18.準備

 翌朝、わたしの熱はすっかり引いていた。

 けど、家族の襲来から二日は経っていたせいで、その……わたしの体はひどく汗臭いし、髪はぼさぼさ。

 この状態で昨夜シリウスとキスをしたり、添い寝をしたと思うと、乙女としてなんてひどい姿なのだろう。


 そんなわけで、ベッドから起き上がり、たっぷり水分補給したわたしが最初にしたことは、お風呂に入ることだ。

 屋敷の浴場は普段はお湯がたっぷり入っているだけなのだが、たまに泡風呂になったり、特製の入浴剤を入れたり、数種類のハーブを浮かべたりする。

 今日はリフレッシュとデトックス効果のあるレモンバームとゼラニウムの葉と茎部分を束にしたものと、花をそのまま浮かせたりしている。


 しっかり肩まで浸かって全身が温まったら、シャンプーや石鹸などを使って今までの汚れを洗い落とす。

 専用のスポンジでごしごしと全身の垢を落とし、ざばざばとシャワーを浴びる。一度タオルで体についた水気を拭き取り、最後に高そうな香油で全身をマッサージ。

 このマッサージはエリーが手伝ってくれた。大理石のタイルの上に敷かれた専用のマットの上にうつ伏せになり、甘い香りのする香油と程よい力加減で体のあちこちを揉んで伸ばしてくれるおかげで、疲労などでガチガチになった全身がほぐれていく。


 思わず眠ってしまいそうになるけれど、たまにエリーがいい感じにツボを押してきて、その痛みで目を覚ますのを繰り返す。

 くっ、エリーめ……どこのツボを押せば痛がるのがよく分かっているじゃないか。

 あ、でも気持ちいい。痛いけど気持ちいい。今までの疲れが取れていくぅ……。


「あっ待って痛い痛い痛い! エリー、足のツボをぐりぐりしないでぇー!」


 ……と、こんな感じに痛気持ちいいマッサージを受け終え、ようやく浴場から出る。

 時間はすでにお昼前。今日は病み上がりだから魔法の勉強も温室の手伝いもなしということで、ゆったりめの淡い黄色のワンピースを着る。

 そのまま食堂に行くと、テーブルには昼食がすでに用意されている。シリウスはボリュームたっぷりなクラブハウスサンドだが、わたしはパン粥だ。


 クラブハウスサンドは、食パンを三枚使った三段重ねのサンドイッチのこと。典型的なレシピでは、トーストしたパンにマヨネーズを塗り、ベーコン、ターキー、レタス、トマトを挟む。

 だけどチキンが好きなシリウスのため、このクラブハウスサンドはベーコンとターキーの代わりにローストチキン。パンに塗っているのもマヨネーズだけでなく、粒マスタードも追加。さらに野菜の他に両面焼きターンオーバーの目玉焼きも挟んである。


 ボリュームたっぷりなクラブハウスサンドに対して、わたしのパン粥は実にシンプルだ。

 パン粥っていうのは、お粥のパンバージョンのこと。耳を落とした食パンを食べやすい大きさにカットした後、小鍋に牛乳と一緒に入れて煮て完成というお手軽な料理。

 ここに具とか入れたりすることもあるけど、わたしは二日も何も食べていない病み上がりなので、大人しく具なしのパン粥を食べる。あ、でも具なしでも美味しい。パンは柔らかいし、好みで蜂蜜をかけると甘くなる。


 普段なら会話をするけれど、今は食事を摂るのが最優先。

 もぐもぐとしっかり噛んでパン粥を食べ終わると、エリーが食後の紅茶を持ってきたタイミングでシリウスが話を切り出してきた。


「……さて、そろそろあのクズ……もとい、両親について話そうか」


 さらっと父達をクズ呼びしたけど、わたしは別に気にすることなく話を聞く姿勢になる。

 だって、あの人達がベクトルの違うクズなのは事実。否定はしない。


「あの後、どうなったの? わたし、熱で寝込んでたから分からないの」

「あの日以来、連中は屋敷に近い宿に泊まらせてある。ミセス・ムトウの方は早く会わせろと催促しているが、マユミの体調を理由に先延ばしにしている。……が、向こうもかなり穏やかじゃない」

「というと?」

「ミスター・ムトウが義姉であるアユミを私の元に娶らせるだけでなく、マユミを言葉通り捨てようと考えていたミセス・ムトウの思惑を知って、あちらの仲が冷め始めているんだ。いや、あれはもう冷め切っているな。どの道、人間界に帰ったところで離婚することは目に見えている」

「離婚……」


 あの二人が離婚する姿など、あまり想像できない。

 昨夜も言った通り、父達はわたしの目から見ても完璧な家族だった。

 そんな彼らが離婚するなど、以前のわたしなら信じられないと思っただろう。


 だけど、早苗さなえさんの提案を聞いた時の父の絶句した顔と、歩美の怒りと侮蔑の顔を思い出すと、既に〝家族〟を保つのは限界に近かったのだろう。

 いや……むしろ、わたしがシリウスに連れて行かれた時から、もう。


「それで、いつあの人達と話すの?」

「逆に聞くが、本気なのか? そのまま強制送還させられるんだぞ」

「そうかもしれない。……でも、ここで全部放り出すのは、後味が悪いしすっきりしない」


 一方的に別離を言い渡すのは簡単だ。

 でも、それでは向こうもこっちも変なしこりが残る上に、また同じことが起きる可能性がある。

 ならばここで、全部終わらせた方がいい。


「……そうだな。では、明日のお昼過ぎにこちらに来るよう手配しよう。今はゆっくり休め」

「うん。ありがとう、シリウス。わたしの我儘を叶えてくれて」

「いいさ。君の頼みなら、なんだって叶えてやりたい」


 シリウスは椅子から立ち上がると、そのままわたしの元に近寄りこめかみに唇を落とす。

 明らかに溺愛してますの雰囲気に、一瞬でわたしの体温が高くなる。

 い、色気が! 大人の色気が強烈すぎるっ!


 真っ赤な顔で慌てるわたしを見て、本人はくすくす笑いながら食堂を後にする。

 残されたわたしは、そのままテーブルに突っ伏して、足をジタバタさせる。そのせいでテーブルのどっかに当たって、悶絶する羽目になった。

 え、場所? テーブルクロスで隠れてたから分かりません。


「ひ、ひとまず明日着る服を考えよう……」


 じんじん痛む足を引きずりながら、なんとか自室に戻ったわたしは、ウォークインクローゼットを開ける。

 西洋風異世界らしいドレスから、現代風の私服まで。靴も高級品の数々で、どれもわたしのために揃えてくれた。

 最初の頃は、なんでここまですんだろうって思っていたけど……今なら分かる。


 彼はずっと、あの日交わした約束を守るために努力し、わたしを迎える準備をしてくれていた。

 なのにわたしは、その大切な約束を忘れていた。怒鳴られても仕方ないと思うけれど、彼はそのことに関しては怒らなかった。

 むしろ、死を選ぼうとした方に怒った。


 ウォークインクローゼットを開けたまま、呆然と立つわたしを不審に思ったのか、様子を見に来たエリーが首を傾げる。

 彼女の反応に気づいて「なんでもないよ」と言って、早速明日着る勝負服を選ぶ。

 流石にこんな堅苦しいドレスは慣れてないから、シンプルに長袖のブラウスとコルセットスカート、そして黒のショートジャケットを選んだ。


 ブラウスはリボンタイがついたもので、スカートは落ち着いた濃いブルー。

 ショートジャケットも、袖口をぎゅっと絞って、その先は三段重ねのフリルがついているという、可愛らしくも落ち着いたデザイン。

 念のため試着すると、髪型と化粧をすれば今のわたしでも似合っていた。うん、我ながらいいチョイスだ。


 そう思って試着したそれを脱ぐと、エリーがわざわざハンガーにかけてくれた。

 彼女のさり気ない気遣いにお礼を告げると、わたしはドレッサーの方を見た。

 そういえば、あそこには色んな化粧品が入っていたけど、どれを使えばいいのか分からない。


「ねえ、エリー。明日着るあの衣装に合う化粧と髪型を、一緒に考えてくれない?」


 思い切って聞いてみると、美しい家憑き妖精は嬉しそうに何度も頷く。

 いそいそとドレッサーの引き出しから様々な化粧品や、ウォークインクローゼットから持ってきたアクセサリーを並べるエリーを見ながら、わたしはバルコニーの窓越しに外を見つめる。


(――明日、全部言おう。わたしの本音を)


 その先にどんな罵詈雑言が飛ぼうが、醜悪に顔を歪ませようが、もうわたしの意思は揺るがないとあの二人に突きつけてやる。

 そして、解放しよう。

 これまでわたし達の問題に振り回されたもう一人の被害者を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る