冬の段差

雪のよく降った翌日のこと。

学校は当たり前のようにあった。

雪でもしかしたら

今日も休みになるかもしれないと

僅かながらに考えていた自分が恥ずかしい。


未玖「おはよー。」


茉莉「おはよ。」


未玖「みてみて、雪ほんの少しだけ残ってて持ってこようかと思ったけど溶けちゃった。手袋してて良かったー。」


茉莉「あーあーびしゃびしゃじゃん。」


未玖「ハンカチ持ってる?」


茉莉「ちょっと大きめのタオルしかないや。」


未玖「フェイスタオル的な?」


茉莉「そう。はい。」


未玖「ありがとう。夏でもないのになんで?」


茉莉「今日ペットボトルで。」


未玖「あーね。」


タオルでぽんぽんと手袋をしたまま

手を拭いて水気をとる彼女を他所に

横目で外を眺める。

外では朝から雪がパラパラと

静かに降り注いでいた

昨日の景色を思い出す。

電車が止まってくれればよかったのに、

生憎そうともいかず

通常通り学校もあった。

電車が止まれと願うのは

社会に出たことのない

子供の茉莉だからこそだろう。


未玖「ほんと今日も休みになって欲しかったな。」


茉莉「ね。」


未玖「あ、でもその場合って土曜授業増えたりして。」


茉莉「げー、それはやだなあ。」


心底嫌そうな声が出たことに

自分が驚くも、

未玖は面白かったのか

「何その声」とけたけた笑った。


帰る頃には薄暗い中

明瞭に見える白と青だけが

空を支配していた。

傘を差して歩いていた

昨日の人たちは

一体どこに姿を眩ませたのだろう。

いつもの通学路は雪解けで湿っていたが、

夕方ともなればその涙の跡すらほぼなく、

やはり昨日の景色は

記憶の奥底で眠ったままの

故郷のようだったと思い出すばかり。


茉莉「さむ。」


今日のようにまた一段と冷え込む夜は

暖かいお風呂に浸かろう。

そんなことを1人で密かに決めて

雪の中に隠しておいた。

鍵を取り出すことすら痛むほど

指先が凍えている。

ポケットにすぐさま突っ込んで

暖をとりたかったけれど、

家に着き、入ってすぐお風呂に直行した。


服を脱ぎ捨て体を洗い、

冷え込む空の湯船で体操座りをしては

蛇口を緩めてお湯を貯める。

徐々に迫りゆく

夏の端くれ以上の暖かな湯が、

足先からじんわりと温めてゆく。

肩から少し下まで浸かる頃には、

冷気のせいだろう、

既にぬるま湯に成り果てる手前、

首一枚繋がっているような暖かさだった。


湯気に包まれながらお風呂から上がり、

服も着替えてふと

スマホを手にした時だった。

ふんわりと浮かび上がる通知と

その名前に慌てて画面に

食い入るように見る。


陽奈『茉莉ちゃん、今日熱が出て病院に行ったらインフルエンザって診断されて…昨日話した件一緒に行けなくなりました。本当にごめんなさい…。』


今度は絵文字も何もなく、

心底申し訳ないと感じているのだろう、

文字からその心が

見て取れるようだった。


茉莉「…ま、じかぁー。」


ため息混じりに困惑した声が漏れる。

いや、インフルエンザなど

病気であれば仕方ない。

仕方ないのはそうなのだけど、

これからどうすればいいのだろうという

不安感が唐突に押し寄せてくる。

延期するか、他に誰かを誘うかしかない。

それはわかっているのだけれど、

ついつい延期にすれば

いいんじゃないかと思ってしまう。

ここでやめてしまえば

きっと知りたくないことは

知らないままでいれる。

知りたいことも

知れないままになってしまうけれど。


…当日が近づくにつれて、

逃げてしまいたい気持ちが

どこからともなく顔を出していた。

逃げるって面倒くさくないから。

簡単だから。

人によって、場面によっては

逃げる方が難しいと言うけれど、

今回に限っては

簡単になってしまう。

向き合わなくていい場面ほど

気楽なものはない。


茉莉「…どーしよ。」


単純なことに困り果て、

洗面所でそれとなくしゃがみ込む。


本当にやめてしまおうか。

やめてしまえば

知らないままでいられる。

その響きが甘く脳を

支配しようとしていた。


けれど。





°°°°°





茉莉「今上がってるところで大丈」


彼方「また逃げんの。」





°°°°°





茉莉「…いや、決めたじゃんね…。しんどいことを言われるかもしれなくても会いに行くって。」


今は逃げたくない。

逃げたら今度こそ

本当にお母さんを探すこと自体

やめてしまうような気がした。

忘れよう、もう踏み入れないようにしようと

目を逸らし続けるだろう生活が

脳裏にありありと思い浮かぶ。


そんなふうに心残りを抱えたまま

余生を過ごすのは嫌だ。


そう腹を決め、

自分の部屋に戻っては

Twitterを開く。

そして迷わず、

否、迷う時間を取らずして

指を動かした。


連絡する先は、槙悠里。

他の人たちよりも関わりはないけれど、

他の人たちよりも

何故か多少は気が楽な気がした。

変な因縁もない。

ただ、ふと思う。

悠里が事故に遭って以来…

いや、事故に遭う前すら

会ったことはないのではないか、と。

もしかしたら4月中に

出会っていたのかもしれないけれど、

茉莉はその頃の記憶がないもので、

その後といえば悠里側も

記憶を無くしている。


どことなく不安が募る中、

昨日陽奈に送ったようなことを

コピー、ペーストして送信する。


茉莉『こんにちは、茉莉です。急なことで申し訳ないんだけど、今週末の3連休って空いてる?もしよければ2泊3日で一緒についてきてほしい場所があるんだ。』


久しぶり、も初めましても

違うような気がした。

もし茉莉が記憶を無くしていなかったら、

同時に彼女も記憶を無くしていなければ

仲が良かった未来も

あったのだろうか。


それを言ってしまえば

他のみんなだってそうだ。

結華のことだって、

悠里が事故にあった後の

あのひと言さえ、

「悠里が事故に遭って良かった」という

ツイートさえなければ

何も知らずに仲良くなっていたかもしれない。

いずれ露呈しているであろうものだと感じるが

それでもしばしの間は

軋轢を生まず過ごせていたかもしれない。


湊だって、雨鯨がまだ解散していなくて

…いや、茉莉が記憶を失っていなければ

もっと頼っていいと

心の底から思える存在だったかもしれない。

陽奈だってそう。

もしかしたら出会っていないだけで、

他の誰かともっと心を寄せ合える関係に

なっていたかもしれない。

全てがもしもの話でしかなく、

不可逆的な妄想でしかない。

理解はしている。

けれど、想像しないままでもいられなかった。

もしも記憶を失っていなかったら、

茉莉の人生はもっと

違ったものになっていただろう。

それこそ、母親を探さなくとも

今の自分と周囲の環境に

満足できるくらいには。


本当に悠里を誘っても

いいのだろうかと

またもや迷いが顔を出し始めた頃、

通知が来てはすぐにスマホを手に取る。

いい知らせでありますようにと

願うように手を組んでしまう。

そして、そっとその通知を開いた。


茉莉「…え?」


すると何故だろう、

結華からDMが来ていた。


結華『悠里から相談されてこっちで連絡しました。勝手に盗み聞きするような形になってしまってごめんなさい。少し話し合いたいことがあるので、今電話できるようであればしませんか。』


どうやら話が長くなりそうなので

メッセージで話し合うのも面倒だし

電話しないか、と言った意図だろう。

その下にはLINEのアカウントを

追加するためのQRコードが

送信されていた。


茉莉「…。」


悠里が相談するところまでは

それとなく予想ができる。

急に2泊3日の提案をされれば、

まずは親に可否を問うだろう。

その前に相談できる相手がいるのであれば、

それこそ兄弟が、姉妹がいれば

まずそちらに相談する。

茉莉だってそうだ。

久美子さんたちに聞く前に

兄ちゃんに聞くことだってあったのだから。


LINEに友達追加すると、

結華らしき人の後ろ姿が

アイコンになっていた。

結華は拾ってきた画像を

アイコンにするタイプだと思っていたけれど、

案外自分をアイコンにするらしい。

それか、たまたま似た画像であって

そっくりさんかもしれないけれど。

結華を友達追加してしまったことに

心の隅では嫌悪感がやや募っていた。

仲良くしたくない人から近寄られても

嬉しくないというあれだ。


少しするとふとスマホが大声を上げ出した。

何かと思えば電話がかかってきているようで、

咄嗟に緑色の受話器を押す。


茉莉「もしもし。」


結華『もしもし。』


茉莉「聞こえるよー。」


結華『良かった。時間平気だった?』


茉莉「うん。茉莉はほら、部活もないし。」


結華『ふうん、そっか。』


興味なさ気であっさりとした返事が

耳の奥でこだまする。

じゃあ元から聞くなと思ってしまう茉莉は

子供でしかないのだろうか。

彼女の応答を見ていると、

なんだか渡邊さんの片鱗を見ているようで

心に穴が空きそうになる。


結華『で、さっそくだけど…さっき連絡くれたやつの話ね。』


茉莉「うん。」


結華『結論から言うと、悠里を行かせるのは厳しい。』


茉莉「…そっか。」


自分でもびっくりするほど

乾いていて冷たい声が出た。


結華『悠里が記憶喪失になったのは知ってるっけ。』


茉莉「うん。」


結華『そう。それ以来、お母さんはちょっと神経質っていうか…心配性というか。』


茉莉「あー、伝わるよ。」


結華『ん。…そう言った事情があって、遠くに離したくないみたい。』


茉莉「事故に遭ったのは旅行先だったの?」


結華『いいや、学校近く。』


茉莉「じゃああんまり関係ないとは思うけど。」


結華『そうだよね、私もそう思ってる。けど、もし何かあってすぐに駆けつけられないんじゃ不安っていう気持ちもわからないではないけれど。』


と、弁明するようなことを言いつつ、

「でもやっぱり馬鹿馬鹿しいなとは思う」と

手のひらを返すようなことを言っていた。


茉莉「理解できるけど賛同できないってやつ。」


結華『そう。違う人間だし仕方ない。話は逸れたけど、ひとまず悠里は無理そう。それはごめんなさい。』


茉莉「ううん、こちらこそ急だったし。」


結華『2泊3日は2人で行くことが条件なの?』


茉莉「2人っていうか、誰でもいいから連れてこいって。」


結華『言い方的に犯罪っぽいんだけど。』


茉莉「いや、そういうのじゃなくてね。」


結華『じゃあ何。』


茉莉「2泊3日で東北に行って、茉莉の親族を探したいんだ。」


結華『親族?』


茉莉「そう。連絡先もどこに住んでるかもわからない。手がかりは茉莉が昔住んでたところにもしまだあれば、それだけ。」


結華『ふうん。』


茉莉「茉莉1人であっちこっち行かせるのは不安だったんだろうね。だから誰かと一緒においでって、東北に住んでる親が言ってたの。」


結華『別に2人で来いとかそういうわけじゃない、と。東北に住んでる親御さんのところにお世話になる感じ?』


茉莉「そう。」


実際は本当のお母さんを探していること、

東北に住んでるのは親とはいえど

育ての親であることを

正直に話すことができなかった。

心の壁なのだろう、

自然と口に出すのを憚られている。


結華『だいたいわかった。』


茉莉「うん。…まあ、検討ありがとうって悠里に伝えておいてほしい。」


結華『それはいいけど、そっちは他にあてあんの?一緒に東北行く人のあては。』


ぐさ、と核心を抉るような質問を

さらりとしてくるのが恐ろしい。

人の心がない怪物のようにすら

見えてきてしまいそうだ。


茉莉「…ない、けど。」


結華『ふうん。』


茉莉「何か案あるの。」


結華『人間の体ひとつあればいいわけでしょ。』


茉莉「言い方悪いけど、まあそう。」


結華『じゃあ利用されてあげてもいいよ。』


茉莉「…え?」


結華『明後日からの旅に頭数貸すって言ってんの。』


相変わらず語気は強いけれど、

彼女の言っていることが瞬時にわからず

きょとんとしてしまう。

それから少ししてようやく

彼女がついていくと

言っているのだと理解できた。


茉莉「なんで…?」


結華『何でって、貸しを作るにはもってこいだと思ったからだけど。』


茉莉「うわー…そのまま口にするとか性格悪ぅー…。」


結華『そっちもね。いい性格してる。』


茉莉「利害関係…またこれかぁ…。」


結華『何か?』


茉莉「いいや、ちょっとこっちの話。」


最近関わりを持ち始めた数人は

人との関係を利害関係として見てきた。





°°°°°





彼方「いいよ、踏み台にしても。道具にしたってなんにしたって良い。その代わりうちだってあんたを利用するからね。」


茉莉「…っ!」


彼方「別に悪いことには使わないけど。そのくらいの覚悟があるんなら。」





°°°°°





利害関係だと口にする時点で

まだまだだとは思う。

実際本物の利害関係でしかない間柄は

そんなこと口にせず

とことん信用してるだの甘い戯言を吐いて

使い古して捨てるだろうから。

宣言してくれるだけ

優しいと思うことにしよう。


茉莉は利害関係だとか

利己的な人…だとか、

そう言った類の人が

苦手なのだろうとつくづく思う。

逆に今知れて良かったと思うことにしよう。


結華『私が相手なら無理に話そうとしなくたっていいし変に気を遣わなくていいでしょ。』


茉莉「アピールポイント?」


結華『ある意味。だってそっちって私のこと嫌いじゃん?』


茉莉「…別に何とも。」


結華『イライラするんなら殴られたって今回は不問にしたっていいし。』


茉莉「利害どころか害しかなくない…?ってか、急なことだし心配性なら親御さんから許可降りないんじゃ…。」


結華『私はいいの。』


茉莉「うわ、すごい自分勝手だ。」


結華『自分勝手っていうか…何とも思われない感じ。悠里の方ができ良いし。』


それから少し声のトーンを落として

「昔からそう」と付け加えた。

なんだか他の家庭の闇を見たようで

突っ込んで聞きたかったけれど

聞いてはいけないような気がした。

茉莉だってそう。

無理に聞かれたら不愉快だ。

隠したいのだから話していないのだ。

聞かれ待ちであえて誤魔化す人、場合も

あるというけれど、

茉莉は聞かれたくないから話さなかった。

今回もそれなのではないかと不意によぎる。


何か話さなきゃ。

変な気を遣わなくて良いと

言われた直後にこれだ。

そうして無音を崩すためにも

とにかく言葉を紡ぐ。


茉莉「もしかしてそっちの家って複雑?」


結華『改めて聞くことでもないでしょうに。』


鼻で笑うようにしてあっさり言う。

それでは認めているようなものだった。

双子とはいえ違う人間。

そこに何かしらの妬みや嫉妬、

対応の差…いろいろあるのだろう。


結華『全てがクリアな家庭なんて、そんなのほんのひと握りだっての。』


吐き捨てるようにそういうと、

その後はすぐに日程の確認を迫られ、

ある程度すり合わせた後電話を切った。

どうやらこのままでは

本当に結華と2泊3日することになる。

それでも良いかと思いつつ、

やはりどこか苦しさといえば良いか

気まずさといえば良いか、

魚の骨のようなものが

喉に突っかかっているような気持ちになる。


茉莉「…利害…ね。結局相手方の利益ってないんじゃ…?」


利益があったとして、

急にかつ勝手に連れ回すので

費用は茉莉側の家持ちであり、

ある意味としては無銭で東北旅行が

できると言ったところだろうか。

それだけでは済まない部分も

ただあるだろうけれど、

彼女は快諾してくれた。

他のアテを探すことも考えたけれど、

電車や新幹線に乗っている間に

何か話題を考えなきゃ…

という場面であったり、

会話が途切れて気まずい空気が

流れる場面であったりに

なったとしても

気にしなくて良いのはありがたかった。


親しくない人には特に

気を張って話しかけることが多かった。

それも、相手の人となりを知るために。

その分、今回に限っては

相手は最低な言葉も吐く人だと知っている。

暴言や強い言葉に

神経をすり減らされる未来も見えるが、

無言でも心がざわつかない部分に

利点を見出していた。


茉莉「…なるようになる、か。」


なるようにすることは茉莉はできない。

きっとするつもりもない。

けれど、何かしらの力が働いて

なるようになっていくのだ。


スマホを閉じる。

そして数日後の旅に

思いと不安を募らせ、

静かに今日を終えるのだった。

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