第4話 阿闍梨の疾走

 心臓の音が聴こえる。最終目的地に近づくにつれ、徐々に鼓動のペースが速まってくる。視界の端がぼやけてくる。冷え切った体に残った最後の力を振り絞り、東慶寺に続く参道に足を踏み入れた。

 男の顔を振り返って見たが、特に動揺は見られない。朝と同じく、目やにどてかぼちゃの間抜けな顔だ。愚か者め。今日がお前との最後の日になるのだ。

 木々に囲まれた長い階段を上り、茅葺き屋根の古びた山門をくぐる。これが恋人としてくぐる最後の門だ。5年の月日の重さを感じながら参道の石畳を一歩ずつ踏みしめる。若ければ良いのか。おっぱいがデカければ良いのか。化粧は派手な方が良いのか。オシャレなイタリアンレストランから腕を組んで出てきた、若い女とどてかぼちゃのにやけた顔が脳裏から離れない。私との5年間は一体何だったのだろうか。幻だったのだろうか。

 目からにじみ出てくる涙をこらえながら、東慶寺の本堂に辿り着いた。本堂の奥には釈迦如来像が優しい顔でこちらを眺めている。男と並んで賽銭箱に五円を投げ入れると、深々と一礼した。この男は東慶寺で一体何をお願いしているのだろうか。つくづく間抜けな奴め。仏様、この男の口からドブ川のにおいが永遠に流れ、孤独な生涯を送りますように。

 男は参拝を終えると、どこか狐につままれたような顔をしている。私阿闍梨は自分の鋭い紅い爪を見つめた後、意を決して男に話しかけた。

 「ねぇ、何をお祈りしてたの?」

 「いや、あかりとこれからも一緒にいられるようにお祈りしたよ。」

 阿闍梨の紅い爪が陽の光を受けて鮮やかに輝く。

 「ねぇ、知ってた?ここって昔の縁切り寺なんだよ。だから私たちはもう終わりってこと。ここでおしまい。じゃあね。」

 どてかぼちゃに向かって手を振ると、山門に向かって歩き始めた。背後から男の「ちょっと待って」というか細い声が聞こえたが、意に介さず山門をくぐり、長い階段を駆け下りた。階段から少し参道を歩いて後ろを振り返ると、男が私を追いかけて階段を降りようとする姿が見える。

 「待って!」

 私は咄嗟に男に向かって大きな声を投げかけた。男は階段の上段部分で武蔵坊弁慶の最後の姿のように固まっている。参拝客の視線が私の背中に集まってきているのを感じる。しかしそこからなかなか言葉が出てこない。喉の奥に朝食べた阿闍梨餅がつっかえているようだった。

 「ねぇ…その…」

 喉の奥から5年間の思いを絞り上げると、突然マーライオンのように言葉が口から溢れ出てきた。

 「ねぇ!私全部知っているんだから。あんたが若い女と浮気してるってこと。あのおっぱいがデカい女!会社の同僚から噂を聞いてずっとつけてたんだから。あの女が住んでいる最寄り駅のオシャレなイタリアンレストランから腕組みながら出てくるとこだって、この目で見たんだから。このどてかぼちゃのへちゃむくれ!目やにパンプキンマン!顔を洗ってこい!」

 どこかにピリオドを打とうとするのだが、言葉が喉から溢れて止まらない。喉の奥に詰まっていた阿闍梨餅はもう跡形も無かった。

 「ふざけんなよ、この浮気男が!もう私も28で次の4月で29歳なんだよ。私の5年間を返してよ!浮気がバレないと思ったの?このかぼちゃ野郎!東慶寺の事も良く分かっていない奴に私の事なんか騙せるはずないでしょ!私だって有名な大学の文学部出てるんだから!これでもう私たちはオシマイ。さよなら!」

 振り返るとこちらにスマホを向けている中年男性の姿が見えた。しまった…男との一部始終を撮影されてしまったのかもしれない。恥ずかしさに顔を下に向けると一目散に参道を走り抜けた。東慶寺を出ると右に曲がり、そのまま脇目もふらず道路脇の細い歩道を駆け抜ける。踏切を通り過ぎると一旦立ち止まり、荒ぶる呼吸を落ち着ける。汗で湿ったマフラーを黒いリュックに放り込み、脱いだコートを小脇に抱えると、再び履きなれた白スニーカーでスタートダッシュを切った。少しでも東慶寺から遠くへ。まるで羅生門で老婆から着物を奪った下人のように。速く速く。遠くへ遠くへ。なだらかな坂を駆け上り、鎌倉学園と建長寺の脇を抜けるとその先に短いトンネルが見えた。ここまで来ると流石に息が上がってしまい、足も重たくなってきた。呼吸をする度に喉から変な高い音がする。阿闍梨は走るのを止め、小さな背中で大きく息を吸いながらゆっくりと歩き出した。

 坂を上り切りほっと一息ついた所で、突然左脚のもも裏に痛みが走った。南無三。さらばわが肉、ミートグッバイ。左脚を引きずる私の耳に二胡を使った雄大な音楽が聞こえてくる。温まった体の一つ一つの毛穴からは冷たい汗が染み出してきた。あまりの痛みに意識が朦朧としてくる。東慶寺での私とどてかぼちゃの一部始終は、もしかしたら今頃ネットの海を漂っているのかもしれない。でもそれがなんだろう。今日で世界は終わるのだから。

 それでもしばらく歩いていると左脚の痛みは少し引いてきたように感じた。脚を引きずりながらもゆっくりと坂道を下ってゆくと、鶴岡八幡宮が左手に見えてくる。木々の緑の鮮やかさが徐々に視界の中に戻ってきた。緊張から解き放たれた事で、体中の疲れが毛細血管を通って体全体にじんわりと広がってくるのを感じる。赤い鳥居の下をくぐり、生まれたての小鹿のように境内を頼りなく歩き続けると、源氏池を見渡すベンチまでなんとか辿り着いた。池の緑色の水面が風で小さく波打っている。ベージュのコートですっかり冷たくなった体を覆い、ゆっくりとベンチに腰を下ろすと、リュックから取り出したペットボトルの緑茶を高校球児のように勢い良く飲み干した。すると急激に眠気が襲ってくる。揺らめく視線の中で目の前の源氏池が徐々に石油のような黒い沼へと変わってゆく。黒い液体は池から溢れて、私の足元まで広がってきた。私はあまりの眠気でベンチから動けず、白いスニーカーが真っ黒な液体に覆われてゆくのをただただ見る事しかできなかった。やがてベンチも黒い液体に覆われ、私はベンチに座ったままゆっくりと黒い液体の中に沈み込んでいった。視界が真っ暗に覆われていく間に私はこう思った。これが世界の終わりなのだろうか。

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