第2話


 φ


 パンドーラは昼休憩からずっと我慢していた腹痛が頂点に達すると、第三会議室を飛び出たすぐ隣に設置されている女子トイレに駆け込み大便をしわしわの肛門から弾け出した。

 冷汗を額に滲ませるも紙は十分にあった。水の流れも正常。音姫の旋律は麗らか。糞切れはとてもよく、数回紙ロールで肛門を撫でるに済んだ。これは幸いだった。パンドーラは痔を患っていたからだ。

 パンドーラはトイレを出てすぐに会議室に戻るのかと見せかけて旧庁舎へと続く渡り廊下を目指した。

 妙な胸騒ぎがあった。この庁舎内で何か劇的な変化が始まろうとしている、そんな確信がパンドーラの脳裏を過った。

 渡り廊下の床板は所々腐食していてみだりに足を踏みいれるのは危険だった。近々、旧庁舎は取り壊される予定だから、入り口にはきちんと立ち入り禁止のバリケードが張られていた。パンドーラはちらとバリケードの注意書きに目をやり、躊躇することなくブルーシートを潜って廊下に出た。

 つんと鼻を刺す腐りかけの木材の臭い。心なしか旧庁舎の方は暗い印象だった。

「あああああ……」

 パンドーラの耳は金属の擦れあうような鳥肌ものの不協和音を聞き取った。

 間違っても床板を踏み抜かないよう注意しつつ足を運ぶと、音の発生源を特定した。

「小野……」

 そこで、小野は床板に突き刺さっていた。頭は半ばまで床板を穿ち身体は斜めにぴんと突っ張っていた。それはまるで槍のような完璧なフォルムだった。

「小野、会議をさぼって何をしている?」

 あるいは斧のような小野だろうか? ぷくくと声を出さずにパンドーラは笑った。しかし、果たしてこれは抜けるのだろうか? かけた声とは裏腹にパンドーラの脳は冷静に小野の状態を分析していた。

「小野、貴様の穴埋めをしてやった私の立場を理解しているのか?」

 鷹揚な振る舞いのパンドーラは確信していた。このまま、小野を床板から引き抜くことはこの世界のありようを根底から覆す大変動を来すであろうと。

「まあ、だからと言って貴様が席に居ようと居まいとに拘わらず結論など決まっているだろうがな」

 会議というのは名ばかりの無駄に時間を消費して給金を頂く、そういう姑息な仕組みが当然のようにまかり通っているのが社会というものだ。

「ところで小野よ。貴様はなぜに床に頭を突っ込んでいるんだ?」

 小野の足を掴んでみると温くて柔かった。パンドーラは眉根を寄せて手の中の感触を吟味した。端正な顔立ちを不自然な変顔に変えて、彼女は無心に小野の足を弄んだのであった。

「パンドーラさん? そこにいるのは、パンドーラさんですよね?」

 その時、小野の突き刺さった床板の切れ目からか細く湿っぽさを孕んだ声が漏れ出てきた。顔面を腐朽し切った床下に埋めた小野自身の声だった。

 何か美味しいものでも食べているのかしらん。妙に湿っぽい声音からは口中にたっぷりとした唾液が含まれているように思えた。

「パンドーラさん! お願いです、僕を絶対に床から引っこ抜かないでください。いいですか? 絶対にですよ!」

 神妙な面持ちをより深いものにしたパンドーラは〝否〟と唱えた。

 そんなことを言われては何がなんでも引き抜きたくなるというのが、神話的情緒というものだろう。

「よし解った。小野、気張れ。今から貴様をこの腐った床板から引き抜く」

「いや、待ってください! 何を聞いてたんですかパンドーラさん? 正気ですか?」

「私はいついかなる場合も冷静さ」

 パンドーラはとてもいい笑顔を浮かべて言った。小野の斜め一直線に突っ張った身体がにわかに戦慄いたようだった。

「僕は知りませんからね! どうなっても知らないですからね。だいたいパンドーラさん自身この状況がすでに取り返しのつかないものだって気が付いてるんじゃないですか?」

「はっは、当然。よく理解しているつもりだ。しかしだね、私にはこれがどうしても引くわけにはいかない状況である可能性も視えているんだ」

「パンドーラさんが何を言っているのかわかりません」

「いいさ。直に理解が追い付いてくるはずさ」

 パンドーラは小野の拒絶を一蹴し、細くくねった指先を槍の如き小野の太ももに触れさせた。

「あひぃ!?」

「厭らしい声を出すんじゃないよ。興奮するじゃないか!」

 床下に顔面を埋める小野の太ももの握り心地は、およそこの世のものとは思えない柔さをパンドーラの触覚にもたらした。

「誘っているのか……そそるじゃん……」

 五感は鋭さを増し床に突き刺さる小野の総てを感じ取れるような気がした。この握り心地、手足の延長のような全能感。まるで世界を、その地を這う根で固く支える偉大なる大樹のごときではないか! パンドーラは感嘆の念を抱くとともに艶然と吊り上がった唇を舐めるのだった。

「これは。小野の身体は地球と一体になったようではないか!?」

「あ? ぃひっぉい――」

 パンドーラは全なるものを感じ取り、小野を握る手から伝わる総てを包み込むような温かい重みを全身で堪能した。

 小野自身からは重さというものを感じられなかった。まるで、初めから重さなど存在しなかったのではないか? とすら思えてならない。しかし、パンドーラがどれだけ力を振り絞っても小野を腐った床板から引き抜くことは出来なかった。

「床は腐っているんだ。私程度でも引き抜くことは出来るはずなのに……」

 おそらく、大いなる意思が小野を取り巻くこの状況を支配しているのだろう。あるいは、何かが引っ掛かっているだけかもしれない。

「ふざけるなぁあああああ!!」

 パンドーラは絶叫を上げた。そして、身内に秘められた女性的包容力を丹田にため込んだ次の瞬間、小野の先端から末端までを神秘の力が駆け巡った。

「ん、ん、んんんんんんんん~~~~~……」

 小野はしっとりとドライオーガズムした。

 すぽん。と間抜けな擬音が辺りに響き渡った。それを皮切りにして、小野が深々と突き刺さっていた床板の亀裂からヘヴィが噴出した。

 ヘヴィの固く冷徹な重みがパンドーラの身体に纏わりつき庁舎内から押し流した。

「おっのーう!」

 パンドーラの叫びは庁舎の渡り廊下を駆け抜け外の世界へと吹き抜けていった。

 庁舎はあっという間にヘヴィで満たされ破裂し、消滅した。

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