わがまま
前日に乳児院には
移動すると夜もいい時間に
なりつつあったが
連絡を入れたところ、
茉莉たちが向かうことを
快く了承してくれた。
しかし、仕事があるので
そこまで長いこと話すことは
できないだろうと
落ち着いた女性の声が伝った。
朝チェックアウトする頃でも
まだほのかに雪が降り注いでいる。
この星に降り立つ雪の粒は
軍隊をなそうとしているのか
少しずつ集団で固まり出していた。
結華「流石に寒すぎる。」
茉莉「鼻がぐずぐずなんだけど。」
結華「それな。」
外は寒いが、同時に電車に乗り込んだ時の
暖かさを感じる度合いは桁違い。
関東で過ごすよりも
幾分もぽかぽかとした幸せを感じる。
スマホを開くと、
いくつかの連絡が入っていた。
久美子さんや羽澄からで、目を通すと
今日も寒いから気をつけて、だったり、
今度羽澄も一緒に行きたいです、と
了承の言葉であったり様々だった。
が、そのどれもに返信する気がなく
そっと画面を暗くする。
真っ黒な四角に映る自分の顔が
何だか生気を失っているように見えた。
電車で移動する間に
ぱらぱらと粉のような雪は
降るのをやめていた。
代わりに、雲の隙間から
微かながら日差しが差し込む。
足元は白くならず、
コンクリートがてらてらと光っていた。
青森駅まで向かい、
乗り換えてひと駅だけ移動する。
最寄駅から乳児院までは
バスも通っているらしい。
歩けば20分ほどだったので
歩きたい気持ちもあったが、
持って来ていた荷物が多いが故に
バスに揺られることを渋々選ぶ。
少し乱暴な揺れに耐えていると、
縦になった信号や
やたらと傾斜のある屋根が目に入る。
本当に神奈川とは違うんだと
何度目だろう、そう脳内で呟く。
外を見ている間、相変わらず結華は
興味なさそうに本を読んでいるか
スマホをいじっていた。
しばらく眺めていると
いつの間にか次の駅のようで
慌ててボタンを押す。
降り立った途端、
冬が押し寄せてきては
マフラーに顔を埋める。
この土地の冬は長い。
一層春が待ち遠しいことだろうと
何度思ったことか、
しかしここに長年住んでいる人は
もう既に慣れてしまっているのか、
何の気無しにすたすたと
足早に歩いていった。
茉莉「こっちの方で合ってるっけ。」
結華「うん。そこ真っ直ぐ。」
2日ほど前まで
嫌いあっていた仲とは思えないほど
普通に会話をしていることに
たった今気づく。
彼女も彼女で何も思っていないのか、
茉莉がじっと見ていると
不機嫌そうに首を傾げるだけ。
おまけにちくちく言葉も
飛んでくるかと思ったけれど、
ため息ひとつでそれを飲み込んだらしい、
足を1歩踏み出していた。
乳児院に入ると、
受付にいた若い女性が対応してくれた。
昨日電話したことを伝えると
「国方さんですね」と確認されたのち、
施設の時と似たように
別の部屋に通された。
この部屋から赤ちゃんが
いるような場所は見えず、
ただ白い壁と棚が目に入る。
相談する場所のようで、
机と椅子が3セット、
衝立を挟むようにして見当たる。
その隅の席に腰掛けるように言われ、
2人で並んで静かに待った。
しばらくすると、
白髪がいくらか混じり、
頬が少しこけた男性が入って来て
「お待たせしました」と
低く芯のある声で言った。
鏑木「鏑木と申します、よろしくお願いします。」
茉莉「よろしくお願いします。」
鏑木「お電話いただいた国方茉莉さん…でお間違いないですね。」
茉莉「はい。」
鏑木「お隣は…?」
結華「国方さんの友人の槙結華です。」
鏑木「そうでしたか。同席するという形でよろしいですかね。」
結華「はい。差し支えなければ、ぜひ。」
鏑木「承知いたしました。失礼します。」
そう言って席に座り、
姿勢を正すと、
鏑木さんは目元を細めて
「全然緊張しなくて大丈夫ですから」と
優しそうな声色で言う。
鏑木「えー、本日はどのような要件でしょうか。」
茉莉「生みの親を探しているんですが、その中で昔、自分がここの乳児院にいたと聞いて来ました。なので、何かしらお母さんの事を知っていたらと思いまして。」
鏑木「なるほど…お母様のお名前等お聞きしてもいいでしょうか。」
茉莉「湯山佳織っていうらしくて。…あ、このファイル、こちらの乳児院から移った先の施設からいただいたものなんですけど…。」
鏑木「拝見してもよろしいですか?」
茉莉「はい、もちろん。」
そう言って受け取ると
ファイルを丁重に開いた。
時折「ふむ」と声を漏らしては
顎を撫でていた。
鏑木「なるほど…少しこちらも記録がないか確認して来てもよろしいですか。」
茉莉「はい。お願いします。」
鏑木「少々時間がかかるかもしれません。」
茉莉「大丈夫です。」
鏑木「ありがとうございます。」
鏑木さんが席を外すと、
それはそれは遅く時間が
過ぎるような気がした。
結華「思ったんだけど、正味ここによる必要ってあったの?」
茉莉「え?あー、まあ確かに住所とかはあるしね。」
結華「それに情報源はここなんでしょ?同じものしか出てこないんじゃない。」
茉莉「うーん、それもそうかもだけど…なんだろ、自分の通って来た道を歩いてみたかった的な。」
結華「なるほど。」
茉莉「なるほどってなるんだ。」
結華「言っただけ。」
茉莉「えー…。」
結華「引っ越した先の住所を知ってるとも思えないんだよね。電話番号も生きてない。」
茉莉「何か知ってたらいいね。」
結華「他人事みたいに言ってるけど、それ私のセリフじゃない?」
茉莉「確かに。」
結華「なにそれ。」
面白い、と続けることなく、
そして微笑むことすらなく
その会話は途切れた。
しばらくして鏑木さんは
書類をバインダーに挟んで戻って来た。
他にもクリアファイルや
ペンなど様々なものを抱えている。
鏑木「お待たせしてしまいすみません。」
茉莉「いえ、全然。」
鏑木「国方茉莉さん…旧姓、湯山茉莉さんであることが照合できましたので、当時の状況がわかるであろうものを今できる分調べてみました。」
茉莉「ありがとうございます。」
今思えば、茉莉が本当に
お母さんの子供なのかというのは
乳児院の職員からしてみればわからない。
そのあたり、施設やその先やら
色々なところに連絡をとって
確認したのだろう。
全く知らない人が茉莉を装って
湯山佳織を探していますと言って
ほいほいと教えるわけにもいかない。
鏑木「乳児院では、2007年10月下旬にお母様…湯山佳織さんの手から茉莉さんを預ったと記録されています。」
茉莉「…じゃあ、本当に生まれてすぐだったんですね。」
鏑木「そうだと思います。」
結華「すみません。そうだと思うって…確証はないということですか。」
鏑木「記録によりますと、生まれて間もないことは確かなのですが、正確な生年月日は不明であり、推測の元記載したと書かれてありました。」
茉莉「…生年月日が不明?」
鏑木「はい。ですので、現在茉莉さんの認識している誕生日は推定されたものかも思われます。」
茉莉「そうでしたか。」
結華「10月何日?」
茉莉「21日。でも今の話じゃ21日じゃないかもしれないってことですよね。」
鏑木「はい。当時、湯山さんから長いこと1人でどうにかしようとしたけど金銭面的に厳しく、預けられたそうです。湯山さんはあなたを預けた後すぐにこちらを出て行かれたようでして…そして赤子だったあなたは衰弱していたので、湯山さんの意向もありすぐにこちらで…ですかね。」
説明するのが難しいのか、
最後は口すぼみになりながら言った。
そしてファイルから紙を取り出し、
こちらへと丁重に見せてくれる。
鏑木「これはうちの職員が残した記録です。変化の多い環境ですので、赤子含め様々なことを記録しているのですが、こちらはその一部です。」
茉莉「…会話文…?」
鏑木「ええ。報告書をまとめる際このように叙述式にはしないよう善処してもらっているのですが、担当したのが新人の職員だったのかもしれません。」
他の情報の多くは
黒く塗りつぶされているけれど、
その例の報告書の部分は
綺麗に残っている。
仕事が忙しい中まとめたのか
走り書いた文字が踊っている。
その16年も前の文字を
目で静かに追った。
何故だか、文面にないはずの
その当時の光景まで想像できる、
自然とそこにいるかのように
見えているとすら思った。
°°°°°
佳織「すみません、お願いがあるんです。この子を引き取ってください。何とかしようとしたけど駄目で。お願いします。」
「…!お話を聞かせていただいてもいいですか。その間赤ちゃんは安全なところで。」
佳織「ありがとうございます。」
---
「別の機関にご相談とかは。」
佳織「していません、できなくて。お風呂場で産んだんです。あの子を守りたかったけれど、このままじゃ死んじゃう。」
「大変なところすみません。連絡先やご住所をお聞きしてもいいですか。」
佳織「はい。…でも、これを書いたらすぐ出ます。」
「ありがとうございます…。あなたが最悪な選択をしなくてよかった。」
佳織「けれどこうして預けてしまって…母親失格ですよ。私夜職してて。それでちょっとヘマしちゃって莫大な借金ができちゃった。このままだと死ぬかもしれなくて。でもお腹にいたこの子だけは安全な場所にって思って。これ、名前なんです。持っててください。あの子の名前。」
きっとあのぼろぼろになったファイルと
草臥れたメモ帳の切れ端を、
茉莉と書いたあの紙を渡したのだろう。
佳織「この子だけは絶対幸せにしたいから。だから、私にできる精一杯。もしかしたら数日後、私、いないかも。でも、私や茉莉のこと聞いてくる人がいたら知らないって返事して。お願い。守りたいの。裏の人だし対応は怖いかも、でもお願い。」
「茉莉ちゃんのお父様は…お相手様は分かりますか。」
佳織「ええ、わかる。分かります。夫がいるんです。でもDVをするんです、信用以前の問題で。だから茉莉を預けて、家からも逃げて、そのあとは何とかします。」
「大変なところ…恐縮ですが、もしよければあなたを救えるような…こう言った機関に相談してみてもいいかもしれません。」
佳織「ありがとう、ありがとうございます。私の手だとあの子を不幸にしちゃうから。判断力が残ってるうちに来てよかった。結構しんどかったんです。今後のあの子のことを蔑ろにして自分だけ楽になろうなんてとんだ非道ですよね。でも、やっぱり安全なところですくすく笑顔で育ってほしいし、私みたいになってほしくないから。」
文章は当時、この会話があった後に
思い出して書かれたものであるはずだから
多少は異なっているに違いない。
それでも、焦っているのが伝わり、
それと同時に。
佳織「いつか顔、見たいな。生きて。」
痛いほど茉莉のことを
思ってくれていた。
°°°°°
ところどころ「雪の中」「浅い呼吸」など
状況がよりありありと
思い浮かべられるような言葉が並んでいる。
それだけで全てを
見ることができたわけではないが、
母親の断片が眠っていることに間違いない。
切羽詰まった状況で取り繕って
これだけ他人を思うことを
口にできるなんて思えない。
この紙面にある全てが
お母さんの本音だろう。
そこに死にたくないと
漏らさなかった母親の姿。
頼れる人などとうにいなくなった。
生きる中で選択肢を間違えたと言わんばかり。
どうしようもないほど
救いなどないと悟ったのか、
そこに涙したとも書かれていないことに
少しの寂しさを覚える。
結華「…。」
茉莉「…なるほど。」
鏑木「わたくしにできるのはこのくらいしかなく…。」
茉莉「知れて良かったです。ありがとうございます。」
冬のせいだと思いたい。
随分と乾いた声が通った。
それから程なくして乳児院を出た。
鏑木さんはお見送りをしてくれて、
忙しいはずなのに
時間をとってくれたことに
より一層感謝しなきゃなと
抱えていた鞄の肩紐をきゅっと握る。
2人きりになってしばらく歩く。
車通りが増える道まで
まだ少しあった。
結華「…荷物、重くない?」
茉莉「え?大丈夫だけど。」
結華「じゃあ、少し歩いてこう。駅までだらだら。」
茉莉「いーね。そうしたい。」
施設のあった周囲には
すぐ近くに田んぼがあったり
平たい家があったりしたけれど、
青森駅の近くともなれば
背の高い建物や
住宅地が密集しており、
外を歩けば車や人が通っている。
それでも長閑だと感じるのは
人の多すぎる関東での
忙しない生活に慣れてしまったからだろう。
茉莉「…そっかー。」
結華「…。」
茉莉「お母さん、捨てたくて捨てたわけじゃなかったんだ。」
結華「…そうっぽいね。」
茉莉「なんだ。」
結華「本当に会いにいくの?」
茉莉「うん。」
結華「聞きたいことはもうあんまりないんじゃないの。」
茉莉「そうかもだけど…新しく言いたいことができた。」
結華は首を傾げ、
そして諦めたように
ゆっくり瞬きをした。
茉莉「…今度は、お礼言いに行かなきゃ。」
結華「言うと思った。律儀な。」
茉莉「でも、ただ言いに行きたいんじゃなくて、会いに行きたいのは本当なんだ。…言葉にするのが難しいけど、ここまで来たんだし終わりたくない。」
結華「…わかった。いいよ、最後までついてくよ。」
茉莉「頼もしいね。」
結華「思ってないでしょ。」
茉莉「思ってるよ。1人だったら多分このあたりでやめてたっておかしくないし。」
結華「今感傷に浸ってるからって適当言い過ぎ。」
心が温かくなりすぎているからか
それを言葉にしているつもりだったが、
結華は鬱陶しそうに
あっち行けというように手を振った。
茉莉「まあ…感傷はそうかも。」
結華「でしょ。それにしてもあんたって泣かないよね。」
茉莉「そうだね、あんまり。でもさっきはちょっと危なかった。」
結華「嘘ぉ。」
茉莉「嘘ってことにしとこ。」
結華「つまんな。」
茉莉「残念でした。」
結華「次どこ行くの。」
茉莉「一応…住所かなあ。」
結華「もういなくても?」
茉莉「駄目もとで。」
結華「八戸市だっけ。新幹線と在来線両方あるけど、時間は30分しか変わらないみたい。金銭面も気になるし在来線もありだと思う。」
茉莉「んだ。そうする。」
道中で昼食を済ませ、
13時ほどに八戸市の方面に向かった。
見慣れない八戸線に乗り、
白銀駅で降車する。
記された住所までの道には
塾があったり理髪店があったりと
神奈川県と変わらない風景がそこにある。
けれど、その節々に長閑さや豊かさを感じる。
伸びやかな雑草や
冬のせいで何も纏っていないが
木々が生えているのを見て、
そう思ったのかもしれない。
視覚的には寒いはずなのに、
ここらが夏に包まれた時
暖かな空間に包まれるのだろう。
しばらく歩くと、
ようやくその土地が見えてきた。
もしかしたら施設の人が尋ねた時は
たまたまお母さんが
不在だっただけかもしれない。
そう思っていた。
そう思いたかった。
が。
茉莉「…本当にここであってる?」
結華「合ってる。住所を打ち間違ってないか何回も確認したから。」
茉莉「…そっか。」
そこには整骨院と看板の建てられた
清潔感の漂う綺麗な建物に変わっていた。
刹那、本当にこの住所には
いなくなったのだと
信じざるを得なくなる。
施設の人が尋ねた時から
既に建元が取り壊されていたが真偽は不明だ。
当時はまだ残っていたのかもしれない。
が、現在はない。
揺るぎない現実に
小さながらも抱いていた光る希望が
砕かれたような気持ちになる。
結華「…完全に行き詰まったかな。」
茉莉「整骨院の人に聞いてみるとか。」
結華「前の住所に部屋番号あるあたり、一軒家じゃないから難しいでしょ。それにここで働いている方々はあんたの母親と面識はない。ある確率なんてほぼないし、合ったとしても天文学的確率。」
ふー、とマフラーの隙間から
白い煙がひとつ上がる。
ため息が可視化できてしまうと、
見えるその時に何故か
さらに気持ちが沈むような気がした。
建物の側面に体と荷物を寄せ、
どうにかできないかと頭を捻る。
確認のためお母さんの電話番号に
かけてみるけれどもちろん出ない。
ほんの少しして、結華の
「人探しに長けてる都合のいい人いないの」
という言葉をきっかけに、
はっとしてスマホを開いた。
先日、Twitterでも
探偵等に頼るのはどうかと言われていた。
そして更に前。
°°°°°
彼方「こいつ、追加しといて。」
茉莉「え、誰。ってか何急に。」
彼方「元カレの元カノ。探偵の家の娘らしいんだけど死ぬほど馬鹿なんだって。馬鹿すぎて別れたって聞いたし。」
茉莉「え?」
彼方「でも人探しの方法とか手順ならこいつ自身が知らなくても親から聞けるだろうし。」
°°°°°
渡邊さんから教えてもらった
見知らぬ人のLINEアカウント。
茉莉「これだ。…ってか運良すぎて怖くなってくる…。」
結華「何が。」
茉莉「数日前に知り合いから「これ、探偵の娘のアカウント」っていって連絡先もらってた。」
結華「仕組まれたんじゃないかって疑いたくなる。」
茉莉「ね。それくらいタイミングが良すぎた。」
結局渡邊さんからこの「ナナ」と書かれた
名前の人に連絡はしていないだろう。
自分の名前と、あと大変気まずいが
連絡先をもらった経緯を説明し、
そして人を探しているのだけど
どうしたらいいかと問う文章を
怖気付きながらも送信する。
すると、信じられない速度で既読がつき、
「探偵にお任せあれ!」と
快活そうな文字列で返事が来た。
ナナ『わたしが何でも解決しちゃうよ!任せて!』
茉莉『お手数おかけしますがお願いします。』
ナナ『人探し!何か写真とかあるの?』
茉莉『写真はなく、記載されていた住所も既に建て替わっており現住所は不明です。電話番号もつながりません。探し人の生年月日、名前はわかっています。』
ナナ『え、それじゃあ受理難しそう?わかんない!』
あー、とそれとなく
何を言うわけでもない声が出た。
渡邊さんの口から
元カレの元カノと聞いており、
馬鹿すぎて別れたなんて聞いていたけれど、
馬鹿というより
無責任さが目立つような気もした。
茉莉『ご依頼ではなく、人を探す時手詰まったらどうすればいいかをお聞きしたく連絡しました。』
ナナ『そうなの?パパに聞いてくる!』
相手の年齢などもちろんわからないが、
きっと幼いのだろうと
勝手ながら偏見が構成されていく。
少しして、また彼女は
文字を並べ始めた。
ナナ『昔住んでたところの市役所?とかにいくと、転入とかなんかねいろいろあるかもだって!無理だったらその人を知ってる人とか、親とか、友達とか、周りの人?に聞くとか?』
茉莉『教えていただきありがとうございます。』
ナナ『探偵だからね!すごいに決まってるじゃん!』
どういたしまして、とかでもなく
そう自信満々に言っていた。
可愛げのある文面だと思えば
そう見えなくもない。
結華「すごい人ではあるね。距離感とか。」
茉莉「言わんとすることは分かる。」
結華「互いに言ってること叔母さんくさ。」
茉莉「互いにって言ってるし許そう。」
結華「ちなみにさっきのこと、ネットで調べたら出てくるやつだね。」
茉莉「あ、そうなんだ。」
結華「本当に聞いて親御さんもそう言ったのか、親御さんが外しててその場で調べたのかは知らないけど、まあこれが正攻法と思っとこう。」
茉莉「えっと市役所は…まあ遠くはないね。17時までだし早く行こ。」
結華「うん。」
もしお母さんが国方の家みたいに、
転勤族みたいに移り住んでいたら、
それこそ今日中に探して
見つけ出すのは困難だ。
夜職をしていて借金があって。
それから守るために茉莉を
乳児院に預けた。
死ぬかもしれないとも残っていたし、
もしかしたら命を狙われて
逃げ回っていた可能性だって大いにある。
茉莉「もしこの旅で見つけられなかったらさ。」
結華「…?うん。」
茉莉「またお供してくれる?」
結華「……うーん、どうかな。」
茉莉「えー、その時には縁切れてるって?」
冗談めかしくそう言う。
茉莉たちは不可解が起こって
繋がった縁ではある。
その不可解は1年間で終わると
Twitterで見たような気がする。
だから、今年度が終わる時
…後2ヶ月もしないうちに
茉莉たちの関係は切れたっておかしくない。
でも、それを否定して欲しくて
試すような言葉を口にした。
結華は表情を翳らすことなく、
それが当然だというように
前髪のピンを直しながら言った。
結華「そうかもね。」
茉莉「…え?」
結華「最初で最後の旅と思った方が、一層臨場感増して記憶に焼き付けようとするでしょ。」
茉莉「え、くはは。何それー。」
結華は笑っていただろうか。
それを確認するのは憚られるように思い、
誤魔化すように笑って前を向く。
茉莉は泣かない人だと言ったけれど、
それを言うなれば結華もだろうと
言い返しておけばよかった。
10階建はありそうな、
灰色っぽいカラーをした市役所に辿り着く。
市役所の職員にお母さんのことを問うため、
手続きを行なって、
またしばらく待っていた。
今度は何かを話すこともなく、
本当に無言のまま時が過ぎるのを待った。
通常の手続きを行うような
カウンターとは別に
相談窓口のような場所に通される。
やっとの思いでそこに座った頃には
外は徐々に赤くなり始めていた。
少しして、スーツを着た
若い男性がやってくる。
「お待たせしました。湯山佳織さまについてですね。」
茉莉「はい。」
はい、と返事をした途端、
本当にお母さんのことを知るのだと
改めて心にずしんと
重石が乗ったような感覚があった。
今日は朝から乳児院、
そしてお母さんが住んでいた
建物があったはずの場所、
そしてここ、市役所と
さまさまなところを
点々と巡っていることもあり、
気が落ち着かないでいた。
深く深く息を吸う。
大丈夫、見つかる。
一旦落ち着こう、と暗示をかける。
あまりに急ぎすぎている気がした。
落ち着く間もないまま
激流に流されていたら、
ここまで来てしまったといっても
過言ではない。
もう1度息を吸う。
今度はうまく吸えない。
お母さんが見つかったら、
まずありがとうと言おう。
守ってくれてありがとうって。
でも、それから先の言葉は
見つからなかった。
何を話したいんだっけと
改めて思い返す。
きっと、話したいことは
たくさんあるはずなのだ。
茉莉が乳児院にいた後のこと、
否、乳児院にいる間のことも
お母さんは知らないんだから。
その後、児童養護施設に入ったこと、
友達と一緒に逃げてきたこと、
国方の家に特別養子縁組をして
家族として過ごしていること。
茉莉が今、高校生であること。
思えば波瀾万丈と言っても
いい人生のように思えた。
それと同時に、お母さんにも
お母さん自身の、
お母さんしか知らない時間があったろう。
それを聞きたかった。
たとえ辛い話だろうと、
お母さんの声でお母さんの話を聞きたかった。
茉莉を預けたことに罪悪感を持って
謝るようであれば、
茉莉は当たり前だが怒りもしないし
ありがとうって伝え続けて、
そのおかげで茉莉は今生きてるよと
伝えることにしよう。
実際、お母さんと暮らし続けていたら
また違った形の幸せが
待っていたかもしれない。
今となっては絵空事だが、
そんな未来もあったかもしれない。
ただ、何故だろう。
何故今だったろう。
特別養子縁組の言葉が引っかかった。
昔、まだ施設の場所も
教えてもらえなかった
中学生の頃の時に、
自分のことを知りたくて調べたのだ。
何かの拍子に特別養子縁組であると
知った茉莉は、
その言葉のまま検索欄に入力した。
特別養子縁組とは
本当の、生みの親との親子関係を解消し
実のこと同じように
親子関係を結ぶことであること。
そしてその条件は、
配偶者がいることであったり、
片方は25歳以上であるなど
通常の養子よりも厳しく定められている。
そして、実の親から
承認を得る必要があったはずだ。
虐待があったのであれば
同意は不要となるが、
今回は当てはまらないと
乳児院の出来事を機に知ってしまった。
そう。
知ってしまったのだ。
ともなれば、お母さんは
親子関係を切りたかったと言うことになる。
同意した、と言うことになるのだ。
守るために、だろうか。
そう願いたかった。
もしくは。
茉莉「…。」
もしくは。
…。
呼吸するのを忘れた金魚のように
マスクの下で口を開いて、
目を見開いていただろう。
呼吸ってどうやってするんだっけ。
そう思っているうちに、
備え付けられていた暖房が
ごう、と音を立てて動き出すのと、
近くにあったペン立てでは
からりとそれが動くのが見えた。
「…………その…調べましたところ大変言いづらいのですが…湯山佳織さまは既に亡くなられておりました。」
茉莉「…っ!」
もしくは。
意思表示のできない状態にあった場合に
特別養子縁組は成立する。
とくん、とくんと
心臓すら大切なものを
忘却してしまったように
いっそのこと穏やかに鳴っていた。
まるで心にぽっかりと
穴が空いてしまったようだった。
温風が痛く感じるほどに、
今は全てが棘に見えた。
柔らかな肌に鋭利な先端が突き刺さる。
体が原型を留められないほどに
針のような痛みが走ったように思えた。
職員の人が口をぱくぱくと、
それこそ金魚のように開いているが、
まるで音声が聞こえてこない。
自分の心臓の音ばかり
脳でコンサート会場のように
響き渡っている。
結華「父親や他の親族については何かありませんか。」
「…ありますが…お聞きになられますか。」
結華「茉莉。」
茉莉「あ、うん。…お願いします。」
結華のその場を制すような
低く丸い声が茉莉を現実に引き戻す。
まだ脳の中身は無数の糸が
絡まったままだが、
なんとか細々とした声を絞り出す。
けれど、やはりまともに話なんて入ってこない。
辛うじて聞き取れたのは、
お母さんの両親は既に亡くなっていること。
お墓の場所はわからないので、
当時住んでいた近くの霊園を
探してみるといいかもしれないこと。
そしてお父さんについては
お母さんが亡くなって数年後、
殺人を犯したかなにかしらで
無期懲役の罪から
刑務所にいることくらいだった。
優しさからか、面談もしない方がいいと
言っていた気がする。
お母さんに会えたら。
これはずっと苦い言葉だと思っていた。
会えたらどんな会話をすればいいのか、
また捨てられたらどうしようと思っていた。
怖かったのだ。
お母さんと対面することで、
嫌な自分の一面を
見なければならないかも
しれないと思ったから。
けれど、実際逆だった。
お母さんに会えたら。
どれほど甘い響きだったろう。
会えたら何を話そうなんて
どれほど幸せな悩みだったろう。
過去のことを話せたら。
また笑い合えたら。
ありがとうって直接言えたら。
どれほど贅沢な願いだったろう。
お母さんの顔も声も匂いも全て
何もかも覚えていない、知らない。
顔は公的書類を見せてもらう中で
視界に入ることはあったけれど、
おっとりとしていて
優しそうな目つきをしていること以外
まるでわからなかった。
何も知らないままだった。
何も知らないまま、
何も知ることができないまま
お母さんはいなくなっちゃった。
お母さんの身につけていたもの
ひとつでもこの手元に残っていれば
その存在をより感じることができただろうに、
茉莉の手元にあるのは
「茉莉」と名前の書かれた
あの紙しか残っていなかった。
痛い。
心が痛かった。
ふと顔を上げた時には
既に空が広がっており、
夕闇に呑まれかけた街がそこにあった。
いつからだろう、
結華が手を繋いで
茉莉のことを引いている。
風が冷たい。
冬だから、そして夜だからだろう。
顔や耳がひりひりと痛かった。
茉莉「…あ、ごめん。なんかぼうっとしてた。」
結華「正気戻った?」
茉莉「うん、少し。」
結華「案外けろっとした声してんだから怖いよ。」
茉莉「そう聞こえるだけだよ。」
結華「…そうかもね。…疲れてるところ悪いんだけど、聞かせて。」
茉莉「何を?」
結華「この後どうするか。」
この後。
考えてもいなかった、
会うことだけを目標にしていたのだから、
旅の目的としては
もう成し遂げることはできない。
このまま仙台に帰って
暖かいお風呂に入って。
凍てついた心をほぐしては
明日に神奈川に帰る。
きっとそれが1番いいのだろう。
…でも。
なんだか諦めきれないでいた。
まだこの土地を離れたくなかった。
まだお母さんの欠片を探したかった。
もう探すものはないけれど、
何かをしていないと
気が狂いそうとすら思った。
答えを出せないままでいると、
結華はそっと手を離した。
結華「……探さない?」
茉莉「…え。」
結華「茉莉のお母さん。最後まで探そうよ。」
猫が甘えるような声で、
はたまた泣いている子供を
慰めるような優しい声色で言った。
茉莉「…探そうって、もう…。」
結華「職員の人言ってたじゃん。お墓はあるかもしれないって。探すんなら親御さんの住んでた近くの霊園に行ってみたらわかるかもって。」
茉莉「…!」
結華「最後まで付き合うって言ったし、少しのわがままくらい聞くよ。」
目の前にいる人が
結華とは思えないほど、
その言葉がすっと心に染み入る。
優しくされることに
なれていない子供のように、
泣き出してしまいたかった。
けれど、目頭が熱くなるのを感じながらも
それが流れないようにと
ただひたすらに耐える。
そうだ。
お礼…ありがとうって、言いたい。
言わなきゃいけない。
茉莉「……結華。」
結華「ん。」
茉莉「わがまま、聞いて。」
結華「いいよ。」
茉莉「茉莉のお母さん…最後まで探したい。会って、ありがとうって、言いたい…っ…。」
結華「うん。」
いつか夢見たあの景色。
トンネルの先で見たあの
暖かい家庭のようには
どうにもならないらしい。
°°°°°
「あなたが陽奈ちゃんね、こんばんは。」
陽奈「…。」
---
茉莉「陽奈からいただいたよ。」
「あらあら、そんないいのに。ありがとう。」
茉莉「ご飯運ぶよ。」
「お願いね。」
茉莉「陽奈、食べよ!」
°°°°°
夢は夢でしかないらしい。
茉莉たちは夢で生きられない。
現実で生きなきゃいけない。
結華は、目の前の青に変わった信号を前に
先に1歩踏み出していた。
結華「わかった。」
その声が雪に溶けていかないよう、
彼女の背を静かに追った。
重いのは鞄のせいだろうか、
1歩がずしんと重力に沿って下される。
生まれたての雪は降下するのをやめ、
どんよりとした
今にも落ちて来そうな雲だけが
空を独占していた。
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