16.願いと怒り
ガラスに何かが当たる音が聞こえる。
その音に反応して、わたしはゆっくり目を開けた。
「こ、こは……?」
若干掠れた声を出しながら、軽く首だけを動かす。
見慣れた内装……ここは、わたしの部屋だ。
バルコニーのガラス扉から見える外は灰色の雲が空を覆っていて、パラパラと雨が降っていた。
パラパラとガラス扉や窓に雨粒が当たり、小さな音を何度も出していて、まるで演奏会のよう。
呆然とその音を聴きながら上半身を起こそうとしたけど、目眩がして少しだけ浮いた頭が枕の元に戻される。
その拍子に額に乗っけていた濡れタオルが落ちた。同時に部屋の扉が開いて、グラスを乗せたトレイを持ったシリウスが、目を覚ましたわたしに気づく。
「ああ、よかった。起きたのか」
「シリウス……」
「あの後、突然倒れてそのまま高熱を出したんだ。医者に診せたらストレス性の発熱だと言われた」
ストレス……うん、あれはかなりストレスだった。
もう二度と顔も見たくない父と義母が、あんな身勝手なことを言えば、誰だって体調を崩す。
そう思っていると、ベッドの近くに置いた椅子に座ったシリウスがゆっくりと起こしてくれて、そのままグラスを渡してくる。受け取った直後、ふわっと甘い香りがした。
「これって……林檎?」
「正確には水晶林檎の果汁一〇〇パーセントのジュースだ。魔法族にとっては魔力回復に最適な果物であると同時に、疲労の回復にも効く」
さあ、と勧められて、わたしはグラスを受け取ってそのまま水晶林檎のジュースを飲む。
果物のまま食べた時と同じあっさりとした甘みが喉を通るが、ジュースにしたせいか味が濃く感じる。
ごくごくとゆっくりと飲み干すと、シリウスはまたわたしをベッドの上に寝かせる。
「まだ休んでいろ。後で消化にいい食事を用意する」
布団をかけて、その上からぽんぽんと優しく叩いてくれるシリウス。
昔、熱を出した時、母が今のように叩いてくれた。「大丈夫。今は苦しくても、いっぱい寝てればすぐ治るよ」って言ってくれた。
掛け持ちしているバイト先に電話越しで頭を下げて、わたしが元気になるまでずっと看病してくれた。
でも……もういない。
母は、わたしを置いて逝ってしまった。
高熱で泣きじゃくった時に、何度も優しく頭を撫でてくれない。
食欲がない時に出してくれた、すりおろした林檎を食べさせてくれない。
熱が下がった日の朝、わたしの顔を見て微笑んで「おはよう」と言ってくれない。
今まで忘れていた思い出が、一気に頭の中で再生されていく。
だけど、その思い出の中の体験がもう二度とないと思い知り、自然と涙がボロボロ零れ落ちる。
いきなり泣き出し、嗚咽を漏らしたわたしに、シリウスは慌てて椅子から立ち上がった。
「ど、どうした?」
「なっ、なんで……なんでわたし、生きてるのかな……っ」
シリウスはわたしの発言に驚いていて、目を見開いたまま固まる。
それを知らないまま、わたしはえぐえぐ泣きじゃくりながら、ネグリジェの裾で涙を拭う。
「わたし……お母さん以外に、ず、ずっと愛されなかった……。お父さんは、罪悪感でわたしを引き取っただけで……本当は、これっぽっちも、愛していなかった! さ、早苗さんだって、いつもわたしじゃなくて、お母さんの面影を見てっ……何度も違うって言ったのに、全然聞いてくれなくて……っ」
「…………」
「わ、わたし……わたしだって解ってる! わたしのせいで、あの人達の幸せを、家族を壊したことくらい!」
そう、全部解っている。
わたしがいなければ、あの家族はずっと壊れないはずだった。
それを思い知ったのは、引き取られて一年後のある夏の日。
その日は夏休みに入り、わたしを除いた三人が外に遊びに行っていた。
残されたわたしは早苗さんがやらなくなった家事を代わりにやって、今日の夕飯は父がリクエストしたうなぎの蒲焼きを作っていた。
だけどそこで、蒲焼きのタレに必要な醤油が切れていて、仕方なくスーパーで醤油を買いに外に出た。
ちょうど駅前にショッピングモールがあって、地下一階のスーパーで醤油を買って、早く帰ろうとした時に見たのだ。
仲良く手を繋いで、ショッピングモールを歩く三人を。
映画館やボウリング場などの娯楽施設もあるため、近場で遊ぶとなるとそこを選ぶのは当然だ。
もし、その光景を見たのが普通の子だったら、きっと自分だけ除け者にして楽しむ彼らに怒りが湧いて、すぐさまその場で泣き喚いていただろう。
だけど、わたしはただ、立ち尽くしていた。
だって、完璧だった。優しい父と、綺麗な母、そして可愛い娘が三人で仲良くお出かけをする、普通の〝家族〟の姿。
横から入ることすら許せないほどに、完成されていたのだ。
それを壊したのは……他でもない、わたしだと。
もちろん、わたしだけが悪いわけじゃない。
わたしの希望を蹴って引き取った父も、母に嫉妬し父を奪った早苗さんも原因がある。
……でも、歩美――あの義理の姉にとっては、関係のない迷惑な話でしかない。
「……君は、その姉のことが好きなのか?」
「好き……と聞かれたら、正直解らない。彼女はただの被害者だよ」
「君も被害者のはずだ」
「そうだね。でも……わたしは被害者でもあり、加害者でもあるよ」
そうだ。最初からそうだったのだ。
わたしはあの二人の身勝手な都合に振り回された被害者。
それと同時に、歩美の幸せを壊した加害者。
あの二人以上に、罪深い。
小鳥遊愛結は、この世で最低最悪な
「だから……わたし、あの日に売られそうになった時、内心嬉しかったの。『ああ、これでようやく終わるんだ』って」
シリウスが息を呑んだ。
困惑する彼の顔を見ながら、わたしは本心を吐露する。
「どんな目に遭うかなんて、わたしにとっては二の次だった。……それよりも、彼らから離れて、あの時見た〝家族〟が元に戻るかもしれないって思っていた」
「…………」
「だから……ねえ、シリウス。花嫁って、別にわたしでなくてもいいでしょ?」
「どういう、意味だ……?」
分かっているくせに。わたしの言いたいことなんて。
だから、わざと体の向きを変えて、指輪をはめた左手で彼の左手と重ねる。
「……婚約、破棄してよ。あなたならきっと、他にいい人が見つかるよ」
これは、本心だ。
わたしのような歪で醜い女は、シリウスのように美しく完璧な男の隣に相応しくない。
太陽の魔力の高さを気にしなければ、きっとわたし以上にいい花嫁が見つかるはずだ。
所詮、わたしは金で買われた花嫁。
なら、今のうちに手放せば、彼の人生に傷などつかない。
「お願い。わたしを……お母さんの元に逝かせてよ」
誰もわたしを愛してくれない世界なら、どこで生きても辛いだけ。
あれだけ失いたくないと思った彼からの愛情を、惜しく思わない内に。
だけど。
「…………ふざけるな」
シリウスは左手の上に乗せていたわたしの手を軽く払うと、そのまま掴んで強引に上半身を起き上がらせる。
そのまま右手を出してわたしの肩を掴む。指先が食い込むほど、強く。
その時、真正面から見た彼の灰色の瞳は、怒りで強く煌めいていた。不釣り合いな雰囲気なのに、その瞳が一番綺麗に見えた。
「――ふざけるな! 私は、君以外の花嫁を迎えるつもりない!!」
間近で怒声を浴びて、耳がキーンとした。
それ以上に、わたしはミナの言葉を思い出した。
花嫁を持った【一等星】は、婚約してから恋をしていく生き物なの、だと。
「……シリウス?」
「ああ、本当に……先人の言葉というのは、蔑ろにするものではないな……」
肩を掴んでいた手を放して、綺麗に櫛で梳かした髪をぐしゃぐしゃにする。
でも癖がないから、ぐしゃぐしゃになっても、髪は綺麗に元に戻る。
「……マユミ。さっきも言ったが、私は君以外の花嫁を迎える気はない。【一等星】の中には、次代の【一等星】を産むために何人もの妻を娶る奴もいるが……私はそんなことはしない」
「どうして……?」
今さらっと【一等星】の裏事情を聞いたけれど、その気がないと豪語するシリウスに意識が向いていた。
だって、その時の彼の顔は……まるで、長年会えなかった恋人にようやく再会した旅人みたいだったから。
わたしの質問に、彼は小さく苦笑しながら、彼は言った。
出会った時の夫発言以上に、とんでもない爆弾を。
「――君は、私の初恋だからだよ。マユミ」
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