2.魔法界
「待って、あの、待って下さい……!」
突然現れた『シリウス』と名乗る男性。
家族の借金を肩代わりしただけでなく、わたしの『夫』と呼んだ。前者についてはとても助かったけれど、後者は全然理解できていない。
歩幅の広い彼の速度に遅れないよう、早歩きで追いかけていると、彼はいきなり路地に入る。
そのまま目の前のドアを開けると、非常灯がぽつぽつ灯る不気味な雰囲気を漂わせる細い階段。
埃っぽい風を浴びて息を止めると、シリウスはさらに強くわたしの肩を抱く。
「大丈夫だ。そのまま、ゆっくり下に行こう」
「は、はい……」
諸々の事情を聞きたいが、今はそれどころではないくらい理解しているつもりだ。
結局、そのままシリウスに連れられて階段を降りると、階段の先に上半分がステンドグラスになっているドアがあった。
シリウスが真鍮製のドアノブを捻りながら押す。そのまま室内に入ると、そこはさっきの階段の雰囲気とはまるきり正反対だった。
左側の壁の棚には水晶玉や不思議な形をしたアクセサリー、それから本物らしい頭蓋骨や虫の死骸が詰め込んだ瓶などが乱雑に置かれている。
右側にはカウンター代わりのショーケースがあり、そこには石でできたナイフにルーペ、それに何かの素材でできた骨董品の数々が綺麗に並べられていた。
天井には剥き出しの梁に引っ掛けるように乾燥中のハーブの束やお守りらしき飾りがぶら下がっていて、ジャンルが随分と偏った雑貨屋みたいだ。
「……おやおや、これは珍しい。普段こちらに来ない『焼き焦がすもの』が何用で?」
カウンター奥のドアから現れたのは、ローブを羽織った老人。フードを深く被っているせいで顔は見えないが、その隙間から覗く首はひどく細く、手も枝のようで皺だらけだ。
「門番。私はこれから家に帰る。その前に彼女に許可証をくれないか?」
「……ほう?」
シリウスの言葉に老人が興味を示したのか、ぐるりと顔をこちらに向けた。
わたしは思わずびくっと身を震わせるが、ジロジロと頭から爪先まで眺めると、老人はケタケタと笑い出す。
「はははっ! これは良い報せだ! 『焼き焦がすもの』の〝花嫁〟がついに見つかったか! なるほどなるほど、確かにこれは許可証がいるな」
老人は一人で納得すると、後ろの戸棚から羊皮紙と羽ペンをカウンターの上に置いた。
「さあ、お嬢さん。この許可証に名前を書いておくれ。普通にだよ。お前さんがいつも使う国の言葉で構わないよ」
「わ、分かりました」
文字は英語ともフランス語とも違う不思議な文字で、どうやって書けばいいのか悩むわたしの心情を察してくれたらしい。
焦げ茶色の羽ペンを手にし、わたしは名前欄らしき場所に『小鳥遊愛結』と書く。
羊皮紙はサラサラと音を立てて砂になると、形を変えて一枚のローブに変わる。銀糸と輝く黒い糸で織られたような、夜空色の綺麗なローブだ。
「これは花嫁になった者に等しく与えられるものじゃ。〝向こう〟できちんとした手続きを踏むまでは、入浴と着替えの時以外は着るように。絶対にじゃぞ」
「え、あ、はい……」
老人にローブを着せられ、わたしはどもりながらもなんとか返事した。シルクのようにさらさらした生地を撫でると、シリウスはまたわたしの肩を抱いた。
思わず彼の方を見ると、視界の端でさっきまでなかった扉が出現していた。
「急げ。何も怖いことはない」
「あの、ちょっと待って……!?」
わたしが何か言う前に、シリウスはそのまま歩き出すと扉を開けた。
扉を開けた先にあるのは、星屑のような光が流れる真っ暗な回廊。まるでこのローブと同じで、不思議と恐怖はなかった。
そのまま彼にエスコートされて、長い回廊を歩く。二人分の足音しか聴こえない中、カツンと一際高く鳴る。
直後、周りが一気に眩しい光に包まれて、目を開くとそこには家があった。
色とりどりの薔薇が咲き誇り、深い青の屋根が特徴的な大きな屋敷。世界史の教科書に載るような外観をしたそれを眺めていると、シリウスはこちらを振り返る。
「ここが今日から君が暮らす家だ」
「家って……というか、そもそもここはどこですか?」
「ああ、そういえばまだ説明していなかったね」
そう言って、シリウスはわたしの真正面に立つ。
「改めて名乗ろう。私の名は、シリウス。【一等星】を冠する魔法使いであり、君は私の花嫁に選ばれた」
「魔法、使い……? それに、花嫁って……」
「そして、ここは魔法界。魔法使いと魔女、魔法生物が暮らす世界。……これから君が生きる世界だ」
魔法使い。花嫁。魔法界。
もう頭がパンクしそうだ。きっとわたしの頭からは、煙がシュ~ッて出てるはずだ。
というか、絶対出てる。むしろ出ないとおかしい。
「……といっても、いきなり話しても分からないか。とりあえず、まずは風呂に入って食事にしょう。詳しい話はその後だ」
シリウスに促されるまま、案内されて入った屋敷の中はとても広かった。
天井にはダイヤ型にカットされた水晶のシャンデリアが吊るされ、調度品も普通に生きていたらお目にかからないほどの高価なものばかり。
玄関の扉を閉めると、タイミングよく左の通路から金髪の女性が出てくる。この御屋敷で働くメイドさんかな? でも、真っ白なドレスのような格好をしていて、普通のメイドには見えない。
「すまないが、二人分の食事を頼む。それと……風呂の準備だ」
メイドはシリウスの指示を聞いて頷くと、そのままわたしの方へ向ける。
彼女の瞳はエメラルドをそのまま切り取ったように美しく、自然と見惚れてしまう。
「彼女の名はエリー。屋敷の身の回りを世話し、守護する家憑き妖精だ。基本は喋らないが、その分感情表現は豊かだから、顔を見れば一発で分かる……って、いてて。腕を抓るな。事実だろ」
シリウスの物言いに不満があったのか、エリーは口をへの字にすると服越しから彼の腕を抓る。
……なるほど、確かに分かりやすい。
そう思っているとエリーは私の手を掴んで、そのまま毛足の長い絨毯が敷かれた廊下を一緒に歩く。
案内されたのは、立派な脱衣所。てっきり洋風の屋敷だから、ユニットバスのようなイメージがあったけれど、棚にはふかふかのタオルの山や畳まれた何十着ものバスローブが置かれている。さらにこれまた立派な洗面台があり、浴室に繋がっているガラス戸がある。
造りとしては、温泉施設と近い。
思わず周りを見ていると、エリーが無言で両手を出した。一瞬何を意味しているのか分からなかったが、左手でちょいちょいとローブを引っ張られた。
(えっと……脱げってことかな?)
試しにローブを脱いで渡すと、エリーは嬉しそうに頷いた。どうやら正解のようだ。
ローブを受け取った彼女は近くに置いてあった籠を見て、またわたしを見る。
「……もしかして、脱いだ服はあの籠に入れてってこと?」
試しに訊いてみるとエリーはまた頷き、そのままローブを持って浴室を出た。
残されたわたしは、ひとまず籠に着ていた服を脱ぎ入れる。どの服も近くの商店街にある古着屋で購入したものばかりで、早苗さんは借金してまで買ったブランドの服しか着なかった。
わたしが自分の服を干していると、彼女はよくくすくす笑って馬鹿にしたものだ。
嫌なことを思い出して、無意識に顔を顰めながら使い回されて古ぼけた下着も脱いで、一糸纏わぬ姿で浴室に入る。
浴室は床一面がベージュ系の大理石が敷かれていて、その一部を長方形に切り取った浴槽がある。浴槽の左右には個性的な形をした蛇口が何十個もあり、そこからお湯を出しているようだ。
近くにあるシャワーできちんと体を清めてから、浴槽に入る。温くもなく熱すぎないちょうどいい温度で気持ちよく、岩の上に座る人魚のステンドグラスの窓が太陽の光を浴びて輝いていた。
「はぁ……それにしても、色々あったな……」
好きではない義母姉の借金のカタになったと思ったら、颯爽と現れた魔法使いに救われ、その彼の花嫁として異世界転移。
一体、どこのライトノベルの話なの? 普通に考えてもありえない。
(でも……現実なんだよね)
浴槽の四方に置かれたマーライオンみたいな石像のひとつに付いている蛇口のハンドルを捻ると、開いた口からぶくぶくと真っ白な泡を噴き出す。
勢いよく出たせいで一気に泡風呂になり、わたしは両手で泡を軽く掬い、そのままふーっと息を吹きかける。
泡はシャボン玉になってプカプカと宙を浮き、やがてパチンと弾けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます