し、同じ文章を自分の声で繰り返す。文字に詰まればもう一度ラドールに教えを乞い、スラスラと読めるようになれば次の文章に移る。その繰り返し。そうして、パン作りのレシピのうち、成形された生地を窯に入れる工程まで進んだところで、夕食の時間を知らせる鐘が鳴った。
「あー、もう時間か」
アネモスはため息をつきながら本から距離をとるように上体をベッドに倒した。ラドールは本に栞を挟みながら、少しだけ名残惜し気に目端でアネモスを見詰めていた。少しの疲労が滲むその顔を、ラドールはずっと見詰めていた。
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