6.手放せない眼鏡

 この魔法界の交通手段は、基本は馬車らしい。

 流石に遠方へ赴くための魔導式列車という魔力を込めた石――魔石を動力とした汽車を利用するが、ちょっとした距離ならば馬車を利用することが多い、とシリウスは教えてくれた。


 屋敷から駅までは馬車を呼んで貰い、赤煉瓦で造られた立派な駅舎に着いたわたしは、その立派な外観を眺める暇もなく、シリウスに引率されながらそのまま汽車に乗り込んだ。

 車内はコンパートメントと呼ばれる仕切りのある個室が並んでおり、わたし達は最後尾のコンパートメントに入った。


「ここから王都までは三時間弱だ。眠かったら好きに寝てかまわない」

「それは大丈夫かな。……二日も寝ておいて眠気もないというか……」

「そうか。なら、車内販売の菓子でも食べよう」


 ちょうど通路で車内販売をしているおばちゃんが、カートを引いてわたし達がいるコンパートメントのドアをノックして開けた。


「旦那様、車内販売はいかが?」

「ああ、頂こう。今年の春の新作はなんだ?」

「今年の春の新作は、このフラワーケーキですよ。一口食べるごとに口の中で広がる花の香りが変わりますわ」

「では、それを貰おう。あとは……チョコレートボックス一箱とキャンディケインを二本、それとアクアサイダーを二本」

「毎度!」


 シリウスは黒革の財布から銀貨一枚を渡すと、おばちゃんはそれを受け取って、代わりに買った商品とお釣りである銅貨三枚をシリウスに渡した。

 おばちゃんが去るのを見送ってからドアを閉めると、シリウスはお菓子とサイダーが入った青い瓶を備え付けのテーブルの上に置いた。


「ほら、食べろ。この新作はきっと当たりだ」

「うん、いただきます」


 淡いピンクや紫、オレンジや黄色など様々な色をしたカラフルなカップケーキを受け取ると、焼き菓子特有の香ばしい匂いが漂い、ごくりと唾を飲んでからひと口齧る。

 口に入れた瞬間、カップケーキ特有の甘さと薔薇の香りが口の中でふんわりと広がった。


「美味しい……!」

「そうか。よかった」


 わたしの反応を見て微笑むシリウスは、片手だけでサイダーの瓶のコルクを抜く、

 ポンッと音を出しながら出たコルクは、宙で半周すると器用にもそのままシリウスの手の中に収まる。

 そのまま瓶に口をつけて飲む彼に、わたしも瓶のコルクを抜こうとするが……。


「あ、あれ? 結構固い……っ」

「車内販売の瓶やコルクは、ひび割れや炭酸漏れの防止のために適度に魔力を込めてやらないと、割れないどころかコルクすら抜けない仕組みになっているんだ」

「そうなんだ。じゃあ、【無星】の人が買った場合はどうするの?」

「その時は車内販売をしているあの魔女が開けてくれる」


 シリウスは「貸してみろ」と言ってわたしの持っていた瓶を奪うと、慣れた手つきでコルクを抜き、そのまま返してくれた。

 受け取ったわたしは「ありがとう」と言って一口飲む。サイダーのしゅわしゅわした爽快感するだけでなく、水のように飲みやすい。どうやら食文化に関しては魔法界の方が結構発展しているようだ。


「ところで……今だから訊くんだが」

「何?」


 一気に飲むのが勿体なくてちびちび飲んでいると、チョコを食べていたシリウスがおもむろにわたしの眼鏡を取った。

 そして自分の眼前にかざすと、怪訝な顔でわたしを見る。


「この眼鏡……度が入っていないだろう? 明らかにガラスだ。何故こんなものをかけている?」


 そう言って、わたしの前でゆらゆら揺らす眼鏡……いや、伊達眼鏡。

 誰だって、視力が悪くないはずのわたしが、そんなものをかけていたら不審に思うのは当然だ。

 それから視線を逸らすも、シリウスの灰色の双眸がじっと見つめてくるから、耐え切れずぽつりと零す。


「…………わたしだって、好きでそんなものかけてるわけじゃない。それがないと……殴られる、から……」

「殴られる? 誰に? ああいや、言わなくていい。どうせお前を売ろうとしたあの女だろ」


 思い出したように苛立つシリウスに、わたしは無言を貫くもそれは肯定と一緒だ。

 サイダーの瓶の中の気泡が消えていくのを見ながら、わたしは眼鏡を貰った日を思い出す。



 あれは、父に引き取られて暫く経った頃だ。

 引き取った当初、早苗さんは元恋敵の女の娘であるわたしを引き取ることは大反対だった。

 わたしの望み通り施設に預けるよう伝えても、父はどういうわけか頑なに首を縦に振らなかった。


 それは自分の身勝手で母を捨てたことに対する贖罪なのだろうけど、わたしにとっても早苗さんにとっても、父の独断は喜ばしいものではなかった。

 早苗さん自身も母に顔立ちが似ているわたしを快く思ってないのは、肌を刺すどころか突き刺さるくらいに感じていたから、なるべく顔や姿を見せないようにひっそりと隠れながら過ごしていた。


 だけどある日、休日ということもあり、ちょうど家には誰もいなかった。

 久々に自由を感じて、普段あまり居座らないリビングでアパートから持ってきた絵本を読んでいる間に、心地のいい日差しが入り込んでそのままうたた寝をしてしまった。

 どれくらい寝ていたのか分からない。でも、わたしの目を覚ましたのは、優しい声ではなく大きな怒声だった。


『起きなさい! 起きろって言ってんでしょ!?』


 突然頭上から降った声に驚き、わたしは慌てて起き上がると、そこには鬼のように顔を赤くした早苗さん。

 いきなり怒鳴られ困惑するも、彼女は躊躇なく強烈なビンタでわたしの左頬をはたき、それを見た父は慌てて止めに入った。


『何をやっているんだ!?』

『放してよ! ああ、本当に苛々する……っ。あの女そっくりの顔で、あたし達の家に堂々と居座るなんて……!』


 その時の早苗さんの顔は、憎悪と嫉妬に塗れた、美しい顔を台無しにするほど醜く歪んでいた。

 歩美はリビングのドア前で怒鳴る母親に怯えていて、足元にはデパートで買ったと思しきおもちゃ屋の袋。本人はせっかくの休日を台無しにしたと思っていただろうけど、それはこっちの台詞だ。

 むしろ、わたしを置いて出かける彼らの神経を疑いたがったが、罵声を振りまく義母のせいでそれどころではなかった。


『いい!? この家にいたかったら、その顔を――忌々しい顔をあたしに見せないでちょうだい!!』


 それを最後に、早苗さんはドスドスと足音を鳴らしながら部屋に戻り、歩美もおもちゃ屋の袋を持ってそそくさと母親の後を追いかける。

 残されたのは、泣きそうな顔をしている父とジクジクと痛む頬を抑えるわたしだけだった。


 その後、父は頬の腫れを冷やすために保冷剤とタオルを用意し、わたしにそれを渡した。

 無言で頬を冷やしていると、父はリビングを出たと思ったら、しばらくして戻って来て眼鏡ケースを持ってきた。

 中に入っていたのは黒縁眼鏡で、子供がかけるにはちょうどいいサイズだった。


『父さんが小さい頃に使っていた眼鏡だ。度は入っていないから、明日からこれをかけなさい。流石に早苗も、眼鏡をかければ少しはマシになるだろう』


 そう言った父の顔は、どんなものだったのか覚えていない。

 だけど、またあんな風に一方的に叩かれて怒鳴られるくらいなら、文句を言わずに眼鏡をかけた。

 たった一枚のガラスで隔たりができただけなのに、何故か今まで見た景色が違って見えた。


 もちろんただの気のせいかもしれない。

 でも、眼鏡をかけたおかげで早苗さんは苦い顔をするだけで何も言わなくなって、眼鏡をかけていない時だけ気をつければなんら問題はなかった。

 それ以来、わたしは伊達眼鏡をかけるようになり、中学に上がると今度はちゃんとしたサイズを買うために父がわざわざショップで今の眼鏡を買ってくれた。


 この眼鏡は、わたしを守る盾となってくれた。

 そして奇しくも、父がわたしの誕生日にくれた最初で最後のプレゼントになったのだ。



 そんな経緯があり、魔法界に来てもわたしは眼鏡を手放すことはできなかった。

 単純に今の自分の姿に慣れてしまったのもあるけれど、何故だかそれを捨てるのは〝今〟ではない気がした。


「君が手放したい時に手放せばいい」


 シリウスはわたしの思考を読んだみたいに言うと、そのまま眼鏡をかけ直してくれた。

 ガラス越しで見る彼は、本当にわたしの旦那様になってしまうのが勿体ないほど美しく、名前の通り光り輝いている。

 彼の右手がそっとわたしの垂れた髪を耳にかけて、そのまま自然と左頬を優しく撫でる。義母に叩かれた時の痛みと感触を消すように、何度も優しく。


「その時が来るまで、私はちゃんと待つし、見守ってやる」

「……本当に?」

「もちろんだ。どんな時があろうが、私は君の味方だ――マユミ」


 そう言った彼の優しい微笑が、自然と胸を高鳴らせる。

 ああ、本当に優しい人。

 血の繋がった父にすら見放されたわたしにとって、この人のくれる言葉はまるで甘美な毒のよう。


 それでも、わたしにとっては、枯れ果てた心を癒す水に等しい。

 たとえ分不相応だと言われても、彼の隣を奪われたくない。

 まだ出会って数日……それどころかまともに彼のことを知らないくせに。


 厚かましいと思っていても、それでもこれだけは手放せない。

 こんなわたしを愛してくれる、この気高くも美しい星を。

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