第5話


 位相は変化し続ける。

 すべての人間は麩のエネルギーでふにゃふにゃな軟体生物に成り下がったわけではなかった。

 大した距離は水平移動していなかったことにパンドーラは気が付かされた。グルテンに変化した麩の感情の境界線のその上に、膝をついて腕をだらりと後方に下げ、礼拝する直前で止まってしまったような人間たちによる結界が創り出されていたのだ。

 これも一つの見立て。パンドーラの直感が作用して見立ては見立て以上の効果を発揮する。

 膝立ちする人々の身体は麩のエネルギーに対抗する術を編み出していた。

 全体的にのっぺりとした印象を持つようになった膝立ち人たちの腹は、肉が寄り集まって薔薇の花びら的な襞襞を作っていた。仮に薔薇の腹と呼ぶとすれば、その変態は麩の感情からあふれ出る麩のエネルギーを対処するためのものだった。

 放出される不安の靄をその薔薇の腹で吸収しろ過する。ろ過工程で麩を構成するたんぱく質は血肉に変換され薔薇の花弁上の肉襞を大きくしていく。より多くの麩のエネルギーを吸い込むために。

 薔薇の腹には麩の感情の侵食を抑える効果があると、パンドーラははっきりと目に写すことができた。

 頬が緩んだ。だらしなく弛緩しているようでもあり、柔らかく微笑んでいるようでもあった。小野の目に映り込んだパンドーラの顔はおよそそのような変化を表していた。

 薔薇の腹に吸い取られた麩のエネルギーは膝立ち人の大きく開ききって頬の肉が裂けた口腔の奥底から咆哮となって放出されていた。それは、咆哮とはいえ恐ろしさはない。とても陽気なものとして循環しているのだ。

「あの音は身体全体を温かくする。それは血沸き肉躍る高揚感をもたらしているようだ」

「声のエネルギーとでもいったところでしょうか」

「声(se)のエネルギー。美しいじゃないか! これは身体が元気になる。魂が確かに宿っているんだ!」

 いつになく、パンドーラは大きな声を張る。

 そうする意味があるのだ。声のエネルギーは雄々しい。巨大なのだ。これまでのパンドーラの声量ではその声をかき消されてしまう。だから、大声を出す。それはプラスの力を与える。

 人類を悲観する暇などなくなった。

「人間はどこへだって行けるんだ。それを証明したな。この位相に適応したわけだ。すごいじゃないか。なあ? 小野そう思うだろ」

「僕は何も言いません。パンドーラさんの見たまでを見ることが正解なんです」

「正解……難しいことを言うんだな」

「べつに難しくはないですよ。もっとシンプルなんですよ、世界ってものは。パンドーラさんはそれを認識しました。パンドーラさんもまた、現在に適応していっているんです」

 パンドーラは全身で声のエネルギーに触れたくなった。そうすべきと心が逸る。

 その時になって、心ってどこにでも存在するのだと、はたと気が付かされた。

 パンドーラは口の中に手を突っ込むと、奥歯を一本抜き取った。それを麩の感情の堆積するど真ん中へと力強く投げつけた。

 一条の光がパンドーラの進む道となって拓けていく。それは、声のエネルギーが作用した結果だった。


 声のエネルギーが世界を作り直す。大地を耕す。火が生まれる。風が生まれる。木々がざわめく。大地が轟く。大海が大きく拓かれる。見えなかった感情のうねりが可視化されていく。光り輝く。目を潰すほどの光でありながら、そうはならない。目で見ているからではないからだ。

 薔薇の腹で循環するエネルギーが人間の目をも変化させた。そういうことなのかもしれない。はっきりした答えを得られないのは、ここがパンドラ世界だから仕方のないことだった。

 小野の話のようにパンドーラは希望だったのかもしれない。しかし、それは解らない。解らないがそれこそが希望であると逆説的に説明できるかもしれない。とはいえ、パンドーラは煩雑な思考を用いて答えを出そうとはしなかった。

「さて、私たちも私たちの目的を果たそう」

 パンドーラは能動的に空を駆けて行った。

 奥歯が作った光の道を突き進んでいった。

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