5.うろ覚えの記憶

 その日は、雪が降っていた。


 もう三月も終わるのに季節外れの大雪がやってきて、誰もが突然の寒さと雪の多さに辟易するも、わたしは絵本でしか見たことのない本物の雪に大はしゃぎだった。

 母は夜勤の仕事で、家でお留守番していたけどわたしは暇を持て余し、何をトチ狂ったのかまだ七歳だったのに一人で真夜中の外に出た。


 当然だけどいつも行く公園には誰もいなくて、わたしは一人で雪遊びをしていた。

 小さな雪だるまをたくさん作って、真っ白な雪の上にダイブしたり。

 今に思えば、なんとも寂しい一人遊びだろうと思うけど、この時の自分はそれを気にしないほど楽しんでいた。


 空の黒灰色と雪の白で覆われた世界。

 わたし以外誰もいない、静謐で美しい世界。

 でも、その世界に異物が紛れ込んだ。


 いつの間にいたのだろう。その人はベンチに座り込んでいて、肩や頭に雪が積もっていても微動だにしなかった。

 顔は分からない。朧気で覚えていなくて、でも男であることと、全身が黒かったことは覚えている。

 あと厚着でもこもこ状態のわたしと違い、男は薄いコート姿だったことも。


「……おじさん、寒くないの?」


 思わず声をかけると、男はわたしを見て目を丸くした。

 きっとこんな遅い時間に子供が一人でいて、その人も驚いていたのだろう。

 顔が分からない男は、わたしをじっと見つめる。


「君こそ、なんでこんな時間に外に出ているんだ? 親は?」

「お母さんは今、お仕事。明日の朝まで帰ってこないの。おじさんは?」

「おじっ……いや、そこはせめてお兄さんだろ……。僕はただぼーっとしていただけだ」

「こんなに寒いのに? お兄さんはバカなの?」

「その言葉、そっくりそのまま君に返すよ」


 容赦ない子供の言葉に、男――お兄さんはちょっと怒った声をした。

 だけど、それもすぐに消えて、お兄さんは立ち上がった。


「でも、もう帰るよ。君も早く帰りなよ」

「……帰りたくない」

「え? ……いや、そうは言っても、君はこんな時間に一人で外に出ている。お母さんだけじゃなくてお父さんも心配して――」

「お父さんなんていないもん!」


 お父さん。その単語に反応して、わたしは大きな声で叫んだ。

 きっとお兄さんは、子供には父と母がいて当然だと思っていたのだろう。だけど、この世には母子家庭や父子家庭なんて単語がある。

 わたしもその単語に当てはまる子供であることを知らなくて当然なのに、今まで我慢した怒りや悲しみを爆発させてしまった。


「お父さんは……わたしが生まれる前にお母さんを捨てて、別の子の家族をやってるの。わたしのことも、お母さんのことも忘れて! お父さんなんて嫌い。『お父さん』なんて呼びたくないくらい!」

「……」

「本当はお母さんともっと一緒にいたい。でも、でもお母さんは、私のためにいっぱいお仕事してて……っ、だからいっぱい我慢しなくちゃいけなくて……っ」


 こんな一方的な子供の癇癪なんて、気にしなくていいはずなのに、お兄さんはずっと黙って聞いてくれてた。

 きっと、この人には分かったのだろう。わたしが何故、こんな真夜中に外に出たのか。

 雪に興味があったのは本当。でもそれ以上に、家にあのまま一人でいたくなかった。


 母はわたしを捨てたりしない。

 でも、もしも……何かの理由でわたしを捨てたら?

 仕事に行ったまま、ずっと帰って来なかったら?


 嫌な考えが頭の中をぐるぐると回って、いつもは落ち着く家にいるのが嫌になってきて。

 気付けば、外に出ていた。雪の白で覆われた、静かな世界へ。


「…………なら、僕と一緒に来るか?」


 ずっと黙っていたお兄さんが、わたしにそう訊ねる。

 どんな意味なのか分からず首を傾げると、彼はもう一度言ってくれた。


「君を捨てた父親がいなくて、苦労ばかりかける母親を自由にして、君が行きたいと思う世界に、僕は案内できると思う。もし、君がその気があるのなら――――この手を取ってくれ」


 差し出された手は、男らしく骨ばっていたけれど、とてもしなやかで綺麗だった。

 まるで甘いお菓子を渡してくる魔女のような誘惑に、わたしは唾を飲んでその手を取ろうとした……けど、一歩手前でなんとか踏みとどまる。


「……ダメ、行けない」

「……理由を聞いても?」

「だって……お母さんが、いるんだもの。わたしがどこかに行っちゃったら、お母さんが泣いちゃう」


 わたしが一人になるのが嫌のように、母もきっと一人になるのは嫌なはずだ。

 それに……母にとっての家族は、わたししかいない。

 もしここで、母を置いてしまったら……きっと今よりボロボロになって、わたしを探すに決まっている。


 それだけはしたくない。

 ただでさえ、わたしがいるだけでいっぱい苦労しているのに、そこに追い打ちをかけるようなことはしたくなかった。

 お兄さんもそれが伝わったのか。わたしの前で片膝をつくと、優しい声色で言った。


「――なら、約束しよう。大切な母親がいなくなり、他者の悪意によって君の幸せを食い潰されそうになった時……僕は君を、お嫁さんとして迎えに行くよ」

「お嫁さん……? お兄さん、わたしのお婿さんになってくれるの?」

「ああ。もちろんだとも。それまで待っていてくれるかい?」

「……うん、いいよ。待ってる」


 初めて会った、それも身元も分からない相手との約束なんて、正気の沙汰ではなかった。

 でも……何故かわたしは、この人は嘘をつかないという謎の確信があった。

 だからこそ、この約束に頷いた。


「……ありがとう。必ず君を迎えに行くよ。それまで、待っていて」


 囁くように告げた瞬間、わたしの額に柔らかい感触が落ちた。

 それがキスだということは、恋愛経験どころかちょっと刺激の強い少女漫画すら読んだことのないわたしには分からなかった。

 だけど、その後すぐに不思議なことが起きた。


 さっきまで曇っていた空が一気に晴れて、輝く星々と綺麗な満月が浮かぶ夜空が現れた。

 公園の周囲に植えられていた桜の木が一気に開花をして、白い雪がまるで化粧のように花の上に優しく積もる。

 雪月花――一度でもお目にかかることすら分からない、美しくも儚い幻想的な風景を最後に、わたしの記憶はそこで終わった。



♢♦♢



 小鳥の囀りが聴こえる。チュンチュン、と元気いっぱいな鳴き声が。

 条件反射でゆっくりと瞼を開けると、深紅の天鵞絨ビロードで覆われた天蓋が見えた。


「…………あ、そっか。ここ、武藤家の部屋じゃなかった……」


 武藤家でのわたしの部屋は、元々は物置として利用されていた一番狭い部屋で、勉強机とタンスを置くだけで室内が埋まる。当然ベッドなんてものは置けず、使い古された布団と硬すぎる枕で就寝していた。

 物置だった自室にはエアコンもないため、猛暑日は窓を全開にして扇風機を使ってなんとか乗り切ったし、初冬から初春にかけては、毛布を貰って布団で包まって必死に寒さを耐えていたけれど、その点このベッドの布団はそんな心配はなさそうだ。

 というか、魔法界にも四季ってあるのかな?


(そういえば、夢を見ていたような……)


 夢というより、昔の記憶と言った方が正しいだろう。

 まだ母が元気で働いていた頃、わたしが七歳の誕生日を迎えた日の夜に、確かにあの夢の通りに雪は降っていた。

 都内では滅多にお目にかかれない雪を見て、わたしはあのまま外に行ってしまえば、母を自由にしてあげられると本気で思っていた。


 わたしがどこか遠い場所へ行ってしまえば、母は別の人と幸せになれるかもしれないと。

 結局、そんな勇気は持てなくて、近くの公園で遊ぶだけに留まったけど……。


(正直、あの後どうやって家に帰ったのか覚えてないんだよね)


 公園で雪まみれになりながら遊んだ記憶は確かにある。

 でも、自分が帰宅するまでの間の記憶に靄がかかったように思い出せない。

 それに……あの夢の中に出てきたお兄さんもそうだ。


(よくもまあ、見ず知らずの人とあんな約束できたものだよ)


 昔のわたしは、あそこまで警戒心がなかったというのか。

 あんな……物語に出てくるようなプロポーズに頷くくらいに。

 思い出すと自然と頬が熱を帯び始め、自然と指先でお兄さんにキスされた場所である額をそっと撫でる。撫でた箇所はじんわりと熱を持ったような気がした。 

 

「……あ! 朝食作り!」


 このままベッドの中で身悶えたい気持ちになるも、窓の外の天気は清々しいほどの快晴で、それを見た直後にわたしはシリウスの話を思い出し、眼鏡をかけながら慌ててベッドから出た。

 小走りでウォークインクローゼットを空けると、その場でローブとネグリジェを床に脱ぎ捨て、下着を身に付けた後は適当に選んだ白いシャツブラウスと黒のスカートに着替える。

 足には膝下まである白い靴下、その上に茶革のショートブーツを履く。


 シャツブラウスの襟に細い青いリボンを通して結び、ベージュのカーディガンを着て、さらにその上にあのローブを着て、脱いだネグリジェはなるべくシワを伸ばしてからベッドの上に畳んで置いた。

 最後にドレッサーからブラシを取り出して、簡単に髪を梳かし終えると、そのままパタパタと裾を翻しながら廊下を走って、食堂のドアを開ける。

 結構乱暴に開けたせいで、バタンッ! と音が出てしまい、ちょうど食事を取っていたシリウスがわたしを見て目を丸くしていた。


「ああ、マユミか。おはよう。気分はどうだ?」

「おっ……おは、ようっ……ございまっ……ゲホッゴホッ」

「すまない、挨拶どころではないな。エリー、水を」


 シリウスがすぐさまエリーに頼むと、彼女は水の入ったコップを渡してきて、わたしは受け取るとそのまま一気に飲み干す。

 今まで飲んだ水道水とは違う、むしろミネラルウォーターのような飲みやすさに内心驚きながらも、空になったコップをエリーに渡す。


「ありがとう、エリー。……それと、ごめんなさい! 朝食作りができなくて!」


 ばっと頭を下げると、シリウスはカチャリと音を立てた。

 多分、手に持っていたティーカップをソーサーの上に置いたのだろう。


「いや、構わない。かなり疲れていたんだろう。まさか二日も眠るとは思わなかった」

「えっ、二日……!? 二日も寝てたの、わたし!?」

「ああ。恐らく、月の魔力を強く受けすぎたんだろう。夜は月の魔力が一番効力を発揮する時間、特に『眠り』に関してはどれほど強い魔法使いでも抗いにくい。君は恐らく、人間界でまともに眠れたことはなかったんじゃないか?」


 シリウスの指摘に、わたしは武藤家での日々を思い出す。

 確かにあの家に宛がわれた自室は、あまり快適とは言えなかった。夏は暑く、冬は寒く、どれほど試行錯誤してもまともに眠ることができず、そのせいで休み時間は仮眠を取らないと授業について行けないほど常に寝不足だった。


「それは……もう心当たりしかないです」

「だろうな。月の魔力はそんな君の状態を察知し、必要な『眠り』を与えたんだろう。それに朝食作りに必要な事項についてはまだ教えていなかったし、明日から取り組んでくれればそれでいい」

「? 朝食作りにも何かルールとかあるの?」

「ある……が、今は後回しだ。とりあえず食事にしよう」

「あ、うん。そうだね」


 ごもっともな指摘に反論できず、わたしはシリウスに促されて昨日と同じ席に座る。

 テーブルの上にはイングリッシュ・ブレックファストと呼ばれる、イギリスでは代表的な朝食が一枚の大皿に盛りつけられていた。

 片面焼きサニーサイドアップの目玉焼き、カリカリに焼いたベーコン、太めのソーセージ、マッシュルームのソテー、焼きトマト、ベイクド・ビーンズと定番のメニュー。


 トースターラックにはきつね色の焦げ目がついたトーストが何枚も立てられている。

 ジャムとバターも用意されていて、ジャムはストロベリー、ブルーベリー、マーマレードの三つから選べるみたいだ。


(さっき、朝食作りに必要な事項とか言ってたけど、使わないといけない食材とかあるのかな?)


 だが、二日も何も食べていないお腹はエネルギーを欲していて、考えるより空腹を満たすことを優先させる。

 カトラリーを使って、切り分けたマッシュルームのソテーを口に運ぼうとしたが。


「そうだ、マユミ。今日は婚約式をするぞ」

「…………へっ?」


 未来の旦那様の爆弾発言によって、フォークに刺さっていたマッシュルームのソテーが、ぽてっとテーブルクロスの上に落ちた。

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