母親に会いたかった

昨日は急遽久美子さんに連絡し

もう1日探すのに

時間を費やしたいと伝えたところ、

すぐに本八戸駅の近くで

宿を予約してくれた。

この旅も、これまでの人生も全て

久美子さんや徹也さんに

甘えっぱなしだと自覚する。

金銭面的に

痛い出費であるだろうなと思いつつも、

心配するだけで足を止めていた。


晩には、結華が慰めに来てるのか、

ひとつのスマホを一緒に眺めては

将来どんな家に、土地に住みたいか

シュミレーションをしていた。

未来の話は重くて苦いものしか

ないのではないかと思っていたけれど、

案外楽しい未来の話も

できるんだと希望に似た何かを

見つけた探窟家のような気持ちになった。

結華は旅に来てくれると決まった当初、

話しかけなくてもいいと

アピールしていたのに、

気まずさから話しかけて来てくれるのは

一瞬の優しさだと思うことにする。

その一見どうでも話をすることで

心の濁った部分に

目を向けなくてよかったのは事実だから。


本八戸駅の朝、

気温は0℃を下回っているにも関わらず

雪の気配が一切しなかった。

日本海側になると

こんなにも天候が変わるのか。

ふかふかの上着から

熱が飛んでいかないように、

ポケットに突っ込んだ手を

前で握るように縮める。

ずっと手を突っ込んでいるからか

猫背が癖になって

骨が固定されそうだった。


昨日も向かった

白銀駅へと行くため、

同じルートを辿る。


茉莉「そういえば久美子さんからね、仙台に戻る時間はないだろうからそのまま直接神奈川に戻って大丈夫って。」


結華「そう…ひと言お伝えしたかったけど。」


茉莉「茉莉が伝えとくよ。」


結華「ありがとう。」


茉莉「んーん、こちらこそー。」


結華「どう、整理ついた?」


茉莉「気持ち的な話?それなら、寝て少しはすっきりしたかな。」


結華「ふうん。」


茉莉「でも、やっぱり色々考えることはあるよ。」


結華「たとえば。」


茉莉「そこ、踏み込んで聞くんだ。」


結華「茉莉ならいいやと思って。」


茉莉「うわー…なんかやだけどいいや。たとえば、茉莉に被害がないってことは借金は返せたのかな、とか。いやでも、無理だったから亡くなってるのか…。」


結華「どうだろうね。」


茉莉「夜職って稼げるんでしょ?」


結華「浅はかすぎ。トップならそうだろうけど…私もあまりわからないな。大変なことには変わりないと思う。」


茉莉「そっか…もしそのお仕事で貯金とかがあれば返済できたかもしれないのにってちょっと思っちゃった。」


結華「お相手の方がDVしてたっていうし、もしかしたら視野が狭くなってたのかもね。」


茉莉「あー…ね。催促されるまま渡してたとか。」


結華「それもそうだし、実はその借金をさせた人間とDV夫が繋がってて、死亡した後のお金目当てだった…とか。」


茉莉「…。」


結華「夜関係のお仕事であれば裏社会だとか、そう言ったところが絡んできてもおかしくないから。」


茉莉「…まあ、話を広げすぎかなとも思うけど…リスクはないわけじゃないか。」


結華「それこそ、ここから先は本当に知らなくていいことだよ。踏み入れた方が危ない。


茉莉「…うん。」


結華「お母さんが茉莉を守った、その事実だけ知ってたらいい。」


茉莉「うん。」


結華「本当にわかってる?」


茉莉「わかってるよ。悔しさもあると言えばあるけど、そこまで自分を蔑ろにしたいとは思ってない。きっと知っても特にもならないし、嫌なことだけ見えると思うから。それなら目を閉じるよ。」


結華「…うん、そうして。」


茉莉「茉莉も大人になったでしょ。」


結華「そんなに付き合いないけど、まあ。」


茉莉「まあ、かぁ。」


結華「解き明かすにも1歩引くにも勇気がいるからね。」


茉莉「慰めてくれてんの?」


結華「知らない方がいいこともあるっていうアドバイス。数ヶ月だけ先輩な私からの助言。」


茉莉「わ、やなやつー。でも、知らないことは罪とかいうかと思った。」


結華「罪でもある場合もあるけど、知らない方がいいことって無数にあると思う。」


茉莉「だね。」


結華「ひとつひとつ手にとって「知ってもいいのか?」とかしてられないじゃん。それに、意外と小さな知ってもいい種ひとつが大きな間違いへと発展する時だってある。」


茉莉「難しい。」


結華「たとえば…化学の実験で、塩酸は物を溶かす…とか。これは知ってもいいでしょう。教科書にも載ってるし。」


茉莉「うん。」


結華「それを用いて、より凶悪な…人を殺せるようなものへと応用発展させる。自分で開発したり聞いたりして、大きな間違いを生み出して知ってしまう場合がある。」


茉莉「なるほど。」


確かに、話の規模を大きくすれば、

縄文時代に銃や大砲はなかった。

爆弾ももちろん。

でも、火は燃えるもので

いろいろ焼いたり温めたりできたり

明るかったり。

そのことは知ってもいいはずだ。

それが発展して形を変えて

人を殺すものになってしまった。

文明は進んだけれど、

縄文時代等よりも

より一層まとめて多くの人を

倒すことができるようになってしまった。

火ひとつをきっかけに

こんなことにまで発展するのだ。


だから、と彼女は

真剣な眼差しで続ける。


結華「そんなこともあるのなら、罪だろうと何だろうと私は知らなくてもいいと思う。罪を抱えていたって幸せであるならば。」


茉莉「意外と真面目な返事でびっくりしちゃった。」


結華「思っている以上に話聞いてなさそうな返事で拍子抜け。」


茉莉「なんか…いろいろ考えてんだね。」


結華「意外とね。」


茉莉「…あー、なんかあれだな。」


結華「…?」


茉莉「全然関係ないけど…関係なさすぎるか、いっか。」


結華「なになに、1番気になるところで止めるじゃん。いっちばんきもいからね。」


茉莉「言い過ぎ言い過ぎ。」


結華「じゃあなんだったのって。」


茉莉「えー。」


結華「言いたくないなら匂わせないで。」


茉莉「それもそうだけど…ちょっと暗いかもな話。」


結華「いいよ今更。もう重たいのは今日と昨日で慣れた。」


茉莉「言うねぇー。」


結華「んで、何の話?」


茉莉「人が亡くなるとかそういう話を聞くと、ちょっと思い出すことがあって。茉莉が中学生の時に同級生が1人亡くなったんだよね。」


結華「へぇ、中学何年?」


茉莉「3年生。去年なんだ。」


結華「ふうん。」


茉莉「別にがっつり仲良かったとかじゃないんだけど、まあ顔は知ってるくらいで。話したことも数回あったと思う。」


結華「その子が亡くなっちゃったんだ。」


茉莉「うん、事故…ってか事件?」


結華「事件?って聞かれても。私知らないし。」


茉莉「そうだよね。聞いた話だとそうらしい。暗い顔して歩いてるのを見かけた時があったから…なんかなあ…って。」


結華「暗い顔とか今思えばってだけでしょ。関わりがあんまなかったなら思い出すだけ心情的には損だよ。」


茉莉「ほんっと効率重視な。」


結華「効率というよりただの自衛。それにあんた言ってたじゃん。自分で区切りがつくならいいんじゃないって。」





°°°°°





結華「この世の中の9割くらいは思い込みだって思ってる。」


茉莉「…?」


結華「じゃあ、正解したと、たった今何かが間違ってくれたと思うことにする。」


茉莉「うん。茉莉はよくわかんないけど、それで区切りがつくならいいんじゃない?」





°°°°°





茉莉「…そっか。」


結華「あっさり認めるんだよね。」


茉莉「色々ありすぎてちょっと疲れちゃった。寝ても疲れ取れないね。」


結華「頑張って、あともう少しなんだから。」


茉莉「もう少しで済めばいいんだけどなあ。」


結華「信じといて。」


茉莉「結華も願っといて。」


結華「気が向けばね。」


白銀駅で降りて街並みを

それとなく視界に入れながら進む。

信号がちかちかと切り替わる直前に

走るには荷物が重すぎて

何に対してか勿体無いと

思いながらも並んで待ったり、

近くを通った公園を見ると

子供たちが集まって

ケイドロか缶蹴りか、

和気藹々とはしゃいでいたり。

3連休は信じられないほど

時間が早くすぎた。

最終日だというのに、

自然と明日もこの辺りに

いるのではないかと

信じたい自分もいる。


学生なのだから

本業は勉強することであり、

明日は登校するべきだと

考える人がほとんどだろう。

けれど、今日の今日で

見つけることができなければ、

明日だって探し続けたい気持ちがある。

骨を持ち帰りたいだとか

そういうことは思っていない。

ただ、いつでも会いに来れるよう

場所だけは知っていたかった。


もし茉莉が未来や現在のことに迷って、

大切な人、周りの人

…久美子さんや徹也さん、兄ちゃん、

陽奈や共に巻き込まれたみんな、

羽澄、結華…みんなを信じられなくなって

ひとりぼっちだけど

誰かを頼りたくなった時、

お母さんの元に行けるように。

ちゃんと甘えられるように。

その場所を持てるように。


スマホを取り出し、

前日に調べておいた

マップのピンをタップする。

すると、お母さんの住んでいた場所から

最も近い霊園とそこまでの道が

表示されていた。


茉莉「ねーねー。」


結華「ん。」


茉莉「茉莉たち、高校1年生じゃん?もう直ぐ2年じゃん。するともう受験のこと話されると思うんだけど、将来のことって何か考えてる?」


結華「将来ね。何にも。」


茉莉「そうなの?意外。」


結華「考えてそうなのは見た目だけ。できるんならニート大歓迎。」


茉莉「分かる。生きるのってちょっと難しい。」


結華「ちょっとどころか。」


茉莉「くはは、16歳がなんて話してんだ。」


結華「それもそう。」


茉莉「結華って意外と暗いよねー。」


結華「はあ?」


茉莉「はははっ、悪口じゃなく…いや、半分悪口。」


結華「正直な。」


茉莉「卑屈そうとは思ってたけど、違くって。そうすると暗いも違うか。ちゃんと考えてるからこそ考えすぎてそうっていうの?そんな感じ。」


結華「あそ。」


茉莉「え、興味なし?」


結華「あんたが私の分析をしようとするなんてね。嫌いじゃなかったのかなーって。」


茉莉「あー…まあ、話してて悪い人じゃないと思いたいなーくらいにはなったかも?」


結華「悪い人じゃない、ね。」


茉莉「うん。」


キャリーケースが凸凹にうねる

コンクリートの上を、

まるで回遊魚のように移動していた。

右に左にと僅かに逸れている。

車通りのあまりない

細道で助かった。


茉莉「だから、もしかしたらあのツイート…茉莉がずっと引っ掛かってる「悠里が事故に遭ってよかった」ってやつも理由があったんじゃないかなって思う。思えるようになった。」


結華「そう。」


茉莉「ほら、どこかの会話だかで言ってたじゃん。家庭のこと、少しだけ。」


確かあれば初日に

新幹線から降りた時のことだろうか。





°°°°°





結華『私が相手なら無理に話そうとしなくたっていいし変に気を遣わなくていいでしょ。』


茉莉「アピールポイント?」


結華『ある意味。だってそっちって私のこと嫌いじゃん?』


茉莉「…別に何とも。」


結華『イライラするんなら殴られたって今回は不問にしたっていいし。』


茉莉「利害どころか害しかなくない…?ってか、急なことだし心配性なら親御さんから許可降りないんじゃ…。」


結華『私はいいの。』


茉莉「うわ、すごい自分勝手だ。」


結華『自分勝手っていうか…何とも思われない感じ。悠里の方ができ良いし。』


茉莉「もしかしてそっちの家って複雑?」


結華『改めて聞くことでもないでしょうに。』



---



結華『全てがクリアな家庭なんて、そんなのほんのひと握りだっての。』





°°°°°





ほんの少しだけこぼした

その本音とも取れるものが

引っかかり続けていた。

悠里の方ができがいい、

だから家族からは

あまりいい対応を受けていなくて、

憎しみから、いっそのこと

事故にあってしまえばいいと

思ったのではないだろうか。

…そうだとしたら

なおのこと性格の悪さが

露呈するだけのツイートだけれど、

家族全体に問題があると考えれば

結華の言動もほんの少し

理解してあげられるような気がする。


霊園が近くなってゆく中、

スニーカーを履いた彼女は

わざとらしく小石を蹴飛ばした。


茉莉「だから…どうなのかなって。」


結華「遠回しに聞きたいって言ってるよね。」


茉莉「うん。」


結華「認めるんだ。」


茉莉「実際知りたいし。もし茉莉が誤解してるだけなら嫌だし。」


結華「ふうん。変わったね。」


茉莉「今だけかも。」


結華「大丈夫じゃない?この先も。」


冬の風が耳を冷やす。

そろそろこの寒さにも

慣れるかと思ったけれど、

たった3日程度じゃ

全く体は順応しなかった。

ふと鞄に入ったままのカイロが

あったっけと思い出す。

それすらも忘れるほど。


結華「悠里はね、いじめをしてたんだよ。加害者だったの。」


茉莉「…え。」


結華「好かれたい先輩には甘えるし、トランペットも上手かったからいじめをしてるなんて噂があってもあまり本人には響かなかったんだと思う。」


茉莉「…そう、だったんだ。」


結華「家でもそう、特別扱い。一応親は私にも気遣ってくれるそぶりは見せるけど、本心とは思えない。」


茉莉「…。」


結華「なのに事故に遭った。…なのに、というより、だからこそ、の方が個人的にしっくりくるけど。」


茉莉「記憶喪失…。」


結華「そう。いじめてた過去も上手かったトランペットの吹き方も全部忘れて今を生きてる。」


「やっぱり知らないのは罪ではある」と

もう一つ小石を蹴飛ばして言った。

近くの雑草に石が飛び込む。

そこで止まったのか、

石が再度顔を出すことはなかった。


結華「でも、何も知らない悠里が償う必要もないと思いたい。」


茉莉「でも悠里のやったことでしょ?」


結華「償うべきは記憶を失う前の悠里だよ。私、1番嫌い。」


茉莉「…。」


結華「…それももう果たせないけどね。」


茉莉「悠里のこと嫌い?」


結華「…今はそんなに。1番近くであの子を助けられるのは私だし、仕方ないと思うしかないよ。」


茉莉「仕方ない、かぁ。」


結華「因果応報だよ。昔の悠里にはざまあみろって言ってやりたい。お前の得意だったトランペットも全部奪ってやったって。」


茉莉「…本当にいいの?」


結華「何が。」


茉莉「強がってない?」


結華「そう見えた?」


茉莉「ちょっぴり。」


結華「やっぱり茉莉は気ぃ遣いだね。」


周りのことを見すぎている、と

釘を刺しているようにも見える

その鋭い眼光は

茉莉の目を射抜くように見つめた。

昨日も「茉莉はたらしだ」と言っていたし

きっとその時の意味合いと

似たようなものだろう。


彼女とは旅直前よりも

打ち解けてきたとは思っている。

しかし、内情を話しすぎないこと、

そして自分の感情や考えていることを

ありのままには外に出さないことが

どうにも壁を作られているように思えた。

彼女なりの、何を話さないかを

見極めているのだろう。

その割には平然とちくちく言葉を言うけれど、

結華自身、自分を守るための

ラインが存在しているのだ。


霊園に着くと、思っている以上に広く、

植物が丁寧にきちんと並んでいた。

植木や低木が枝は多くとも整列している。

受付と併設してお土産や花を

販売しているブースもあり、

特有の生花の香りが

あたりに立ち込めていた。


茉莉「すみません。」


「はい。」


茉莉「湯山佳織という人のお墓はこちらの霊園にありますか…?」


「すぐに調べますね。こちらの紙に、探したい方のお名前を漢字でご記入ください。」


そう言ってただの白無地の

正方形の付箋を手渡される。

名前を書いて手渡すと

パソコンをかたかたと打っていた。

少しして

「…いらっしゃらないみたいですね」と

申し訳なさそうに言われた。

どうやらここではないらしく、

別の場所にかと息を吐きそうになったその時。


「こちらの方はご結婚されていましたか。」


茉莉「え?あ、はい。」


「そうしましたら…もしかしたら旧姓でこちらにご登録されているかもしれませんね。」


茉莉「…!」


確かに、2007年より前に

結婚しているとなると

そもそも夫婦別姓で

婚姻届を出すことは

できなかったんじゃないだろうか。

ともなれば、

湯山は父方の苗字ということになる。


しかし、旧姓なんて

どこに行くにも聞かなかった。

湯山佳織という名前だけが

頼りだったもので、

それ以外のことが抜け落ちていた。

もう1度市役所に向かって

聞いてこなければいけないかもしれないと

脳裏をよぎったが、

その時隣から冷静な声が耳を掠めた。


結華「……古山。古山佳織で調べていただけませんか。古着の古にあの自然の山です。」


「わかりました。」


何故、と思っているとすぐに

「いらっしゃいますね」と職員は言う。

近くにあったマップの

リーフレットを取り出して

その墓跡がある地点を指す。


「この番号の地点にあります。こちらもお持ちいただいて構いません。」


そう言って印をつけたマップをもらう。

どうして結華が

お母さんの旧姓を知っているのだろうか。

もしかして、茉莉は何かを

見落としていたのだろうか。

それとも、結華が何かを

隠しているのだろうか。


併設されていた店で

お線香とマッチと花を購入する。

旅に出てすぐはこんなことになるとは

全く思っていなかった。

結華のことは嫌いで、

お母さんとは会えると思っていた。

そして今や結華に

ほんの少しだけ疑念を抱いている。


店を出てマップに記された番地に向かう中、

からからと彼女のキャリーケースの音が

コンクリートによく響く。


茉莉「ねえ。」


結華「はーい、何。」


茉莉「…あのさ、なんでお母さんの旧姓がわかったの。」


結華「え?」


茉莉「…え?」


結華が驚いた顔でこちらを見やる。

足を止めて茉莉の方へと振り向くものだから

慌てて茉莉も足を止めた。

微かな風だったはずが、

一瞬強風がびゅう、と吹く。

体が持ってかれるかと思うほどで、

足が勝手に動き出しそうになった。

不意にこの感覚、

どこかで感じたことがあると思ったけれど、

思い出せず些細なことだしと

脳の隅に追いやる。


結華「まさかとは思ってたけど…気づいてなかったの?」


茉莉「え、え?何に?」


結華「茉莉が時々持ってたちょっと汚れたクリアファイルあったでしょ、あれ出して見て。」


彼女に言われたとおり、

鞄からそれを取り出す。

やはり年数が経ていることもあり

汚れが目立った。

お母さんが乳児院に預ける際に残した

茉莉の文字が描かれた紙。

そこに書いてあったのだろうかと

目を凝らして見てみるも何もない。


すると、結華は呆れたように

ひとつ大きく息を吐いた。

そしてクリアファイルを手に取って

そのまま裏返しては

また茉莉の手元へと返す。


結華「ここ見て、ほら。」


そこには、罫線に薄く

縦線が何本か引かれていた。

よくよく目を凝らしてみれば、

罫線も利用して漢字を

書いているように見える。

それがどうにも

「古山」と浮かび上がってくるのだ。


はっとして思わず顔を上げて

結華の方を見やる。

彼女はなんてことないように

得意がることもなく

そっけない顔をしていた。


茉莉「よく気づいたね。」


結華「育ての親御さんからそれをもらって戻ってきたじゃん、裏面がしっかり見えてたからその時だね。」


茉莉「はえー、目いいね。」


結華「観察力があるねとかじゃないんだ。」


茉莉「くはは、確かに。」


結華「気づいてるのかと思ってた。」


茉莉「ううん、全く。」


「よかった」とひと言漏らす。

もし結華が気づいていなければ、

お母さんがここにいると気づかず

灯台下暗し状態のまま

彷徨っていたことだろう。


茉莉「でも、まぐれでできた傷…とかじゃないのかな。」


結華「あり得なくはないけど…でも死ぬかもしれないとか言ってたし、最大限隠そうとしてこれだったのかなとは思ってる。」


茉莉「もし全く違う人だったら面白いね。」


結華「それはもう私のせいにしてもらって。」


茉莉「いやいや、しないよ。流石にここまで助けてもらって恩知らずなことしないって。」


結華「フリ?」


茉莉「ちーがーうー。」


結華「それに助けた覚えもないしね。」


茉莉「茉莉視点、だいぶ助かってるよ。」


結華「そうなんだ。」


と興味なさそうに

髪の毛をひと束くるんと指に巻いた。

照れ隠しだろうか。

1歩、また1歩と踏み出す。

花が揺れる。

茉莉が歩くと同時に

手元の花がゆらり、と。

それと同時に、風が止んでいることに気づく。

さきほどの強風で

力を出し切ってしまったんだろうか。

それとも。


あたりに人1人見えない中、

不意に結華が足を止めた。

彼女の荷物もぴたと

動くのをやめる。

手元の花をじっと見ていたもので

慌てて足で地面を押す。

あと1歩遅ければ

彼女にぶつかっていただろう。


結華「…。」


茉莉「…どうしたの、急…」


急に。

何かあったの。


そう聞こうとした時、

彼女の視線の先に

誰か、女性がいることに気づいた。

長い焦茶色の髪は

丁寧にお手入れされているようで

冬の日差しも相まって

一層艶やかに見える。

足元からは小さな花柄が拵えられた

白いワンピースを身につけており、

上に行くにつれて花は疎となっていた。

冬だからだろう、

厚手な茶色のカーディガンを羽織っているが、

それでも見ている分には

寒そうでならなかった。


その女性は誰かの墓石の前で

じっと立って眺めている。

お墓参りのように

手を合わせるでも

掃除するでも、お線香をあげるでもなく。

ただ、静かに立ちすくんでいた。

端麗な横顔だった。

その墓石の近くは雑草が生い茂り、

長年手が加えられていないことが見て取れる。

小さな花や低木すらも

元気に成長しきり、

お墓までの自分の敷地内の短い距離が

埋め尽くされている。

大股で乗り越えたのか、

墓石の真ん前に彼女はいた。


そこだけはまるで時間が

止まっているようだった。

異様に、非常に淡いと思った。

触れただけで消えてしまいそうなほど、

淡雪のような錯覚に囚われる。


ふと彼女は茉莉たちに気づいたのか

ちらとこちらを見て、

そしてはっとしたように

目を大きく見開いては

茉莉の方を見た。

特徴的な穏やかそうな目つき、

後ろ髪と同じ長さの前髪、その雰囲気。


茉莉「…っ!」


どうして、と思った。

声に出していいか分からず、

ぐっと息を呑んでしまう。

彼女もどうしたらいいか分からないようで、

けれど目を逸らすこともできないようで

その大きな瞳を揺らしながら

こちらを見続けていた。


「…茉莉?」


茉莉「…っ!?」


「茉莉…なの?」


心をくすぐる、可愛らしく優しい声だった。

ころころとしていて、

手のひらで掬えそうなほど。

ふわり、とワンピースが空気を含む。

はらりと舞う髪が

美しく弧を描いて靡く。

彼女がこちらへと静かに向いた。

ぴり、と脳が震える錯覚すら覚える。

重いはずの頭を小さく、

小さく縦に振る。

そして。


茉莉「……お、かあ…さん…?」


掠れてしまい、加えて喉の奥が

詰まったような微かな声が漏れた。


そう。

正面から見て確信した。

確信したにも関わらず、

疑問系で問うことしか頭になかった。

穏やかそうな印象を与える

緩やかに垂れた目尻が

更に細まっていく。

安堵にも似た表情が向けられる。


どこかで数回見た公的書類の中

…お母さんの顔写真と一致していた。

が、その写真の時から

全くと言っていいほど変わっておらず、

若々しいままの姿でそこにいる。

歳をとっていたとしても

20代であることは間違いないだろう。


前にいた結華は

不安げに振り返っては

茉莉の隣へと下がって

小さく袖を引いた。

それでも、足が棒のように固定されてしまい

動かすことは叶わなかった。


言葉を交わしたい。

けれど、何を言えばいいのか

唐突なことで全て忘れてしまった。

きゅ、ともう1度袖をひかれる。

それでも気に留めることすらできない。


お母さんは静かに目を閉じた。

そして、ひと呼吸置いてから

ゆっくりと瞼を開く。

濡れた黒い石のように潤った瞳だった。


「……大きくなったね。」


慈愛に満ちた声だった。

お母さんは茉莉のことを

覚えていてくれたのだ。

少し考えれば、

生まれて数日間しか見ていない赤子の

成長した姿を見て

茉莉だなんてわかるはずもない、

何かがおかしい、とわかるはず。

しかし、それを考えている脳の容量はない。

目の前にお母さんがいる。

それだけで胸がいっぱいになった。


茉莉「………うん…。」


「隣はお友達?」


茉莉「…そ、う。」


「仲良くしてるんだね。」


茉莉「……うん。」


「もう私の身長超えちゃったんじゃない?…今何歳になったの。」


茉莉「16だよ、高校…1年生に、なっ……っ。」


「…そうだったんだね。最近何が流行ってるのかな…。」


茉莉「…さ、ぁ…茉莉も疎いよ。」


「じゃあ、茉莉は最近何してるのが好き?」


茉莉「うーん…でも、ゲームとか……動画、見たり…とか、しかしてないかも。」


「ふふ、お母さんもそんな感じだったよ。」


ぐず、と鼻を啜る音が

やけに明瞭に聞こえた。

どちらが発した音なのか

まるで区別がつかなかった。


お母さんは、まるで2、3年ぶりに会う

親戚の人のように、

話しやすいよう質問してくれた。

このくらいの質問なんて

児童養護施設にお邪魔したときもしたし、

久美子さんたちの…国方の家に

お世話になると決まったときも聞かれた。

同じ質問だ。

全く変わらない、何歳だの趣味だの、

社交辞令でもよくある質問だ。

それなのに、こんなにも

心が細い細い糸で

締め付けられるような気持ちになる。


茉莉「お母さんは、何が好きだった?」


「ジャスミン茶が昔から好きでね、よく飲んでたの。お仕事中とジャスミンハイにして。花も小さくて可愛くって。」


茉莉「うん。」


「それでね、これはたまたまなんだけど、茉莉を産んだ日はジャスミンが誕生花だったんだよ。」


茉莉「…!」


「ジャスミンの和名、知ってる?」


茉莉「…わかっちゃった。」


「うん、聡い。」


さすが我が子と言わんばかりの

満面の笑みを浮かべていた。


「大好きがこの先もずっと続きますようにって。それと、漢字は違っちゃうけど、あなたの周りはいつも賑やかで、ちゃんと幸せでありますようにって願いを込めた。」


目の前のお母さんが

本当のお母さんであることを、

今も生きていることを願いたくなった。

そうだ。

市役所の言っていたことは

実は全部嘘で、

たまたまDNAが全く一緒な人が居ただけで、

もしかしたら本当はまだー。


震える唇は冬を食んだ。


茉莉「お母さんは…死んじゃった、の?」


「……。」


首をこくり、と

うたた寝をするように迷いなく振った。

「そうみたい」と惜しげもない

涼しげな声がした。


「でも、茉莉が生きててよかった。」


茉莉「…。」


「あなたに会いたかった。」


茉莉「……っ。」


茉莉も。

ずっと会ってみたかった。

会いたいって思ってた。

探したんだよ。

神奈川から来て、

この3、4日間かけて

お母さんの影だけ追ってたんだよ。

会いたかったよ。

会いたかった。


沢山のことを言いたかったのに、

言おうと考えてシュミレーションをした夜は

いくつも連なっているのに、

唇を噛み締めて

震える喉を押さえつけることしかできない。

長い間、16年間待ち続けていた瞬間だった。

嬉しくて、それが込み上げてきて

この有り余る幸福に狼狽えた。

こんなに幸せなことがあっていいのか。

幸せを享受してよかったろうか。

感情に一致する表情がわからず、

まるで悔しがる子供のように

くしゃくしゃにした顔を俯ける。

目頭から鼻筋を通り、

コンクリートに冬の花火が小さく咲いた。


「おいで。」


茉莉「…!」


両手をこちらに伸ばす。

カーディガンが片方肩から落ちかかる。

それすら気にせず、

しかし、墓石前の草木を

超えてくることはなかった。

結華も袖を引くことをやめ、

静かに見守っている。


今走れば、

お母さんの元に飛び込むことができるだろう。

甘えられるのだ。

唯一全てを許せる人に。


確かに渡邊さんが言ったように、

茉莉には育ての親がいる。

茉莉のことを気にかけてくれるし、

今だってこうして

本当のお母さんの元へと

旅に行かせてくれている。

幸せだろう。

けれど、育ての親のことを、

久美子さんと徹也さんのことを

お母さん、お父さんと呼べなかった。

甘えようとしても

心の中で引っかかってしまい、

ひんやりとした壁が壊れることはなかった。

その壁の中にいる唯一の人が

お母さんだったのだ。


これまで、特段辛いことが

あったわけじゃないけど、

ちょっとした棘を踏みつけた

足の裏が痛むだけのことを、

ちょっと大袈裟に、

子供が余計に痛がるように甘えたかった。

細い腕、白い肌。

抱きしめられたら幸せだろう。

間違いない。

死んでもいいとすら思えるだろう。


1歩。

踏み出したかった。

踏み出して、お母さんの元にー。


…。

…。

そう、したかった。

お母さんが死んでいなければ。


さっきお母さん本人が言ったのだ。

死んじゃったみたい、と。

それに、こうとも言っていた。

生きていてよかった、と。


茉莉は、まだそちら側にはいけない。

まだ生きてみたい。

少しだけ先の未来を見てみたい。

お母さんが生きれなかった分も

生きるなんて

そんな恩着せがましいこと言わない。

言うわけない。


ただ、茉莉がもう少しだけ

自分の足で立っていたいのだ。

久美子さんと徹也さんにお礼を言ったり、

結華にだってこの旅に

ついてきてくれてありがとうと伝えたり、

羽澄とも今度

一緒に施設に遊びに行こうと約束した。

お母さんがしてくれたように、

茉莉も身近な…

狭い範囲になるかもしれないけれど、

大切なものを守っていたい。

守ってくれる人がいるのだから、

それをちゃんとお返ししたい。


動かそうと踵を浮かせた靴を、

勇気を振り絞ってそのまま地面につける。

素足で地面に立っているかのよう。

軸から冷えていくのがわかる。


茉莉「……行かない。」


行けないのではない。

行かない。

そう選んだ。

どっちでもいいじゃない。

ちゃんと、選んだ。

もう茉莉は子供じゃないよと、

守られるばかりの、

お母さんの知ってる茉莉じゃないよと、

安心していいよ、と

不器用に口角を上げる。


お母さんは少しばかり眉を下げ、

悲しそうに…否、安心したように笑った。


「…わかった。」


そう言って、背を向けようと

1歩後退ったのがわかった。

待って、まだ、と

反射的に声を上げた。


茉莉「お母さんっ!」


「…。」


茉莉「………産、んでくれてありがとう……っ。」


まだ、ありがとうって言えていなかった。

絞り出した声は

信じられないくらい震えていて

思わず笑いそうになる。

お母さんにも伝わったのだろうか。


記憶のある中。

最初で最後に出会えてたお母さんは

陽だまりのような笑顔を浮かべていた。


刹那、この近辺にあるもの

全てをもぎ取ろうとするような

とんでもない強さの風が吹き荒れた。

それこそ、墓石前に来る前にも

風は吹いていたけれど、

それとは比にならないほどで、

耐えきれず足を1歩踏み出す。

からからとキャリーケースが

勝手に動いたような音すらした。

目を開けてられず、

目の前を腕で覆う。

その微かな隙間、

お母さんは最後まで微笑んでいるように見えた。


茉莉「お母さんっ!」


手を伸ばした瞬間、

お話の中のような強風はやみ、

そこには先ほどまでと同様

ただの霊園がそこにはあった。

ひとつ違うのは

もうお母さんの姿はないと言うこと。

あの艶やかな髪も、

優しい目も、安心する声も何もないのだ。


茉莉「………っ…。」


なんだか、力が抜けた。

力が抜けて、

本当にもういないんだ、と

ようやく実感が湧いた。

1人になったのかもしれないなんて

また言いようのない不安感が押し寄せる。

自然と涙が溢れていた。

それを隠すように、

その場でしゃがみ込む。


結華「……茉莉。」


肩にその手が触れる。

そして、手つき優しく

そのまま肩を抱いてくれた。

顔を見られたくなかった。

きっと酷い顔をしているから。


結華「…。」


茉莉「……ぅ…っ……………ひぐっ…っ。」


結華「…。」


思い切り声を上げて泣きたかった。

でも、甘え方がわからない。

結華は何も言わずに

そっと力を込めて抱きしめてくれた。


静かに、静かに

冬のような涙を流し続けた。





***





その後、遠くに人の姿が見え、

茉莉も落ち着いてきたので

お墓参りをした。

全てを掃除することはできなかったが、

せめてもと思い、墓石の周りだけ綺麗にする。

そこに、明らかに自然にそこに

生えていたわけではないであろう花が

ひとつぽつんと置かれていた。

茎につながっているわけではないが、

一房と言えばいいか、

ひとつの枝に枝分かれして

数多の紫色の花弁をつけていた。

小さな粒がふたつ付いていて、

孔雀が羽を広げたときのような花だった。

結華が「プレゼントかもね」と言うものだから

「茉莉」と書かれたメモの入っている

クリアファイルにそっとしまう。


「また来るね」「今度はただいまって言うね」と

気ままに心の中で話しかけながら

お線香に火をつけたり

手を合わせたりした。

ふふ、と春風のように笑う

お母さんの声が聞こえた気がする。


お墓参りを終えると、

何を話すわけでもなく白銀駅、

そして八戸駅から新幹線に乗り東京へ、

乗り換えて横浜へと帰路を辿った。

その間必要最低限の

チケットを渡す等にしか

言葉を交わした記憶がない。

最も気を遣わなかった場面だったと思う。

気の疲れからか、

新幹線に乗り込むや否や

エンジンの微細な振動で眠りについた。

気がついたら

3時間まるまる眠っていたようで、

眠たい目を擦って終点で降りる。


久美子さんから

できるようであれば結華を送るようにと

連絡が入っていたもので、

その旨を伝えると

「いいのに」とそっけなく返事をされた。

それでも「わかった」と

結局受け入れてくれたのは、

彼女なりの優しさだろう。


東京も横浜も人が多かった。

乗り換えの時、一瞬目を離せば

結華の姿を見失うのではと思うほど。

けれど、それも彼女の家が

近くなるにつれてなくなっていく。

それでも、近くに塾があったり

理髪店があったりと

あの北で見た景色とそう大差ない。

青森は遠い場所だと思っていたけれど、

案外近いのかもしれない。

白を基調とした綺麗な一軒家の前まで着くと

結華はようやく息を深く吐いた。


結華「送ってくれてありがと。」


茉莉「んーん、こちらこそ。長い間ありがとね。」


結華「明日、学校行くの?」


茉莉「できれば。でもちょっと疲れすぎたなぁ。」


結華「しっかり休んで。」


茉莉「結華もね。」


結華「うん。じゃあ、ばいばい。」


茉莉「ばいばい。」


お疲れ様、でも

また明日、でもなかった。

学校の違う茉莉たちは

会おうとしなければ

なかなか会うことは難しい。


ばいばい。

口の中でころころと

その言葉を咀嚼する。

そして、1人で更に帰路を辿る。


白銀駅から約5時間かけて

ようやく家にまで辿り着いた時には

座ったり歩いたりする時間が

長かったもので、

へとへとになって玄関に寝そべった。

兄ちゃんは笑って「おかえりー」と言っていた。


そうか。

帰ってきたんだ。

ふしだらだけれど、

玄関でごろんと仰向けになる。

兄ちゃんが覗き込むようにして

愉快そうに笑いながらこちらを見ていた。


茉莉「……ただいまぁー。」


気の抜けた声が出る。

その言葉を口にして

本当にこの旅は終わったのだと

心の中ですとんと落ちた。

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