第6話 阿闍梨の空腹

 目が覚めて顔を上げると、目の前には源氏池が広がっている。座っているベンチも元通りだ。悪い夢を見ていたのかもしれない。源氏池の表面は風で優しく波打っている。世界の終わりはまだここまでやってきていないようだった。風が木の葉を揺らす音に分け入るように、自分のお腹からキュルキュルと子犬のような可愛い鳴き声がする。あんなに猛ダッシュしてきたのにも関わらず、朝から阿闍梨餅以外何も食べていない。ベンチからおもむろに立ち上がると、鎌倉駅とは反対の方向に糧を求めて歩き出した。

 痛めた左脚も随分軽くなってきた。ホップ、ステップ、ジャンプ。ホップ、ステップ、ジャンプ!軽やかなステップで閑静な住宅街の中を弾みながら歩いてゆく。阿闍梨のお腹の中の子犬もリズムに合わせて嬉しそうに鳴いていた。住宅街の開けた通りをしばらく歩いていると、通りの左側の奥まった場所にカフェらしき古びた洋館が見えた。近づいて見てみると大正時代か昭和初期に建てられたような古い木造の洋館だったが、壁はクリーム色できれいに塗装されていて、そこはかとなくエモい雰囲気がある。鉄格子の扉を引いて思い切って中に入ってみると、そこには小さな庭があり、年季の入った木製の茶色いベンチと錆びついた小さなブランコが置かれていて、壁際の小ぶりの花壇の中には紫色と白色のパンジーが数株肩を寄せ合って咲いていた。洋館の木製のドアまで近づくとそこには「CAFÉ OPEN」と書かれた木札が掛けられている。ドア横の小さな窓から中の様子を伺うと、薄いレースカーテンの先には誰かが動いている気配があった。どうやらカフェは営業中のようだ。お腹の中の子犬はもう聞かん坊の3歳児のように激しく回転していたので、意を決して洋館のドアに手をかけた。

 カランコロンというドアベルの音とともに洋館の中に入ってみると、レトロなカフェの雰囲気が目の前に広がっていた。目の前には木のカウンターがあり、その後ろには古びた食器棚がある。食器棚にはお酒の瓶も何本か入っているので、もしかしたら夜はバーとして営業しているのかもしれない。カウンターの前にはえんじ色のビロードが張られた椅子が4脚並んでいて、その他には真四角の木のテーブルが2台、同じようにビロードが張られた椅子を2台従えて、窓際に並べられていた。ただ窓の外から覗いた時と違って、中には人の気配が無いようだった。

 「誰かいませんか。」

 声をかけても反応が無いので、コートを脱いで恐る恐る窓際の椅子に腰を下ろした。椅子はフカフカで座り心地が良い。天井では小さなシャンデリアが薄いオレンジ色の光を放っている。するとカウンター近くのドアから女性のメイドが出てきた。安心したのも束の間、彼女が自分の席に近づくにつれ、服の異様さが目についてくる。メイド服はスケスケで外からは黒のチェックの水着が見える。南無三!間違えてオトナの店に入ってしまったのだろうか。もしや知る人ぞ知る隠れ家的なお店なのだろうか。鎌倉の住宅街の中によもやこんないやらしい店があったとは。私阿闍梨たる者が迂闊であった。

 「カフェ山猫へようこそ。ご注文はお決まりでしょうか。」

 猫耳のカチューシャをつけたメイドの目はクリクリと丸く、黒々としたまつげは重力に逆らって上向きに伸びている。体は小柄で顔は丸く、少し幼なげに見える。なんといってもおっぱいがデカい。もしやお主はおっぱいデカ過ぎ晋作、現代の奇兵隊か。どてかぼちゃ野郎と浮気をしていた女のニヤついた顔を思い出し、思わず唇を噛んだ。

 「あの、メニューはありますか?」

 「今ちょっとメニューを切らしていて、トースト、オムレツ、パンケーキだったら作れますよ。」

 メニューを切らしているカフェには今まで入ったことが無かった。メイドも服装のいやらしさの割には愛想が悪い。私を女だと思って舐めてかかっているのだろうか。私を阿闍梨とは知らずの振る舞いであろうな。ただお腹の中のメスライオンがインパラのお尻を目がけて駆け回っていたので、やむを得ず食事を注文することにした。

 「じゃあ、パンケーキでお願いします。」

 メイドはスケスケの服の下でお尻をブリンブリンと震わせながら、またカウンター近くのドアの後ろへと消えていった。ドアの向こう側にキッチンがあるのだろうか。それにしてもいやらしい店に入ってしまった。いつもは強欲にまみれた男どもが鼻の下を伸ばしながら、メイドのスケスケの服といやらしい体を嘗め回して見ているだろうか。この世に色欲の罪は絶えない。私阿闍梨は自分がパンケーキに無心にかぶりつく様子をただただ思い浮かべながら空腹に耐えた。

 しばらくするとメイドがドアを右手でゆっくりと開けながら姿を現した。左手には銀のお盆を乗せていて、その上ではフランス料理店でしか見ないようなドーム状の銀の巨大なカバーが料理の全容を隠している。パンケーキひとつにしては大げさ過ぎる。きっとドライアイスやら食用の花やらなんちゃらがパンケーキの周りに仰々しく乗っているのだろう。メイドが自分の席までやって来ると、お盆を左手に乗せたままゆっくりとドーム状のカバーを開けた。

 銀色のお盆の上には自分の生首が乗っていた。首の下からは赤黒い液体がソースのようにお盆の上にゆっくりと広がっている。顔は青白く、髪はボサボサで、まぶたはしっかりと閉じられている。メイドはカバーをテーブルの上に置くと、お盆を右手でゆっくりと回して、お盆の上の私の顔と向き合った。するとメイドは私の首を彼女の顔に近づけ、優しく唇と唇を重ね合わせた。その瞬間私の唇にピリッとした電流が走る。メイドはまたゆっくりとお盆を回し、お盆の上の首を私の方に向けた。生首の口の端からは赤黒い液体が漏れ出ている。ふと不安になって自分の顔を触ろうとしたが、そこには自分の顔が無かった。メイドは自分の首をお盆に乗せたまま、私に向かって優しく微笑んでいる。自分の顔が無いのなら、どうやってこの光景を見ているのだろう。そう考えているうちに視界がぼんやりと霞んできて、何も考えられなくなってきた。とりあえず自分の顔を取り戻したいと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る