第4話


 股間に舌棒が吸いついた人間が悶絶の最中、ひゅっと消える。パンドーラは驚くけど、事実が理解の範疇を超えて現実を受け入れられない。否、現在デーモンの働きで人が消えた次の瞬間にはそれが当たり前であるように錯覚してしまう。デーモンの影響でパンドラ世界の人間はその瞬間にしか心が動かないからだ。

 小野を携えることでいくらか神聖なオーラを纏ったパンドーラだからこそ、前後の関係を僅かながら意識できる。しかし、その僅かでは全体を把握し理解することは難しい。

 人一人を吸い切ったヘヴィはその分だけ密度を濃くした。

「あの口? あそこからひょろりひょろりと伸縮しているゴム状のなんともいえない不浄な何かはなんだ? 確かにそこになにかが在った、その感覚が胸をざわつかせる。ずっしりとした重みでのしかかってくるようだ。非常に気分が悪い」

「あー現在に酔ってる感じですね。解ります」

 正直、何が「解ります」なのかパンドーラには判然としなかったが、神槍と化した小野には直観的に感じ取れる感覚が増しているのだろう。つくづく人の座から昇格した奴の話は信じがたい。

「錯覚みたいなものなのか?」

「まあ、実際に起こっている現象その因果関係が視覚しにくくなっている、というより、現在しか視覚出来ないんです。きっと脳の中には写真のようにその瞬間の映像を保存しているのでしょうけど、そこをデーモンが邪魔するんです。過去も未来も必要ない。一コマ一コマその瞬間だけに生きればいいと」

「……余計な苦しみが生まれない分それで幸せな人間もいるように思うが。貴様はそうは思ってないようだな?」

「ええ、そうですね。意識っていうのは過去と現在と未来。この三つの構造が奇跡的に関わり合って意識たり得るんです。そこから過去と未来を間引いてしまったら意識なんてもはや在ってないようなものです。それに現在だけ認識するっていうのは人間にとっては不都合な点が多いんです」

 小野は先端をしならせて矢印のように前方斜め四十五度から五十度の中間あたりを刺し示した。

 そこには自殺した人間の末路が垣間見えた。自殺という行為の全体を把握するのは難しい。過去との因果関係を脳が上手く処理できないからだ。だから、ただ在るがままを見ることしかできないのだが、それは間欠的に人が苦しみ悶える姿をパンドーラの眼に映し出した。

 断片的。であり。細切れ。であり。狂った。バグのような。映像だった。

「死は究極の救済という観念は無駄です。自ら死を遂げるということはその瞬間を永久に彷徨う行為そのものなんですから」

 パンドーラと小野が見つめ合う。小野はパンドーラの瞳に映し出された情景から小野が知る限りを彼女に教えてくれる。

「現在デーモンを排する方法はないのか?」

 パンドーラは神界の力を求めた。

「無駄ですね。この瞬間だって変動の只中なんです。いずれにしろ位相は変わります。それを待つほかないでしょう」

 歯がゆいが仕方がないようだ。

 パンドーラは「南無」と手を合わせると、空中を蹴って空を駆け上がっていった。


 現在を認識するなら、現在を認識し続ける限り地上に落下することはない。それはつまり、現在の状態を保存して突き進むこと。直観と常人ならない感性とでパンドーラはそう閃いたのだ。

「空中を蹴る感触が伝わらないから最初は気持ち悪かったが、慣れると爽快だ。かなり気持ちいいね。この世界ならではの気持ちよさだ」

「僕の力がいくらか作用した結果ですからあまりはしゃぎすぎるのはよくないと思いますよ。いつ落下するともしれないのだから」

「それだって、落下するという未来を予測できないのだから私には関係のないことだ。脳内では錯覚すら起きないよ。現在をより強く感じ続ける限り、きっと私は無敵だ」

 パンドーラは空中を縦横無尽に駆け回っていた。文字通り駆けているのだ。その足は見えない足場をぎゅいっと踏みしめる。空を駆けるパンドーラの速度はぐんと速くなった。

 現在デーモンはすべてを主観的に書き換える。相対的な時間概念の崩壊は今を記述することでしか維持できない世界を作り出した。ゆえに、パンドラ世界内でどのようなことが起こっているのかを正確に知るのは不可能だが、この主観性をうまく利用することでパンドーラの在り方を叙述することは可能だった。

 パンドラ世界はパンドーラの主観のみに依存する世界である。意識の不在は客観性を排除した。それは、強い主観によりどのような現象もある程度容認する。

 加速するパンドーラの前方にヘヴィの大群が壁となり彼女の障害として相対した。地上はすでに麩の感情で覆い尽くされていた。

「こいつらはあれを嫌って空に逃げてきたのか?」

 空に上がったヘヴィは舌棒で人間を消滅させた個体群だった。麩の感情の麩のエネルギーを嫌ったヘヴィの生活圏が変化した。

 地上に残された人々はヘヴィの大移動に歓喜したのもつかの間、続く麩の感情の侵食に怯え凍えた身体をしきりにこすり合っていた。

 麩の感情はあっという間に生存している人々を覆い隠してしまった。

 パンドーラは人々の様子を確認するためにさらに空中を駆けた。前方を厭らしい舌棒をくねらせるヘヴィの大群が彼女を捕縛せんと立ちはだかる。

「こんなもの。小野の力に比べたら!」

「あっひぃいいいいいいいいん!」

 小野の喘ぎ声が緊密に群れ為すヘヴィの塊に大穴を空けさせた。そこをいとも容易くパンドーラは潜り抜ける。ヘヴィの硬質で冷たい波動を近くに感じて、パンドーラは気が付く。

「これはすでに人であったものの次のステップなのか」

「消滅というより、共存共生の結果だったのかもしれないです」

「ま、正直こんな気色の悪い時点で人とは信じたくないな。たぶん本質はすでに別のものに変化してるんだろ?」

「おそらくは」

 ヘヴィが追ってくることはなかった。それは、パンドーラを引き留めたかっただけなのかもしれない。しかし、そういった推測はなんの感慨も生まない。

 パンドーラは現在を生きている。過去も未来も失われたパンドラ世界を生きているのだから。彼女の心は今にしかない。

「麩の感情。あれこそが人に害する本物の脅威か……」

 白とも黒ともつかない靄靄した揺らぎは地上に住居を持つ人々の姿を隠していた。

「あれが噴出してしまった原因、私が貴様を引き抜いてしまったからなんだろ?」

「済んだことだと言いましたよ」

 そうではあるが。それだけでは割り切れないのがパンドーラだった。小野ほどこの世界を楽しめていない? まさか。私は十分楽しんでいる。強い自意識が必要だった。たとえ誇大妄想だったとしても自立する強い意志が必要だった。

 麩の感情の上空に位置したヘヴィらが、舌棒を全開放するとそこから多量の分泌液を垂れ流し始めた。消滅させた人体の八十%に相当する人間の水分を雨に見立てて降り注いでいるのだ。

 舌棒の雨は麩の感情の認識しづらい靄靄をふにゃふにゃしたグルテンに変質させた。

 それでも麩の感情からあふれ出る麩のエネルギーを押し留めるには至らない。

 地上の人々から、実に楽しそうに輪を作って踊っている集団がいくつか出来上がり始めていた。

「あいつら何を? あれは温かいのか? なにか温かいものにむせび泣いているのか?」

 輪になって踊る集団は歓喜していた。幻の炎を囲って、その在り得ない温かさに雄叫びを上げ皆一様に汗を迸らせていた。

「人の作る熱気ってやつは高気圧を生み出して不浄な冷気を循環させているわけだな」

 パンドーラはそのように理解することにした。小野は振れない首を振ろうとしながら「ナンセンス」と目を光らせた。

 空中のヘヴィ団の舌棒からすべての水分がひねり出されると、その捩くれた体躯を裏返してヘヴィは冷ややかな印象の口を形作った。口はグルテンとなった麩の感情を貪り食った。

「ちょっとおいしそうに感じるのは気のせいだよな。よく解らない物質だし私が食べたら腹を下すかもしれない……でも気になる」

 パンドーラは抗い難い空腹感を実感して、それをすぐに忘れた。

「気のせいでしょうね。何かを見て何かを感じる。パンドーラさんにはまだそういう感性が生きているってことです。この世界で食事は不要です。現在が続く限りは」

「現在が続く限り麩の感情の侵食も終わらないのだろ。ならば、私も協力して硬化した麩の感情を食べればいいじゃないか」

「待ってください。見ていれば解かることです。あれを食べるってことはつまりそういうことです」

 何が!? と思う間に、歓声を上げる人々が一人また一人、だらりと瞳を垂れ流した虚脱状態を表し始めていた。

「あれが麩のエネルギーです」

「人にマイナスに作用し続けるってことか。私は結局見ていることしかできないのだな?」

「パンドーラさんが見続けることに意味があるのです」

「そこに希望は……いやなんでもない」

 がくがくと小刻みなしかし、確実に見て取れる震えを伴って人々の目鼻耳口から脳みそが蕩け出していく。

「いやいや、口からは脳みそ出んだろ」

 パンドーラの尤もらしい指摘に意味はない。そう見えたのならそう在るべきなのだ。

 頽れる人間の数、甚だしい限り。麩の感情を喰らい切れないヘヴィが爆散する。飛沫が雨あられとなって脳みそを蕩け出した人々の身体を穿っていく。硬質で冷徹な飛沫は人間の身体を貫通し大地の底に沈んでいった。

 人間を構成していた血肉はヘヴィの沈んだ大地の上で、うねうねとした軟体生物としてようやった生きているように見えた。絶対なる死はない。ただ在るのみ。それがパンドラ世界の理だった。

「無残だ。人間は無残だ。あまりに無力。あまりに自堕落。私に見せたい光景がこれだというのか? ならば私はこの目を抉り取ろう。そして、この地に還そう」

「それは贖いとは呼びません。自己満足……いや、自己否定です」

「私が貴様を引っこ抜いたんだぞ!」

「受け入れることも選択です。……悲しいのですか?」

「悲しみ、そんなものは解らない。見たくない、それは心理だ。人間ってそういうものだろ? でもそれらは失われた。いいや、なくても成立する世界なのだろう。それは認める大いに認める。だけど、このやり切れない感覚はなんだ? まだ、私が人の座に座り続けることが可能なら、私は最後まで人でありたいのだよ」

 小野の返事はなかった。パンドーラは初めてこの役立たずな棒きれを放り出してしまいたいとすら思った。その思いも即霧散するものだとしても。

 地に沈んでいったヘヴィが再び地上に戻ってくるとき、そこに人間は残っているのだろうか? 勿論、先を見据えた考えを持つことは出来ない。とはいえ、出来ないことと、出来ないことをしようとすることは別である。

 パンドーラの目には朽ちていく人の生々しい血肉が大地を潤していく様を如実に表していた。その目を覗き見る小野はやり切れないような震え方で、パンドーラの身体をゆすり続けた。

 震える小野のおかげでパンドーラは意図せず空中を水平に移動していった。

 二人は最初の亀裂の下へ速やかに辿り着く必要があった。目的地は目的を与えてくれる。パンドーラが現在にあり続ける理由。それを求めるべきかもしれない。それを求めるべきではないかもしれない。

 やがて静まり切った小野が口火を切った。

「パンドーラさんはどこまで行っても人です。それは普遍です。絶対です。あなただけが希望を見出せるのですから」

 小野の目はパンドーラの瞳を覗き込んでいた。その目は、パンドーラが見る世界を描き見ていた。それをパンドーラが覗き込んでいた。

 人類が荒んでもなお美しい世界がそこにはあった。

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