第一章 ~世界的中立機構~ 2

 フィルネとシースが出て行った支部長室。いまいるのはこの部屋の主たるアウロイだけ。他には蟻の子一匹存在しなかった。


「ふん、極秘ばかりで内容も分からん命令を現場が聞くと思うのか。上も堕ちたものだな」


 目の前にある書類には文字通り極秘の書類が置かれていた。

 黒いそれは余計な者に見られないようにプロテクトが掛かっている。と言ってもそれほど仰々しい物ではなく、ただ単に開くのにコツがいるというだけの代物だった。

 書類には抹殺指令と書かれていた。抹殺対象はフィルネ・アノール。抹殺方法は事故死。仕事中に怪虫の突然の襲撃に遭い死亡したとすること、とあった。

 そして次に書かれているのは誰が殺すか。その名前はシースとされていた。


「どう洗っても何も出てこない。両親も祖父母も親類縁者に至るまで調べ尽くしたがどこにも殺される理由がない。どうしたものか」


 悩む。

 こちらからあちらへと打つ手が無いから。


「あちらへ打つ手が無くとも、打てる手は打っておくか」


 一人、彼らの手助けをする者を考えておこう。

 声には出さず心の内にて唱える。


「さて、それよりも彼女は彼を変えさせることができるかな。期待だけで結果は諦めるか」


 それを考えたから彼は彼女に付けるパートナーを変えなかった。与えた命令は上の思惑とは違うものだが。


「彼があそこの出だからといって決して心がないわけではない。まして心はちゃんとある。今はまだ感情を育てていないだけで命令に忠実な機械ではない」


 そこには深い悲しみと慈しみ、そして想いがあった。この世界で彼以外に持ちえない彼への想い。

 それは――。

 何なんだろうな。

 同情でも優しさでもない。

 彼のことを慮(おもんばか)ったものでもない。

しかし計算からきたものでもない。

 だからと言って愛情などでは決して無い。

 だが確実に存在する心の奥から湧き出る感情。

 これは、おそらくとても特殊なものなのだろう。

 該当するこの感情の名前は一つ。

 彼に対する未来への期待。

 彼が過去を取り込みそれを己の一部とし突き進めば良いという思い。

 彼女が彼のことを知りそれでも傍に居てくれれば良いという思い。

 そして彼と彼女が互いに理解をしてくれればいいと思うこと。


「何のことはない。ただの部下思いの上司ではないか。面倒な思考をしたものだ」


 下手に暗闇を知っているからこうなってしまう。素直な思考というのは二度とできそうになかった。


「そうだ。彼にしよう。彼ならばきっと……」


 そこで笑いが漏れた。

 なぜかは知らない。自然に出てきたのだ。


「らしくないお節介をしようとしたからか? 奇行過ぎて頭が着いて行かなかったか」


 極秘の書類を千切って捨てる。もう必要の無い物だ。

 居住まいを正して新たな極秘書類を作成する。

 そこには監視対象と監視をする者の名前が書かれた。

 印を押し直接持っていくような目立つ真似はせず他の書類と混ぜて出す。

 近日中に彼の元にこれが届くだろう。そうすれば面白いことが起こる。


「目にもの見せてやる。腹を据えて待っていろ」


 多分これは上にとってして欲しくないことだろう。だからやる。

 大きな成果は上げられずとも彼に干渉しにくくなる。

 たとえしたとしても必ず妨害が入る。


「シースにもあの新人にも手痛いことになるかもしれんが」


 それでも打つ。

 打たなければならない。

 そんな強迫観念が出ていた。

 未来のことが分かったわけでもない。

 直感でもない。

 心からそんな思いが湧き上がるのだ。

 これが必ず面白いことになると。必ず上にとって面白くないことになると。



                ◇◆◇◆◇



 シースは姿を調節できる剣。ブラインドともレギュレイトとも呼ばれる物を腰から取り出した。

 ダガーだったそれの形をショートにし、繰り出される脚を捌く。

 数度打ち合わせた後、脚を躱して跳び怪虫の頭上に自身の頭を下にして落ちる。

 跳んでいる間に形をロングへと変え、首周りの甲殻の隙間に調節剣(ブラインド)を横に振るう。

 頭を半分切断され体を弛緩させる怪虫をシースはもうそれを見ていなかった。

 一瞬の内にダガーへと変化した剣を今し方視界に捉えたもう一匹の怪虫へと投げる。

 空中という不安定な態勢と、ほんの少ししか見なかった目標。これで間接部に当てることなど万に一つも無い。

 しかし目的は果たしたことをシースは耳で知った。

 硬い音がしたのだ。

 シースは着地したがすぐには動けなかった。

 空中で狙いを定めて斬るなどという無茶からさらに剣を投げるという無茶もしたのだ。当然体への負担は大きく着地でそのツケがきたのだ。

 フィルネたちの方へ向かっていた怪虫は、その狙いを複数から頭にきた単数へと変え走り出す。

 怪虫の動きは往々にして素早く、十数メートルは離れていた距離をもう数メートルへと縮めている。

 その場を動くことができずシースは正面から相手を迎え撃つしかない。

 予備のブラインドを抜き、その形状をダガーからファルクスへとする。恐怖は無かった。

 向かって来る敵にタイミングを合わせ踏み込む。

 ロングソードはどちらかというと切っ先で斬るので難しい芸当、ショートソードではリーチが足りなくて危険な芸当をシースはファルクスで可能にした。別にブロードでも良かったがより擦れ違いざまに攻撃するということをするにはこちらの方が良い。

 怪虫の脚の攻撃を掻い潜(くぐ)り反り返った内側の刃で斬り飛ばす。更に後ろに控えていた他の脚も切り落とす。悲鳴を上げ口を開けたところで更に踏み込み口内へと剣を差し込んだ。

 ぎゅおあぁぁ。

 断末魔の叫びを上げ普通の虫がそうするように脚をじたばたさせる。それがシースの右手と足首に傷を負わせた。


「く」


 長居は無用と剣をそのままにシースは身を退けた。

 残るは一匹。

 この世界に最も多く存在する人間の天敵、駈虫(くちゅう)。

 体長は胴体だけで一メートル。脚を入れれば三メートル近くになるこの怪虫は、ほとんど全ての場所で見られる。

 水中や寒地ぐらいしかこいつらの生息していない場所は無い。

 そしてこいつらは群れて生活する。大体三匹が普通で多くても六匹を超えることはないそうだ。


「逃げるぞ」

「えっ?」

「これ以上危険な目に合う必要は無い。だいたい怪虫と戦うなんて普通はしない」


 シースは踵(きびす)を返してフィルネたちと合流した。

 馬車が全力で走り出す。勢いに負けてフィルネと依頼人の子供が後ろの幌(ほろ)に触れた。


「追い掛けてきてますよっ」


 御者台に居る人間が後ろを振り返って甲高い声を上げた。

 シースは怪我の処置をしながら淡々と言った。


「一匹なら逃げ切れるはずだ。死にたくなければ持てる全てを出すんだな」


 ひいぃと悲鳴を上げる御者。依頼人も疑わしそうな目でシースを見る。


「ほんとに大丈夫なのか? あいつらは馬よりも速いんじゃないのか」


 シースは半眼になるだけで何の説明もしなかった。


「駈虫は確かに動きが素早いですけど持久力は馬よりも遥かにありません。複数で追い掛け回されるなら逃げることは難しいですけど一匹なら追い込まれはしません」


 仕方なくフィルネが怪虫の正しい知識を教える。

 その言葉に安堵する人たち。子供は父親よりもフィルネの方にしがみ付いていた。

 依頼人とその子供二名。及び御者が一人で合計四人が今回の護送任務の相手だった。

 送り先はポリクストというよくある程度の大きさの町。もちろん取り立てて人を呼ぶような物は無い。

 ではなぜ彼らはそこに向かっているのか。簡単なことだ。彼らのホームタウンがそこだからだ。

 故郷で商売が上手くいき出稼ぎに出る商人は多い。そして自分の子供に外を見せてやりたいと思うものも少なからずいる。それは商売の仕方を教えると同時に怪虫についての知識を深めさせる為でもある。

 怪虫は世界中に蔓延(はびこ)り、中には街中にまで現れるのもいる。その時身を護る方法を一つでも多く知るために他の場所へ行きその土地でのやり方を覚えるのだ。

 生きる為に。怪虫を倒せなくても護りたいものを護る為に。

 シースはそこで考えを少し別な方向へと向けた。

 ここに母親が居ないのは単に母親を連れて行くだけの金が行くときにはなかったに過ぎない。それに誰か一人が家に残らねばならなくもあったので母親がここにいないのだ。

 彼らがどれほど家に帰ってないかは知らないがけっこうな時間帰っていないようだというのは見ていれば分かった。

 狂気的なまでに身の心配をするのは余程己が大事な者か、残している者がいる者かのどちらかだ。そして一人ならまだしも彼ら全員が目的地に早く着くよう願い目的地についても気にしている。

 シースはそれくらいは分かるようになっていた。

 大まかにだが人の気持ちの動き、特に怒りや恐怖といった感情はこの仕事を始めて長いのでかなり分かる。逆に分からないのが情や優しさといったものだ。

 優しさはまだ理解できる。彼もずっと昔だが優しくされたことはあるし少しならしたこともある。だがそれを普段から行うほど大切なものだとは思えない。

 情についてはまったくと言っていいほど理解不能だ。なぜ襲ってきた怪虫を弱らせて殺すことを嫌がるのがいたりヌイグルミを落としたと言ってそれを探しに危険な地帯に戻らねばならぬのか。なんとなく情を理解しようと思って小さな子供が欲しがっていた物を買ってあげたら依頼終了後にそれを拾おうとして命を落としたのもいる。

 確かにお礼の言葉はどこか温かみのあるものだったがこちらが与えた物に執着して命を落としに行くのはどうしてだか分からなかった。

 前のパートナーはそれに対して歪んでいるだの感情が無いだの色々言ったくせに深くそれがどういうことなのか教えてはくれなかった。

 そしてそのうちに命を失ってしまった。

 今度のパートナーはどうにも詮索好きのようだがだからと言って馬鹿でもない。こちらが嫌がることは理解して避ける。そういう意味で良くも悪くもと言ったところだ。

 対してフィルネもシースに悪感情を抱いてはいなかった。

 生身で怪虫を二対も倒した。

 これは驚くべきことである。なぜなら怪虫は恐ろしく硬い外骨格を有し傷付けることさえ困難だからである。

 まず間違いなく彼はその能力に置いて組織の中でも上位を占める存在であることは分かった。

 怪虫と正面から戦りあえるのは第一支部や第二支部といった激戦区の一部の人間かあの怪虫大繁殖事件の起きた第四支部の生き残り、そして迷える者たち(ワンダーシープス)ぐらいだと思っていたからである。

 フィルネはシースの強さに信用が置けると思っていた。ただ、彼の他者への思い遣りのなさと状況に対する行動がいまいち納得のいかないところがあるというだけだ。


「聞いてたよりは良いけどやっぱり人間味に欠けるってのは賛成ね」

「何か気になることでもあるのか」


 目敏くフィルネの様子に気付いた相棒(シース)が顔を向けた。


「なんでもないです。ただこのままでいいのかなって思って」


 何が、とも何に、とも言わなかった。シースもあえて訊かないと言うよりも興味が無いといった風情だった。


「もうあの怪虫も追いかけてはいないだろう。今頃は他の群れを探しに行ってるだろう」


 シースは誰にともなく呟いた。


「そろそろ馬を休ませた方が良い。潰れたら困る」


 直接ではないにしろ走らせろと言ったくせに今度は休ませろと言う。

 これから長い付き合いになるのかもしれないと思うとどっと疲れが出てきた。言った本人を除く全員がため息を吐いた。

見晴らしの良い小高い丘に馬を止める。この荒野を移動し始めて二日目。疲労はまだないにしろ気分は決して上々とは言えなかった。


「シースさんはもう少し人と話をした方がいいんじゃないですか」


 フィルネは誰がどうだと言うよりも何をしたら良いかということを言った。

 シースは何も答えない。依然として周囲を警戒しているのみだ。


「いつも言わなければいけないことまで言わなかったら人に誤解されるのは当然です。シースさんはもっと自分を話すことが必要なんです」


 このままではいつか大変なことが起きる。そんな予感めいた思いで言っていた。


「言わなければいけないこと……。自分を話す……」


 オウム返しに言ったその言葉には明らかな途惑いが見えた。フィルネにはそれがただの悩みや迷いのようなものにしか見えなかった。


「今じゃなくていいです。でもパートナーには、せめて私には少しぐらい思ったことを言ってくれてもいいんじゃないですか」


 出会って二日目なのに随分と図々しいことを言っていることは分かっていたが、こういうことは早めに言っておかなければいつまでも言えないものだと知っていた。


「シースさんは支部長から私のことを頼まれたんですよね。だったら仕事のこと色々教えてください」


 こちらに顔を向けたものの口篭もり、視線を彷徨わせるシースに、攻め手を変えることにした。 正面から突(つつ)いても揺さぶりしか掛けられない。だったら外堀の周囲を教えてもらいそこから埋めて行くしかない。

 フィルネはシースに一歩近付いた。

 シースはそれにたじろぐ。

 フィルネは手応えを感じて更に踏み込もうとしたその時。


「姉ちゃんっ」


 子供たちが馬車から出てきた。

 十歳の兄と九歳の妹。二人は駆け寄ってフィルネをシースから引き離すように裾を掴んで引っ張った。


「姉ちゃん。見せたい物があるんだ。こっちに来てよ」

兄が無邪気に早く、とぐいぐい引っ張った。妹も兄の手助けをする。

 フィルネがどうしようか迷っているとシースはすでに見張りとしての役目を果たしに背を向けていた。

 仕方なくフィルネは子供たちと移動する。

 フィルネの見えないところで兄がシースに向けてあかんべぇをした。

 ちょうど振り向いていたシースはそれを目撃するが何の感情も抱かなかった。彼にとっては所詮一時の護る対象でしかないからだ。

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