15.心の傷

 シリウスという男は、完璧な美しい魔法使いだと思っていた。

 実際、屋敷にやってくる人々がシリウスの管理する魔法植物の取引をする時、彼は互いに損のない妥協案を出したり、安い値で買い叩こうとする相手を諫めたりと、一切の隙を見せない。


 逆に相手が予想より高い金額を見せると、文句を言ったり怒鳴ったりするが、そんな時でも彼はポーカーフェイスを貫き、淡々と理詰めで交渉する。

 どんな態度を取った客でも、毅然と態度は崩さない。


 だからこそ……驚いていた。

 彼が、こんなにも怒りを露わにする人だったなんて。


「なっ……何よ。私達は悪いことなんて……」

「しているだろ。現にマユミを売ろうとしただけでなく、こんな風にぞんざいに扱うなど……ここまで非道な女は初めて見たぞ」


 ギロッと灰色の目で睨まれ、早苗さなえさんの顔色が青くなる。まるで蛇に睨まれた蛙だ。

 顔色が悪い早苗さんを見て、父は頭を下げる。


「も、申し訳ありません! どうやら、互いに意見が食い違っていて――」

「いや、食い違っていない。どちらも本心だ」


 そう言って、シリウスは背後にいたエリーからショールを受け取ると、そのままわたしにかけてくれた。

 淡い水色をした、肌触りのいいショール。薄くもなく厚くもない、でも今のわたしの体を温めてくれる。


「ミスター・ムトウ、お前は一方的に彼女とその母を捨てたにも関わらず、いざ手放したら寂しくなり家族としてマユミを連れて帰ろうとした」

「…………っ」

「対してミセス・ムトウ、マユミを一番疎ましく思い、別の相手に向けるはずの嫉妬を押しつけて、彼女を存在ごと己の中から消そうとした。……どちらも浅ましく、吐き気がするほど愚かだ」

「なっ……」

「とにかく、私はマユミを手放す気も、その娘を花嫁にする気もない。分かったならとっとと帰れ」


 しっしっと虫を払うように手を振るシリウス。

 あんまりな雑な対応をされて、早苗さんは屈辱で顔を赤くする。プライドの高い彼女のことだ、シリウスの態度は彼女の怒りに触れるに充分だ。


「待ちなさい! まだ話は終わってない。ここまで侮辱されて黙って帰るなんて……っ」


 早苗さんが食い下がろうとした瞬間、シリウスのその一言で魔法が発動した。

 わたしが暴走させて壊れた物が修復し、そのまま逆再生のように元の位置に戻り、応接室のドアが静かに開く。


「どうぞ。出口はあちらだ」


 扉の前でエリーがじっと父達を見る。どうやら見送る気があるらしい。

 父も早苗さんも突然のことで言葉を失う中、歩美あゆみだけはソファから立ち上がる。


「歩美?」

「パパ、ママ。あたし達帰らないと」

「え、ま、待ちなさい!」


 歩美だけはこの中で誰よりも冷静に状況を把握していて、すたすたと扉の方へ歩いていく。

 途中でわたしの方を見たけれど、今の状態ではそこまで気にする余裕はなかった。


「……また後日伺いますからね!」


 早苗さんが捨て台詞を投げると、そのまま歩美を追って応接室を後にする。

 父もわたしと扉の方を交互に見て、やがて諦めたように部屋を出る。

 三人が出て行ったのと同時に、エリーが廊下に出た後に魔法で扉を閉めたのを見届けると、シリウスは深いため息を吐いた。


「……まったく、一体どういう神経しているんだ。どちらも正気じゃない」

「…………」

「まあ、どうせ連中の頼みなど断るが……あの状態じゃ何を言っても理解しないだろう。仕方ない、人間界交通部に職員を派遣させて強制送還させるしか……」

「…………ごめんなさい、シリウス」


 今後の方針について口に出していた彼に、わたしは謝罪する。

 それくらい、今のわたしはシリウスに謝りたい気持ちでいっぱいだった。

 甘かった。まさかあの二人がそんなことを考えていたなんて。


 父の甘すぎるお願いも。

 早苗さんの容赦のない要求も。

 全部、魔法界ここにいれば大丈夫だと、何の根拠もなく高を括っていたわたしの落ち度だ。


「いや、これは君のせいじゃない。責任は私にもある」

「違うの……全部、わたしが悪いの……」

「……マユミ?」

「わ、わたし……わたしが、いたから……わたしがいるから、みんな、みんな……!」


 震えが止まらない。涙が溢れて止まらない。

 どうして? どうして誰も、わたしを放っておいてくれないの?

 わたしは……わたしはただ、幸せになりたいだけ。


 綿を包んだような優しい場所で、何にも邪魔されず過ごしたいだけ。

 静かなところで安心して眠って、花に水をやるように愛されたいだけ。

 そんな……そんな願いすら、どうして奪おうとするの?


(それは全部――わたしがいるから)


 わたしという存在が、わたし自身の願いを潰す。

 どんなに頼んでも、蝋燭の火のように簡単に消し飛ぶ。

 わたしが生きている限り、わたしの願いは叶わない。


「マユミ? ……おい、マユミ! しっかりしろ!」


 朦朧とする意識の中で、シリウスがわたしの名前を呼ぶ。

 初めて聞く切羽詰まった声が遠のいてくる。

 徐々に意識が闇に沈んでいく中、三人の大人達がわたしを見つめる。


 お父さん。

 どうしてわたしとお母さんを捨てたの? そんなにわたし達のことが邪魔だった?

 邪魔だったら、どうしてわたしを引き取ったの?


 早苗さん。

 お願い、そんな目で見ないで。ぶたないで。叩かないで。ひどいこと言わないで。

 わたしはお母さんじゃない。だから、わたしをお母さんと重ねないで。


 お母さん。

 どうして自分を捨てたお父さんを憎まなかったの? どうしてわたしを置いて逝ってしまったの?

 わたしを必要としない世界に置き去りにしたの?


(こんなに辛い思いをするなら、わたしも――)


 わたしも、一緒に逝きたかったよ。お母さん。



♢♦♢



 場面が変わる。

 真っ暗な闇から、豪雨が降り注ぐ葬式場に。


 母の葬式の日、昼なのに夜みたいに真っ暗だった。

 分厚い雲が空を覆い尽くし、外では大粒の雨が降っていた。黒と白の垂れ幕と畳の敷かれた大部屋で、黒いワンピースを着たわたしは母の遺影を見つめていた。

 周りから似ていると言われるくらい瓜二つだった母。でも目元は柔らかく、まるで花が咲いたような優しい笑顔をいつも浮かべていた。


 でも……もうその笑顔を見られない。

 真っ白な花の中に埋もれるように眠る母は、もう二度と目を開けない。

 涙を流したい気持ちを堪えるわたしに、母と同じ職場に働いていた人達はハンカチを片手に涙ながらに話す。


『可哀想に……過労死ですって』

「生活保護は受けていなかったの?』

『一応受けていたけど……それでも生活するには足りなかったみたい。こんなご時世だもの、分からなくもないわ』

『愛結ちゃんはどうなるの?』

『多分、施設に行くんだと思うわ。あの子には身寄りもいないし……』


 同情した声がわたしの耳に入ってくる。

 あの人達は母と同じ職場に働いていたけれど、ただそれだけの仲。

 こっちの事情をあまり知らない彼女らの言葉は、とても不快で両手で耳を塞いだ。


 場面が変わる。

 葬式場から、あの家に。


 引き取られたわたしは、家に到着すると父は早苗さんと歩美を紹介してくれた。

 早苗さんは怖い顔をしながら睨んでいて、歩美は彼女の背後からこっそり覗いて見つめていた。

 その日の夜、中々寝つけなくて水を飲もうとリビングに向かった時、あの二人は言い争っていたのを見た。


『どうしてあの子を引き取ったのよ。施設に行かせてればよかったじゃない!』

『何度も言ったはずだ。僕の間違った行いのせいで、花を死なせ、愛結を苦しませた。……なら、その責任を取るのは父親として当然だ』

『責任って……そんなのこっちの知ったことじゃないわ! 私達には私達の生活があるの。それをあの子のせいで壊されてたまるものですか!』

『いい加減にしろ! もう引き取ったんだ。今更施設に預けるわけにはいかない。少なくとも、あの子が成人するまでは面倒見ればいい。……それまで我慢しろ』


 頭を抱えながら言った父の言葉に、早苗さんは顔を真っ赤にしながらも反論しなかった。

 でも、それを見たわたしは、なるべく足音を出さないよう部屋に戻り、そのまま布団に潜りこんだ。

 あの時、わたしは思い知ったのだ。誰も、わたしを愛してくれないって。


 父は母を捨てた罪悪感からわたしを引き取ったに過ぎない。

 母に抱いていた同じ愛を、血の繋がった娘とはいえ、すぐに抱くなんて無理に決まっている。

 だからこそ、あの人は家族としてわたしを愛することができなかった。


 早苗さんは、母の面影のあるわたしが、自分が手にした幸せを壊されると思い込んでいた。

 わたし自身にその気はなくても、彼女にとってはそうは思えず、ずっと目の敵にしていた。

 自分の幸せを守る――そのためなら、どれだけ非道なことでもやれるのだ。


 そんな彼らに、どうやっても愛されるわけがない。

 わたしは……母以外に愛されない、哀れな子供なのだ。


 こんな思いをするくらいなら、あの時母と一緒に逝けばよかった!

 そうすれば、ここまで辛い思いも痛い思いもしなかったのに!!


 場面が変わる。

 あの家から、真っ暗な闇に。


 一人残され、わたしはその場に蹲り泣きじゃくる。

 もう、どこにもいたくない。あんな思いをずっとするのなら……いっそこのまま、ずっとこの闇の中にいたい。

 一歩も動かず、闇の中に居座ろうとするわたしに、〝それ〟は許さなかった。


〝それ〟は泣きじゃくるわたしに、こっちにおいでと言わんばかりにいざなう。

 ここにいるべきではない、早く戻って来い、と催促するように。

 まるで誘蛾灯に引き寄せられる蛾のように、わたしは涙でぐしゃぐしゃになった顔をそのままに、ゆっくりと確実に〝それ〟に近づいていく。


 だけど、〝それ〟はわたしが近づくと、何故かゆっくりと離れて行く。

 向こうから誘っておいて、なんて意地悪なんだろう。

 ムキになって、わたしは〝それ〟を追いかける。


 まるで鬼ごっこのように、逃げる〝それ〟を捕まえるために。

 何度も足を縺れさせ、転びそうになりながらも、わたしはようやく〝それ〟を捕まえる。


 パンッ!! と、両手で派手にプレスしてしまい、潰れてしまったのではないかと思って、そっと両手の力を緩めながら開く。

 そこでようやく、わたしは〝それ〟の正体を知った。


〝それ〟は、星だった。

 とりわけ美しく、強く輝く青星。

『光り輝くもの』『焼き焦がすもの』の意味を持つ、その名に相応しい星。

 

 その星の名前は――――

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