第3話


 破


 いずれにしろゼウスがその重い腰を上げることはなかったという。

 パンドーラのあずかり知らぬ領域では絶えず神々によるいがみ合いが続いていたけれども。原宇宙から発生したパンドラ宇宙にとって、そのような争いごとなど、どうでもいいことだった。……。


 φ


 パンドーラは片手に小野を携えてヘヴィな大地を睥睨していた。

 小野を旧庁舎に続く渡り廊下の床板から引き抜いてからどれほどのときが流れたか。しかし、人間的な時間概念が消滅したこのパンドラ世界ではそれを把握することに意味はなく、大した魅力も感じられない。

 いまや、ときというものは存在デーモンの住処となり、現在だけが時間概念のすべてになった。過去とか未来とか在りし日の郷愁や展望といった人々の拠り所となるものはなくなってしまった。とはいえ、現在しか在り得ないのだから、人類がそれについて絶望することはなかった。後悔すること自体、現在デーモンにコントロールされている。

「ぶっちゃけ私たちはこれからどこへ向かうのが正解なのだろうか……」

 パンドーラの呟きはパンドラ世界の影響をさほど受けていない印象だった。彼女にとって誕生したばかりの宇宙というものは我が子のような慈しみを抱くものなのかもしれない。

「だから、僕を引き抜いちゃ駄目っていったじゃないですか」

「でも、最高に気持ちよかっただろ?」

「ええ、……まあ、」

 ヘヴィによって地ならしされた大地は荒涼とし、見渡す限りが寒々とした青灰色の蠢きで卑猥なうねりを生み出していた。

 うねる大地には、数少ない人類がヘヴィに犯され今にも消えてしまいそうだった。ヘヴィの先端からひょろりひょろりと伸び縮みする粘着質な舌棒(zetubo)が変動から逃げ遅れた人々の股間に吸着していたのである。

その猥雑な光景の奥からは、深々とした陰鬱な雰囲気が可視化されていた。揺らめく陽炎のごとく、ヘヴィに吸いつかれた人々の喘ぎごと丸呑みにしようとしていた。おそらく、小野を引き抜いた亀裂の奥からあふれ出たに相違ない。小野が押し留めていたヘヴィと邪悪なオーラ――これを麩(hu)の感情と呼ぶことにする。パンドラ世界の根底に坐す摂理にあらがえる人類を現時点で見出すことは絶望的だった。

 パンドーラの胸中はぐちゃぐちゃに掻き混ぜられていた。

「私の所為だと言いたいのか?」

「べつに、責めたりしませんけど。僕の忠告も少しは聞く耳を持つべきだったと思うだけです」

 小野は済んだことです、と唯一自由に動かせる口を歪めて音を発していた。先ほどからあーだこーだ言う割に淡白な反応を示されてパンドーラの気分は余計に鬱気味に傾いた。

「済んだことですって? 面白いこと言うのね」

 じっとしているのも性に合わない。折角だからこの世界の在り様を眼に刻み付けよう、ぐらいの感覚でパンドーラの足はその一歩を踏み出した。

 行く先は不毛で汚らわしいものだが、人間の在るところに希望がないとは言い切れない。あるいは、この大変動を愉しむ気概を持とうと思う次第であった。

 その辺りを探せば竹槍を見つけることも容易だったが、パンドーラは敢えて小野を携えることにした。

 小野は話を返してくれる。これは貴重な存在だった。パンドーラがついつい溢してしまう呟きがこの変動の只中に放り出されてそれでおしまい、それではあんまりだ。パンドーラは呆気なく悲しい気分になってしまうだろう。

 パンドーラとて血が通った一人の人間である。感傷的な側面があったところで不思議ではない。

「悪いが小野。これから私は渦中に飛び込むから、付き合ってくれ」

「僕に人間大の拒否権なんてあるんですか?」

「はっ、そうだったな」

 一本の槍の如くいきり立った小野が少しだけ温かみを増したような気がした。たぶん気のせいだろう。

 パンドーラの第一歩は眼前の地を這うヘヴィを踏みにじるところから始まった。


 人が瞬く間に消えていく。そんな光景をあなたは見たことがあるだろうか? 想像してみよう。人の輪郭が薄れて解けていく。解けた輪郭は元には戻らない。人を形作っている根本的な境界線が消失する。それは人を人たらしめていた成分が空気中に滲んで溶けだすことを意味する。はらはらと空気中に漏れ出した人の形は薄れて薄れてやがて眼に見えないほど薄くなって消える。

 そんな映像を思い描けたのなら申し訳ない。人はもっと極端な描写で消えてしまうからだ。

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