口羽龍

 鹿山真也(かやましんや)は東北に住む高校生。普通の高校生だが、陸上部の長距離走で好成績を収めていて、駅伝の強い東京の大学に進学する事が決まっている。


 真也は子供の頃から足が速かった。それは、父、康幸(やすゆき)が大学駅伝で活躍した小学校教員だったからかもしれない。小中学校のマラソン大会ではいつも上位で、優勝する事も少なくなかった。この子なら自分を超える事ができるのでは、果たせなかった夢を実現できるのでは? そんな真也に、康幸は期待していた。


「いよいよ来年の春から東京なのか」


 窓の外の夜景を見ながら、真也は来年春からの東京生活を楽しみにしていた。東京の夜景はこの夜景とは比べ物にならないだろう。どんな生活が待っているだろう。そして、どんな陸上部での日々があるんだろう。楽しみだな。


「期待してるわよ、真也。あなたには陸上の才能がある」


 真也は後ろを振り返った。そこには母、直美(なおみ)がいる。直美も、真也の未来に期待していた。深夜には才能がある。きっとプロになれる。もっと頑張れば五輪も夢じゃないだろう。もし、五輪に出場したら、連れて行ってほしいな。


「ありがとう。大学でも頑張るよ」


 そこに、康幸がやって来た。すでに冬休みに入っていて、家にいる事が多くなっている。


「お父さんが果たせなかったプロの道、かなえてくれると信じてるぞ」

「うん。絶対にプロになって、オリンピックに出てみせるよ」


 康幸は笑みを浮かべた。大きな夢を持ってくれて、本当に嬉しい。この子はやっぱり俺の子だ。きっと、自分が果たせなかった夢も実現してくれそうだ。


「よくぞ言ってくれた! さすがうちの息子だ」


 と、康幸はある事を思い出した。それは、今年の箱根駅伝の復路を見ていた時の事だ。康幸は箱根駅伝に出た事もあって、全国的には名が知れていた。だが、ただの小学校教員になった今では、全くと言っていいほど知られていない。五輪で活躍している陸上選手とは正反対だ。


「どうしたの、お父さん」

「大学4年の時、襷をつなげなかったのを思い出してな」


 康幸は大学4年の時、繰り上げスタートとなった時の事を思い出した。繰り上げスタートとは、1位で襷リレーをした選手から一定の時間に襷リレーをしないと、襷がつながらないままスタートしてしまう事だ。箱根駅伝では、20分以内と定められている。それは、大手町を1区の走者が出発してから、一生懸命つないできた母校の襷が途絶えてしまう事だ。途絶えてしまった走者は、涙する事があるという。


「まさか、繰り上げスタート?」


 真也はそのルールを知っていた。そして、その場面を何度も見ていた。だが、まさか父がそんな事を経験していたとは。とても悔しかっただろうな。つなぎたかっただろうな。


「ああ。本当にそんな事があったんだよ」


 康幸は涙を流し出した。よほど悔しかったんだろうな。


「そうなんだ」

「今でもその時の事は忘れられないんだ」


 そして康幸は、つなげなかった日の事を思い出した。




 康幸の通っている大学は、厳しい予選会を通過して、やっと箱根駅伝に初出場する事ができた。康幸は子供の頃から見てきた箱根駅伝に出られるという事で、本当に嬉しかった。両親はとても喜んだという。


 だが、康幸の大学は本大会で力を出せずに、8区の時点で最下位になっていた。繰り上げスタートの基準になる20分に迫りそうな時が何度かあったが、何とか間に合っていて、母校の襷をしっかりとつないでいた。10位以内に入ると、次の箱根駅伝に出場できるシード権を獲得できるそうだが、この順位ではそんなのかなわないと思っていた。


 9区を走るのは康幸だ。19分を過ぎて、ぎりぎりの所で8区の走者がやって来た。何とかつなぐことができてほっとしているが、これ以上差を広げられたら、襷が途絶えてしまう。ペースを上げていかないと。


 8区の走者は康幸に襷を渡した。康幸はすぐに走り出した。絶対に10区の走者に母校の襷をつなぐんだと思いながら。


「頑張れよ、鹿山」


 8区の走者は康幸の肩を軽くたたいた。康幸に期待していた。康幸なら必ず母校の襷を10区につなげられるはずだ。


「ああ。絶対につないでみせるよ」


 だが、先頭との差は広がるばかりだ。このままでは繰り上げスタートになってしまう。康幸の後ろを走る車の中にいる監督も、焦っていた。だけど、何としても母校の襷をつながないと。


「うーん・・・」

「どうしたんですか、監督?」


 監督は頭を抱えている。本当に襷をつなげられるんだろうか? 大手町のゴールまで襷をつなげたいのに。


「だんだん離れていくんでな」

「このままでは繰り上げスタートになってしまう。ペースを上げないと」


 焦った監督は、車の窓から上半分を出して、康幸に声をかけた。


「おーい鹿山、このままでは繰り上げスタートになってしまうぞ! ペースを上げろ!」


 すると、康幸は少しペースを上げた。だが、それでも先頭との差は縮まらない。これが名門との差だろうか?


「少しペースを上げたか・・・」


 その後もペースが上がらず、康幸は苦戦を強いられていた。そして、先頭が9区から10区へ襷をつないだ。20分以内にタスキをつながないと、繰り上げスタートだ。


 先頭が襷をつないで18分が経った。だが、康幸はまだ中継所に来ていない。10区のランナーは焦っていた。このままでは襷が途絶えてしまう。早く来てくれ。だが、康幸が来ないまま、無情にも時間が過ぎていく。監督は頭を抱えていた。


「くそっ、繰り上げスタートが迫ってく来た。このままでは繋げないぞ」


 と、監督は再び窓から顔を出した。


「鹿山頑張れ! 絶対につないでくれ!」


 康幸はあと1kmの所までやって来た。だが、すでに2分を切っている。もっとペースを上げないと。


「あと1キロを切った!」


 監督は両手を握って、願っていた。どうか、時間よ止まってくれ。だが、時間は等しく過ぎていく。


「奇跡を信じよう・・・」


 10区のランナーは康幸を待っていた。だが、まだ来ない。1分を切った所で、白襷が渡された。母校の襷ではないが、それを肩にかけて走らなければならない。母校の襷ではない所に、無念を感じる。


「大丈夫大丈夫。間に合うよ」


 だが、スタッフは励ましている。それでも、10区のランナーは焦っている。


「本当かな?」


 その時、康幸が見えてきた。だが、もうあと10秒で繰り上げスタートだ。康幸の姿が見えているのに。


「見えた! 見えてきた!」

「ドン!」


 だが、繰り上げスタートを知らせる無念のピストルの音が聞こえた。それと共に、10区のランナーは白襷でスタートをした。それを見て、康幸は泣きそうになった。だが、最後まで走らなければならない。何という屈辱だろうか?


「そ、そんな・・・」


 康幸は中継所にやって来た。だが、そこに10区のランナーがいない。その先には、今さっき待っていたはずの10区のランナーがいる。目の前にいるのに、どうしてこんな事に。


「どうしてそんな事に、どうして見えてたのに・・・」


 康幸は涙を流してしまった。襷をつなぐことができなかった。


「悔しかったよな・・・。鹿山、その気持ち、わかるよ」

「ありがとう」


 と、康幸の肩を誰かが叩いた。康幸は顔を上げた。そこには監督がいる。


「鹿山、つらいけど、これからの人生、頑張れよ」

「うん・・・」


 そして、康幸の最初で最後の箱根駅伝は終わった。




 真也はその話を静かに聞いていた。あまりにもジーンとくる話だ。


「そうだったんだ。つらかっただろうけど、それがあるからこそ今があるんだね」

「お父さん、プロになりたかったんだけど、なれなかったんだ。そして、今では小学校の教員として頑張ってるんだ」


 康幸は小学校教員である傍ら、地元の子供たちに陸上を教えている。いつか教えた子供たちの中に、陸上の日本代表が出て、五輪で活躍する姿を夢見ながら。


「そうなんだね」

「お父さんが教えている子供の中に、いつか陸上選手になる子が出てほしいな」


 康幸の育てた子供の中からは、まだそんな選手は出てきていない。だが、いつかは出てほしいな。


「そうだね」

「だから真也、頑張れよ」

「うん」


 真也は思った。俺は康幸を超える陸上選手になるんだ。


「これ、お父さんからのプレゼント!」


 康幸はある物を渡した。それは、母校の襷のレプリカだ。箱根駅伝の後、教員になってから、自費で買ったものだ。


「ありがとう! 襷だ!」


 真也は嬉しそうだ。こんなものをもらうなんて、本当に幸せ者だ。


「これからの未来に向かって、真也に襷リレーだ」


 あの時渡せなかった襷を、康幸はこの時、渡せたと思った。これから真也は、どんな大人になっていくんだろう。だけど、康幸から受け継いだ襷を、これからの日々につなげてほしいな。

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口羽龍 @ryo_kuchiba

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