20.自己満足な贖罪とラズベリージャム味のキス
ベテルギウスから派遣された《鴉》――人間界でいうスパイみたいなもの――の報告によると、彼女は卒業式の日に事故に遭って、昏睡状態で入院していたと記憶を変えた。
両親の会社を立て直した理由も、とある資産家による援助があったから……になったらしい。
魔法界の記憶改変力はかなり高く、修正された記憶の齟齬はあまりない。
彼女はこれから、自分が傷つけた相手のことも、好きな人を手に入れるためにした罪も忘れて、人間界で暮らしていく。
魔法界を一部の者しか知らないようにするための処置とはいえ、奏さんが犯した罪を考えれば些か甘い処罰だと思う。
しかし……それは、わたしの思い違いらしい。
聞けば、人間界送還された花嫁は記憶の齟齬がなくなったものの、花嫁としての性質はそのままだ。
そもそも花嫁は、魔法使いだけでなく花嫁自身にも恩恵をもたらす太陽の魔力を宿す代わりに、代償として不遇な身の上になる。
太陽の魔力は、相応しい『不幸』と『幸運』を秤に乗せることで得られる、人間界の女性にしか発現しない力。
わたしは母を失い、新さん達から冷遇されたという『不幸』があったから、シリウスの花嫁として傍にいる『幸運』を手に入れた。
奏さんの場合、倒産しかけた会社を立て直すために好きではない相手の花嫁になるという『不幸』があったからこそ、彼女の『幸運』の秤は釣り合っていた。
でも、花嫁として魔法界にいられない以上、太陽の魔力は力のバランスを崩さないよう『幸運』と『不幸』を延々と秤に乗せ続ける。
……つまり、人間界に戻った奏さんは、今後さらに幸せになるか、それとも不幸になるか分からない状態。
一つでも選択肢を違えれば一気に転落する……。そんな危険な一本の綱の上を、もう覚えていない彼女は渡っているのだ。
幸せになれば甘い処罰だけど、不幸になれば重すぎる処罰。
その不幸が自分だけでなく身の回りに起きたとなれば……彼女にとって、覚えていなくてもとても過酷な未来しか待っていない。
そこまで聞かされたわたしは、もう何も言うことはできなかった。
「はぁ……」
早朝恒例の温室の仕事に来たわたしは、もやもやした気持ちを抱えながらも、杖を振るってジョウロの中を水で満たしていた。
何かの容器の中を水で満たす魔法は、魔法界で魔法を学ぶ者ならば浮遊魔法と同じく最初に習う基礎魔法。
奏さんも、同じようにこの魔法を学んだのかな……。そう思った時、わたしは改めて思い知った。
「わたし……奏さんのこと、ロクに知らないまま終わっちゃった」
好きな食べ物も、家族のことも、好みの服も……全部、知らない。
知ってるのは、彼女がわたしを排除したいほどにシリウスが好きだったことだけ。
……なんて、虚しい終わり方なのだろうか。
「マユミ」
名前を呼ばれて振り返ると、シリウスが立っていた。
彼の後ろには、何故かたまに開催されるお茶会で使う
何故これがここにあるのか分からず首を傾げていると、シリウスはわたしの手を引いて黒を基調とした重厚感のあるチェアに座らせる。
しばらくすると、エリーがカートを引いて入ってきて、カートに置いていた物をテーブルの上に並べる。
粉糖をかけたケーキを乗せたアンティーク調のケーキドーム、愛用している白磁のティーセット、それに昼食用のサンドイッチ。
この世界の食文化はイギリスに寄せているため、お昼は軽めにしている。
しかしエリーが作ったサンドイッチは、明らかに軽くない。
半分にカットせず、耳がついたままの食パン二枚を使って挟まれているのは、レタスにスライスしたトマトとタマネギ、それと
「えっと……シリウス、これは……」
「今朝はあまり元気がなかっただろう? 昼になれば食欲が戻ると思い、多めに作ってもらったんだ」
「あ……」
……そうだった。今朝は食欲がなくて、シリウスの分はしっかり作ったけど、わたしはシリアルを食べて終わらせていた。
その後、無心で温室の手入れをしていたせいか、お腹が食べ物を欲するように鳴いた。
「ほら、遠慮せずに食べろ」
「い、いただきますっ」
シリウスの許可を貰い、わたしはサンドイッチにかぶりつく。
しっかり焼いた食パンの裏に塗ったマヨネースとピクルスの酸味が舌を刺激するも、トマトや目玉焼きがその味をマイドルにさせる。
ハムは食べ応えがあって、タマネギは辛味を抜いたおかげで食べやすい。そして鶏ムネ肉はパサパサしてなくて、最後にかけた塩と胡椒が全ての食材の味を引き締めていた。
食べたら具が全部反対から溢れ出そうになるのを気をつけながら、なんとかエリー特製具だくさんのサンドイッチを完食する。
紅茶で喉を潤した後、シリウスは魔法を使わず手ずからナイフでケーキを切り分け、それをお皿の上に乗せた。
そのまま渡されたお皿を見て、わたしはケーキの正体に気づく。
「これって……ヴィクトリアサンドイッチケーキ?」
「よく知っているな。ヴィクトリア朝時代に人間界に遊学していた魔法使いが、このケーキの味に感動してレシピを魔法界に広めた代物なんだが……マユミは食べたことがあるのか?」
「ううん。……前に、新さん達が出かけている間に見た料理番組で見たことあって」
ヴィクトリアサンドイッチケーキは、ヴィクトリア女王が好んだケーキと言われている。
スポンジケーキの間にラズベリージャムを挟んで、表面に粉糖をかけるというシンプルなものだ。
現代ではラズベリー以外のジャムやクリームを挟んだり、チョコ味にしたりとアレンジされている。
これは、オーソドックスなラズベリージャムしか挟んでいないタイプだ。
初めて食べるケーキに緊張しながらも口に入れる。スポンジはふわふわで、ラズベリージャムは酸味ありながらも優しい甘さ。
気付けば、わたしはケーキを無心で口の中に入れていた。
(どうして? 初めて食べるのに……すごく懐かしく感じる……)
不思議に思っても、食べる手が止められない。
カットされたケーキを半分も食べたところで、ふと断面が目に入る。スポンジの淡黄色とラズベリージャムの赤。
その色合いを見て、わたしは思い出した。
(………そっか。これ、お母さんが作ってくれた誕生日ケーキと似てたんだ)
母が亡くなる前、五歳の誕生日を迎えたわたしは、近くのケーキ屋に誕生部ケーキを頼んでいた。
しかし保育園からの帰り、母と手を繋いでケーキ屋に行くと、なんと店員の手違いで別の家族に予約していたケーキを渡してしまった。
しかも閉店間際もあって誕生日用のケーキを作る材料も不足していて、あるのは洋酒が入った大人向けのケーキ数個と、土産用の焼き菓子の詰め合わせだけ。
店側のミスということでお金を支払うことはなかったし、お詫びとして焼き菓子を
その帰り道、母は突然スーパーに行ってホットケーキミックス粉とイチゴジャムなどの材料を買うと、わたしのためにケーキを作ると言ってくれた。
しかし小型の電子レンジと最低限の調理器具しかない家では、ケーキなんて立派なお菓子が焼けるわけがない。
それでも母は牛乳パックを型として使い、ハードカバーの本のように分厚いホットケーキを焼き、その間にイチゴジャムを塗って、間違って買った粉糖を表面に雪のように振りかけてくれた。
ロウソクなんてない、少し不格好なケーキ。でも、わたしにとっては、どんなケーキよりも美味しいケーキだった。
懐かしい記憶が次々と浮かんで、わたしは自然と涙が零れる。
突然泣き出したわたしに驚く素振りも見せないまま、シリウスは隣に来て優しく抱きしめてくれた。
男らしい無骨の指が、優しく髪を梳く。その手つきすら、とても愛おしい。
「マユミ。ミス・ココノエのことも、ベテルギウスのことも、遅かれ早かれ関係は終わっていた。……たとえきっかけが私達であろうと、それに罪悪感を抱くことはない」
「で、でも……っ。わたし、奏さんのこと、何も知らなかったのに……!」
「知らないのは当然だ。歩み寄ろうとしたマユミの手を払い、自分を知って貰う努力を放棄したのだから。ジェルマもそれを見抜いていたからこそ、ミス・ココノエを利用した」
シリウスの言うことは分かる。でも、それでもわたしはそれを受け入れることはできない。
たとえ元から決まっていた終わりだとしても、あんな風にどちらも傷つく結末を迎えさせたのは、他でもないわたしなのだから。
だからこそ、首を横に振り続けるわたしを見て、シリウスは無言になり……やがて、ぎゅっと強く抱きしめる。
「……きっと、どれだけ言っても、マユミは納得しないだろう。だが、気持ちも分かる。私も同じだ。数少ない友の幸せを壊したのだから」
「シリウス……」
「ならば、共に背負おう。この罪を。そして、二人に再び祝福がやって来ることを願い続けよう。それが……私達にできる、せめてもの贖罪だ」
「…………そうだね」
どれほど後悔しても、過ぎた時間は戻ってこない。
ならば、せめてあの二人が再び幸せになることを願い続けよう。
たとえ頼まれていなくても、覚えていなくても、わたし達は共にこの痛みと罪を背負う。
周りに自己満足だと言われても、強気な顔で言ってやる。
――そんなもの上等だって。
「シリウス、愛してる」
「私も愛している。マユミ」
お互いの顔を見つめ合い、愛の言葉を囁き合いながら、何度目か分からないキスを交わす。
今日交わしたキスは、ラズベリージャムの味がした。
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