第6話


 急


 ゼウスは居眠りしていた。

 右手には齧りかけの林檎の実がしっかりと握られていた。瑞々しい青い果実は不変であり、どれだけ時間が経っても腐ることはない。

 地球儀に突き刺さったダーツはいつの間にかなくなっていた。ゼウスがそれに気付くことはなかった。というよりも、忘れていた。きっと思い出すことはないだろう。

 消えたダーツの代わりに地球儀には、ぷっくらと膨らんだ瘤が出来上がっていた。丁度ダーツの刺さっていた個所と一致する。

 瘤はぷくぷくと膨らんでおり、地球儀の形が少しだけ瓢箪(ひょうたん)のように変形してしまっている。それもやがて、熟し切った果実のように瘤が取れたことで、神が見つめる地球儀としての在るべき形に戻った。

 落下して床に落ちた瘤は潰れて、これまた瑞々しい飛沫を散らしながら、もう間もなく蕩けきった液状に融解しようとしていた。

 その瞬間を目の当たりにしてもいいし、しなくてもいい。

 後で掬い取って冷凍庫で形を整えてもいいかもしれない。

 とはいえ、今後この出来損ないの瑞々しい瘤に注目する存在はいないだろう。

 すべては神の悪戯。

 あってもなくてもどうでもいい、神にとっては些末な事柄にすぎない。


 φ


 パンドーラは四輪駆動の厳ついフォルムの車体を縦横無尽に操っていた。

 声のエネルギー、つまり、膝立ち人の薔薇の腹の力で小野を槍から車にジョブチェンジさせたのである。

 パンドーラたちが爆走する南国風のカントリーロードは、かつてグルテンで覆われていた場所だった。今ではグルテンは消失し、ただただ広大な大地が続いていた。

 薔薇の腹は麩のエネルギーを吸い取り、咢(あぎと)と化した口腔で咆哮するとグルテンを超振動させた。それは声のエネルギーによって呼び起こされた言霊の力だった。

 超振動を浴びたグルテンは瞬時に爆発霧散しパンドラ世界に広まっていった。微細な粒子となったグルテンは声のエネルギーと結合して、このパンドラ世界に豊かな自然を生み出していった。

 声のエネルギーが自然を生み出し終わると、いくつかの膝立ち人の集団は硬くなった薔薇の腹の皮膚を脱ぎ捨てると、新人類となって大地に立ち上がった。そして、いくつかの膝立ち人はそのまま薔薇の腹から取り入れ蓄えた声のエネルギーを残したまま沈黙を守っていた。

 人間が生きるには少し険しい大自然を前に、しかし、新人類は怯む様子を見せることなく、生い茂る濃緑の森の中へ消えていった。それを見守る膝立ち人ののっぺりとした顔はどこか安らいでいるようであった。


 かつてパンドーラが見た荒廃した世界などもうどこにも存在しなかった。だから、彼女は空を駆けることをやめた。ただなんとなく地上をどこまでも駆け抜けていきたいという欲求の下、小野を車に変えた。小野の上に乗って感じる風の感触は心地よく、ともすれば目的を忘れてしまいそうな危うさが伴った。

「ん~ん、気持ちぃ風ぇ~。最高の気分だぁ~ね」

「のんきなことを言って、ちゃんと前向いて運転してくださいよ。!? 危ない! 何か変な物体にぶつかりそうじゃないですか。………………ちょっとパンドーラさん? 僕たちの目的を忘れてるわけではないですよね?」

「ええ? 目的? 何それ美味しいの? がっはっはっはー!」

 太陽が昇って沈む。それだけのことがパンドーラには嬉しくて堪らなかった。しかし、だからといって小野を引き抜いた始まりの場所に向かうことを忘れたわけではない。

「パンドーラさん……」

「そんなそそる鳴き方するんじゃないよ。もちろん。忘れるわけないでしょ。でもさ。こんなに気持ちがいいんだ。少しはこの心地よさに浸らせてくれよ」

「それなら、まあ、」と小野の嘆息気味な声がスピーカーから鳴るに合わせて、正面に向かうヘッドライトがちかりちかり点滅した。

 並走する椰子の木の残像をしり目に、パンドーラも正面に広がる光の道に向きを据えなおした。空ばかり見ているわけにもいかない。必ずしも上ばかり見ていることが正しいとは限らない。

「この道を直進した先に、あのときのあの場所があるんだろ? 解ってるさ。そこに導かれている自覚は十分に感じているさ」

 ぱっぱっとクラクションを響かせた小野の快速を妨げるものは存在しない。彼女らの速度は現在デーモンでも掌握することが叶わないのだ。

 突き進むことが、今のパンドーラの生きがいだった。

 そこに硝子細工の蝶の群れが小野の車体の周囲に現れた。蝶の群れは旋回する渦を作り出し、煌々と眩い光を発していた。それは幻惑的でパンドーラのことを誘っていた。

「私を導いてくれるのか? 美しいですね。気持ちいいですね。清々しいですね」

 硝子細工の蝶の群れが旋回するにつれ光の眩さが強くなっていく。すでに、直進する小野のヘッドライトはその光に塗りつぶされ、どこを走っているのか把握できない。

「問題ない問題ない。私には解かる。この回転する渦の中に身を任せれば貴様を引き抜いた腐りかけの廊下に辿り着くことが」

 小野の焦りを帯びた響きをスピーカーから聞き取ったパンドーラは車体を囲む蝶々に害はないことを告げると、まるで眠り込むかのように両目を閉じた。

「ちょっと! 居眠り運転ですよ! パンドーラさん!」

「うるさやかましまし」

 パンドーラが呪文のような言葉を発すると蝶々が放つ光以外の色彩が消失した。椰子の木が並走していた南国風の風景は後方へ高速に消失していく。小野の速度が増したわけではないが、現在デーモンを置き去りにしてパンドーラは自身の信じる道を突き進んでいった。

 遠くに存在するはずの、小ぢんまりとした花畑を幻視するとパンドーラはそれを心の中で脚色していく。より彼女好みの美をそこに付け加えると、硝子細工の蝶々は砕け散って息をすると内臓を傷つけるダイヤモンドダストと化した。

 パンドーラは小野の車内にいたし、小野は車だったからその被害を被ることはなかった。二人にやっと追いつくことのできた現在デーモンの一隊がこれの被害に見舞われパンドーラに束の間の猶予を与えた。

 パンドーラを乗せた小野が朽ち果てた建物の前に停車した。

 一時的に現在デーモンの制限下から脱したことで、パンドーラの忘れていたはずの記憶の場所に辿り着くことに成功した。

 例えば、約束の地。始まりの地。とか、そんな風に呼ぶかもしれない。

「あの花の名前。小野は解るか?」

 パンドーラの目に映る範囲内に名もない希望の花が咲き誇っていた。

「さあ。僕だって何でも知ってるわけじゃないです」

「うん。まあ、そうだよね」

 パンドーラは「縮め」と唱える。すると、小野の車体がみるみる縮んでいって彼女の肩にちょこんと乗れるようになった。

「やっぱり、声のエネルギーはすごいね」

 パンドーラの言葉は声のエネルギーを媒介して小野の車体を小さくしたのだ。

「人間の生きようとする力が生み出した必然です」

 小野はさも当然とばかりに威張り散らした。

「貴様も随分と可愛げのないことを言うんだな」

 若干呆れて首を振るパンドーラの肩から振り落とされない様に、小野は必死にしがみついた。パンドーラの小さな肩にタイヤの跡がくっきりと残された。

 パンドーラがかつて働いていた庁舎はもうない。ただ、名もない希望の花の刹那気な花びらが柔らかい風にのってはらはらとパンドーラの頬を撫ぜた。こそばゆさに目を細める。視界が窄まって次の瞬間にはすべてを忘れてしまいそうな。

 色彩の豊かさを語ることにどれほどの意味があるだろうか。パンドーラは敢えて野暮になるような感想を述べることを控えた。

「私は、確かに初めてここに来たわけだけど、初めてきた実感よりも懐かしさが勝る。でも、心地よさだけじゃない。重苦しい、窮屈な行き場のない感情もそこにはある。それは退屈だった日々の重なりだったのかもしれないな」

 既視感を得ること自体稀有な環境でパンドーラの胸中になんとも言えない感覚が芽生える。たぶん、これからパンドーラが先に進む為にも必要な感情のはずだった。それを一つ確かめられただけでも、この場所に辿り着いたことは貴重である。

 小野は沈黙を守っている。彼は存在したかもしれない世界で受動的だった。ゆえに、彼がこの場所で語ることはないのかもしれない。

 パンドーラは能動的だった。衝動的だったのかもしれないが、決断をしたということには大きな意味があっただろう。

 それも、もしかしたら在ったかもしれない世界の話である。今この瞬間この場に立つパンドーラにはなんの関係もない話だ。

「あれは……床板?」

 ふわりと舞い上がった散る散る花びらの中で、パンドーラは腐りかけた床板一枚を見つけ出した。

「こんなところにこんなものが。これを私は知っている。知っているという記憶が確かにある」

 かつて、小野が突き刺さっていた腐りかけの床板は、パンドラ世界に紛れ込んだ可能性の断片だった。

 この特異点が存在できるのは、現在現在デーモンを足止めしているからである。もう間もなくパンドーラたちに追いついた現在デーモンたちは在り得たはずの世界を痕跡も残さずに消し去るだろう。

 だから、その前にパンドーラはこの床板をよく目に記憶しておこうと思った。

 しばらく、見つめていると亀裂の間になにかの気配を感じ取った。

「まだ、何かあるみたいだな」

 沈黙を守る小野に話しかけたつもりだったが、自身に言い聞かせたような感覚の方が強かった。今だけはパンドーラ一人で向かい合うべきだと、無言のうちに小野は伝えているのかもしれない。まあ、それは概ね正しい判断だった。

 床板の亀裂は小野が刺さっていたものなのか、あるいは、劣化によって徒に傷つけられただけなのか判然としない。その亀裂の中にパンドーラは手を差し入れた。

 亀裂の中で手淫する。

 ほんのりと湿り気を帯びた薄くて小さい。

 そんな感触を得た。

「……宝くじ、だね。うん。これ宝くじだ」

 一口三千円。当選金額七十億円。あまり見慣れない数字に、端から端まで三回ほど見直してしまった。

「なんだよこれ。この世界が始まった場所にこんなもの……。もしかして、貴様はこれを取ろうとして床板に頭を突っ込んだんじゃないの?」

 そうパンドーラが言った瞬間、思わずそれはおかしいと感じた。そんなことを振り返ることができる事実に驚いたのだ。

 それとはべつにこんな想像をした。腐った床板の亀裂に顔を突っ込ませる小野の姿。あまりの滑稽さに頭がおかしくなってくる。そんな趣もすぐ、現在デーモンが追い付くことで失われるのだろうか。

 なるべく。そう、なるべくでいい。この感情という不確かな人間の行動原理を失わない様に強く自身を想おうとパンドーラは辺りを見回し決意した。

「ここに咲く花。私はこれをオノノギソウと名付けようと思う」

「どうでしょうね。名を与えることで本来の性質を損なわないでしょうか」

「その心配は、恐らく必要ない。というか、無意味だ」

「パンドーラさんはそう考えるかもしれないですけど。いまは言霊が宿るんです。意味は発生するものだと思います」

「あまり難しく考えるなよ。私には在るがまましか見えないよ。それに少しは特別に想ってもばちは当たらないだろ?」

「特別……確かにその通りですね。パンドーラさんにとって、僕にとって特別な場所」

「また、いずれこの場所を訪れようと思う。私という存在意義を見失いそうなときには……その時は小野、貴様も付き合えよ」

 パンドーラは肩に乗っかっていた小野を宙に放ると「成れ成れしい成れ」と唱えた。

 小野は厳ついフォルムの四輪駆動車の姿に戻った。

「どこか行く当てはあるんですか?」

「さあね。諸国漫遊っていうには人類はまだまだ発展途上だ。そうさね……一度、じっくりと考える時間が欲しいと思う」

 颯爽と走り去る小野の後方からは、徐々に現在デーモンの影響が表れ始めていた。すでに、その影響下に包まれたパンドーラの特異点に、腐りかけた旧庁舎へ続く道は消え失せているはずだ。それでも、パンドーラの心には確かにその瞬間の一場面が心身に深く刻み付けられている。

 忘れても忘れられない、在り得たかもしれない決断の瞬間を。

「北へ――」

 小野のカーステレオから陽気なのか陰鬱なのかよく解らないメロディーが流れていた。

 北に何があるのか。もしかしたら、宝くじの当選番号がわかるかもしれない。抽選結果は関係ない。まあ、結果次第でパンドーラは少しばかり落胆するかもしれないが。しかし、重要なことはそれに一喜一憂できるかである。

 その『もしかしたら』は、パンドラ世界では失われた観念だったとしても。

 パンドーラは考えない。今ある現実を生きていく。目の当たりにした事実を否定しない。すべてを受け入れる。そして、決して失われることのない何かを意識の合間合間に垣間見る。

「その変な音楽を止めてくれ」

 小野のカーステレオを切り、パンドーラは無音の中で鼻歌を鳴らした。受動的ではない能動的に。

 小野のテールランプが尾を引き続ける。現在デーモンの現在を保存する性質が長く長い赤い光の帯をそこに残していく。それを辿っていけばいずれパンドーラに追いつけるかもしれない。だけど誰も彼女の後を追おうとは思わない。思えない。

 地上の奥深くに芽を張ったヘヴィの叫びが鳴り響く。それと共に、人類の位相が変わる。次は文明が発展するかもしれない。しないかもしれない。観測者はすでに不在。やがて、パンドーラの行方も知れなくなった。

 目の中の世界。

 現在デーモンはずっとパンドラ世界を保存し続けていた。

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パンドラ世界のネガティブ情緒 梅星 如雨露 @kyo-ka

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