いつかの約束を
実杜 つむぎ
──花の香りがする。現実感の無い、淡く甘い香りが。
朧げに漂う意識が脆いながらに形を持つ。自らとその他を分ける膜が生まれる。そして眼を開くように、その〈世界〉を知覚した。
淡く光る花畑。近くで見れば、輪郭があやふやなその花はほのかに甘い香りを纏って、笑うように揺れている。せせらぎにしては密やかな音を立てて、花越しに水が波紋を広げるのが見える。
「ここは、どこだろう」
自分とは何で、ここはどこなのか。何も分からなくて、シャボン玉色の上を見上げたり、水面に浮かぶ花々を覗き込んだり、落ち着きなく視点を動かす。けれど、次はこうしなさい、なんて声が聞こえる訳でもなくて、とうとうしゃがみこんでしまった。
何だか自分のずっと奥の方がすうすうして、冷たい風が吹き込んでいるみたい。ますますどうしたらいいか分からなくなって、ぎゅうっと縮こまって丸まっていると、初めて自分以外の〈声〉が聴こえた。
『ねえ、どうしたの?』
視線を上向ければ、自分と同じような姿をした子が、どこか嬉しそうにこちらを覗き込んでいた。
「だぁれ?」
『まだ誰でもないよ』
キミもそうでしょ? と笑って、その子は自分と手を繋いで来た。もう少ししたら分かるよ、とにこにこしながら、自分の手が引かれる。
『ねえ、あそぼ。まだずっと待ち時間があるんだ』
その言葉の意味はよく分からなくて、けれどいつの間にか収まった隙間風の代わりにふんわり暖かくなった胸の奥をぎゅうっと握りしめて、誘われるままに駆け出した。
──────
どれくらい経っただろう。ほんの少し、短い時間? それとも、とてもとても長い時間かもしれない。自分達は二人で遊び続けた。
花畑の中から一番好きな色を探したり、好きな形を探した事もあった。変だなって思った色や形に笑い転げて、お互いに似合う花を探してはぐれかけて、「そっちが先に離れてった」って言い合いをして、最後は「はぐれなくてよかった」ってぎゅうぎゅう抱きしめ合って半泣きになったりもした。
あと、時折、誰かの話し声が聴こえる時があった。遠く微かに、自分達以外の声が。でも、逢う事は無かった。シャボン玉の空の向こうから、霞むくらい遠くの花の影から、一瞬だけ感じる誰かの存在は、追いかけられないし、追いかけるべきでもない。そういうものらしい。よく分からないけど、この子があんまり真面目な顔で言うから、気にしない事にした。
手を繋いで、走り回る。きゃらきゃら、くすくす、鈴を転がすような笑い声が響いては解けていく。
その内に、なんとなくふっと、初めて逢った時言われた言葉をぼんやり理解した。
「……名前、よびたいなぁ」
『ダメだよ、つけちゃ』
「……うん」
自分が、この子が、確かな形が無いのは、まだ〈名前〉を持たないからだ。その存在を定義する型が無い。でも、自分達じゃつけられない。つけちゃ、いけない。それはお互いに対しても同じ事で、何度も宥めるように言われた。
困ったような顔をさせたくないのに、つい呟いてしまうのは、〈名前〉がとても大事なものだと、なんとなく分かるから。きっと、自分が名付けたらとても喜んでくれるって確信があるのに、それでもダメって言われるのが、ちょっと納得いかない。この子が言うなら、理由があるっていうのだけは分かるから、尚更。
ちょっと不貞腐れた気持ちで目を逸らす。その視線の先に、見慣れない景色を見つけて目を瞬いた。
「ねぇ、あれ何だろう」
ぐいぐい手を引いて近付く。それは花畑で初めて見つけた境界線。とても歩いて渡れそうにない、深く穏やかな流れの、煌めく川だった。
「こんなのあったっけ?」
『ううん。──さっきまでは無かった。キミを迎えに来たんだよ』
「え?」
振り返れば、何だか見た事の無い表情で自分を見つめる瞳があった。くしゃって泣き出しそうにしかめられていて、困ったような、でも嬉しそうな笑顔でもあった。
「迎え?」
『キミの〈器〉の準備ができたんだ』
「……なにそれ、知らない」
何だかとても、聞きたくない事を言われている気がする。隙間風が胸に吹き込んできた。ヒヤリとした氷が風に紛れている。
「ねえ、あっちに行こうよ。お花見に行こう。あそぼうよ」
『ダメだよ』
初めて聞いた、固い声。絶対譲ってくれないのが分かる声。
『川を越えるんだ。そうしないと〈此処〉から出られない。大丈夫だよ、川が全てを封じ込めてくれる。寂しくなんて、ないから』
「きみはどうするの。まるで、自分一人で行くみたいな言い方」
『……。』
「やだよ! ねえ、見なかった事にしよう! ずっと遊んでいようよ、出れなくたっていいよ、一緒に──」
『ダメだよ』
冷たくはない。とても暖かくて優しい、だけど頑なな声で、心底困りきった顔をして、聞きたくない事を言う。なんてヒドい事言うんだ! って言いたいのに、喉から言葉が上手く出てこない。
「……なんで? どこに行かせるの、やだよぅ……。ここ好きだよ、なんでダメなの、分かんないよ……」
『……そうだね、一緒に居たいね。でも、行かなきゃ。そういう決まりなんだ。ごめんね、〝知ってる〟だけだから、上手く言えないんだ』
優しく頭を撫でられる。決まりってなんだよって思うのに、口を挟めないくらい、この子の方が泣きそうな顔をしている。
『本当はね、行ってほしくないんだ。だって、〈器〉がどんな形か、どんな環境か、〈此処〉からじゃ分からない。〈此処〉を出るのは二人一緒だけど、その後は、キミと遊べなくなっちゃう』
ぎゅうっと抱きしめられて、震えながらぽそぽそと囁く声は、泣いているみたいだった。
『これからね、ヒトとか、犬とか猫とか……鳥や綺麗な蝶とかかもしれない。〈器〉がキミに確かな形をくれる。キミは自分の事を何て言うようになるのかな? 僕、俺、私、あたし……もっと面白い言い方かも! 誰かがキミに〈名前〉をくれるよ、どんな音かな。ねぇ、だから、きっと楽しみな事もたくさん、あるはずだから……』
ほとほとと熱い雫を感じる。自分も同じように視界を、声を、滲ませている。それでも花の色で喧嘩した時みたいに、『もういいよ』って言ってくれない。
「遊べなくなっちゃうのやだよ……一人にしないで、なんでダメばっかり言うの?」
『……ずっと一緒に居るよ。キミに見えないだけ。キミが思い出せないだけで、ずっと傍に居る。例えばどんなコワイモノがいても、キミの事を守ってあげる。キミが聞こえないだけで、キミの声を聴いてる。……いいよって言えなくてごめんね。でも、ほら、約束しよう?』
大粒の雫を拭う事もしないで、へにゃって笑って顔を覗き込まれる。絡めて繋いだ手が、優しくて、悲しい。
『何があっても、どんな時でも、キミの味方でいる。ずっと一緒に居る。それで、何日か、何十年か後、またキミが〈此処〉に戻ってきたら、また遊ぼう。たくさん、飽きるくらい、飽きてもたくさん。……それで、それでね、もしも。』
『もしも、〈此処〉に還ってくる前に逢えたなら……〈名前〉を付けてね。約束だよ』
最後の言葉だけ、まるで叶わないように言うのは、〈此処〉を出た自分が、この子を思い出せないって言ってたせいかもしれない。でも、自分に叶えてって言われた約束はそれだけで、きっとこの子が一番願う事で……叶えたいなら、川を越えるしか、ない事。
目の前の体にぎゅうっと抱きついて、離す。グイッと自分の涙を拭って、嫌だけど、本当はまだ納得なんて全然してないけど、手を繋いで川の方へ歩き出した。
言いたい事がいっぱい浮かんでは消えて、何を言っても足りない気がして、とうとう後は飛び込むだけになった頃には、またぼろぼろ溢れる涙で視界がゆらゆら滲んで揺れていた。
「……ふ、ぅ……っ、いっしょにいてね……!」
『うん』
「ずっと、……ぇぅ、うぅ……やくそく、」
『うん、……っ約束』
「がんばるから……きっと〈なまえ〉、つけるから……」
『っ……うん、……待ってるよ』
お互い涙でぐしゃぐしゃな顔を見合わせて、とっても下手だけど、一生懸命笑って、ちっとも衝撃なんて感じない川の流れに飛び込んだ。
「『──またね』」
繋いだ手の感覚が遠くなる。目まぐるしく流れる水が二人遊んだ花畑から遠のく程、柔らかい膜に包まれて、あの子の声も、顔も、体温も、どこか遠いものになっていく。鍵のかかる音が聴こえるたびに、思い出が一つ一つ、しまい込まれてしまう。
悲しくて、寂しくて、とうとう最後の鍵がかかって眠る間際まで、約束の事だけを思っていた。思い出せるように、また、逢えますように。
そうして、朧げな意識が〈器〉に溶ける刹那、また指先を、あの子が繋いでくれた気がした。
────
──産声が聴こえる。始まりの声、確かな存在の証明。
産まれた赤子に涙を零す親、ほっと息を吐く医者をよそに、懸命に泣く赤ん坊を撫でる、淡い存在。
『頑張って。ずっと、傍に居るから』
生き始めた。この世界に存在を刻み始めた小さな命。いつか近く遠い未来で約束を果たす、可能性に満ちたその瞳が、最初の景色を映した。
いつかの約束を 実杜 つむぎ @tokoyohana
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます