スタート

柚緒駆

スタート

「スタートだよ」


 仏壇の中で灰色の顔が笑う。


「もう走れねえよ」


 俺は右の腿の付け根をさすった。その先はない。ついこの間までは太い脚が生えていたのだが。


 十七歳の夏、骨のガン、骨肉腫が俺の右脚を奪った。若い肉体のガンは回りが早い。切断しなければ死ぬ以外に道はなかった


 俺には目標が二つあった。その一つが陸上短距離のインターハイ。このまま上手く行けばもしかしたら、と、うっすら遠くに見えた陽炎は、いまや完全に消え去ってしまった。落ち込むなと言う方が無理だろう。


 だが仏壇の中で俺の幼い日の面影を残した顔は笑いながら言うのだ。


「走れなくなったことは、走らなくてもいい理由にはならないよ」


 俺には目標が二つあった。もう一つは医学の道に進むこと。うちはガンになりやすい家系だったのだろう。十歳の夏、脳腫瘍が俺の双子の弟、裕也の命を奪った。その仇を討ってやる。ガンをこの世から撲滅してやる。俺は裕也の物言わぬ顔にそう誓った。


 だからこの七年、学業をおろそかにしたことは一日たりともない。それはテストの点数と成績表が物語っている。国立大学の医学部への進路も、周囲から心配の声すら上がらず順風満帆と言える。ただ、それでも。


 それでも他に、何か欲しかったのだ。それは贅沢な望みだったのだろうか。右脚を奪われたのは天罰だったのか。すべてを奪われた弟を横目に青春を謳歌しようとした俺への。これは裕也の怒りなのかも知れない。呪いなのかも知れない。でも何故だ、もしそうなら俺はどうしてこんなにホッとしているんだ。


 考えるに、俺はきっと後ろめたかったのだろう。裕也一人をガンに殺されて、のうのうと生きているこの身が。でも俺もガンになった。そして右脚一本失った。まだ対等ではないが、少し近付いた。裕也が感じたであろう不安と悲しみに。おまえは、あの十歳の小さな体で、こんな思いをしていたんだな。それなのに、あんなに笑っていたんだな。


「スタートだよ」


 仏壇の中で裕也は笑う。


「ここからが本当のスタートだよ」


 ああ、そうだ。俺は脚一本失った。だからって走るのをやめはしない。走り方を変えるだけだ。今度は俺の脳が走る。大学なんぞはゴールじゃない。医者になるのもゴールじゃない。その先にそびえ立つデカい敵をぶちのめすために俺は走る。


 見ていろ裕也、本当のスタートに立ったこの俺を。これから二人分の人生を走り抜けるこの俺を。だから笑え。安心してそこから笑っていてくれ。いつか胸を張っておまえのところにたどり着くまで。

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スタート 柚緒駆 @yuzuo

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