五章 狭量な神

第24話

 ハナコさんが案内したのは、予想通り用務員室だった。


「静真和花はそこのソファへ寝かせておけ」


 言われた通り、黒い革製のソファへ和花さんを寝かせる。

 倒れた直後は苦しそうな様子だった和花さんだが、今は少し落ち着いていた。


「あの、和花さんは……」


「少し待て。今、記憶を照合している」


 ハナコさんは、机に置いていた一冊のノートをペラペラと捲りながら言う。


「日誌の内容と私の記憶に齟齬があるな。……ふむ、やはりおかしいのは私の方か」


 その呟きを聞いて、俺はある可能性に思い至った。

 そうか、俺の記憶がおかしくなっている可能性もあったわけか……。


「薄々予想はしていたが、どうやら私の記憶は改竄されているようだな」


「……予想していたんですか」


「記憶に干渉する祟りと関わっている以上、この展開もある程度は警戒していた。……幾つか質問する。全て正直に答えろ」


 ハナコさんは手元のノートに視線を落としながら言った。


「名と年齢は」


「御嵩悠弥、十六歳です」


「神事会に務めて何年になる」


「まだ一ヶ月も経っていません」


「お前の体質は?」


「……天照大御神に哀れまれた人間です」


 ハナコさんの問いに対し、できるだけ丁寧に回答していく。


「階位と身分は?」


 その問いに、俺は少し考えて答えた。


「……ありません。知らされていないだけかもしれませんが」


「何処の氏子だ?」


「うじこ……って、何でしょうか?」


「修験道は何処で積んだ? 流石に験力くらいは示してもらわんと信用できんぞ」


「……すみません。何を言っているのか、分かりません」


 ハナコさんの瞳がスッと細められる。


「私が貸した一万円はいつ返すつもりだ」


「えっ!? あ、あれは俺の給料から前借りしたものでは……?」


 困惑しながら答えると、ハナコさんはノートを閉じて「ふむ」と呟いた。


「整合性は取れている。フェイクにも引っ掛かっていない。本人で間違いないようだな」


「……疑り深いですね」


「こちらは記憶を失っているんだ。他人のなりすましくらい警戒する」


 そう言われると何も言えない。

 口を噤む俺に対し、ハナコさんは微笑した。


「お人好しめ、逃げなかったのか」


 その言葉の意味が理解できず、俺は無言で首を傾げる。


「祟りの恐ろしさは痛感できただろう。我々の記憶がなくなった今、お前は容易にこの世界から逃げられた筈だ」


 確かに、祟りの恐ろしさは痛感できた。ハナコさんに「誰だ」と問われた時は、頭の中が絶望に染まりかけた。けれど――逃げることはできなかった。


「何も知らなかった以前の俺ならともかく、今の俺には……助けたい人がいます。逃げるわけにはいきません」


 祟りなんて関係ない。

 神事会なんて関係ない。

 ただ俺は、和花さんを救って、凛音ともう一度やり直して欲しいだけだ。


「……そうか」


 ハナコさんは薄く笑みを浮かべ、ソファで寝ている和花さんに視線を注ぐ。


「静真和花は無事だ。神痕がいつもと違う力を発揮したせいで、体力が一気に吸い取られたのだろう。暫く休ませていれば目を覚ます」


「……どうして、こんなことが起きたんでしょうか」


「まあ、切っ掛けはお前だろうな」


 淡々と、ハナコさんは言った。


菊理媛神ククリヒメノカミは、縁解きの祟りで静真和花を懲らしめている最中だ。しかしそこへ、いきなりお前が現れて邪魔をしたんだから、神が腹を立ててお仕置きをしても無理はない」


「じゃあ、俺のせいで和花さんは……」


「気にするな。この程度の接触でトラブルが起きるなら、遅かれ早かれ起きていた」


 そう言ってハナコさんは視線を落とす。


「思った以上に狭量な神だな。……和解は難しいか」


 険しい顔で、ハナコさんは独り言を呟いた。


「しかし、お前に声を掛けられた時は焦ったぞ。私は最初、とんでもない霊能力者がこの国を侵略しにきたのかと思った」


「とんでもないって……俺はただ神に哀れまれただけの人間でしょう」


 溜息混じりに言うと、ハナコさんは目を丸くした。


「お前まさか――本当に自分が貧乏だからという理由だけで、天照大御神から哀れまれたと思っているのか?」


「……へ?」


 急に訳の分からないことを言われて困惑する。

 それだけも何も、それこそが哀れまれた理由だった筈だ。


「……余計なことを言ったな、今のは忘れてくれ。まあ当時のお前にとって、賽銭箱に落とした百円はそれだけ大きな価値があったんだろう」


「そりゃそうですよ。百円あればモヤシが五袋も買えるんですよ? 当時の俺にとっては夕食十日分です」


「……この件が解決したら、飯を奢ってやる」


 同情の眼差しが注がれる。


「さて――今後の方針だが、少し厄介なことになってしまった」


 ハナコさんは言う。


「悠弥。静真凛音という人物は知っているな?」


「それは勿論、知っていますが……まさか、ハナコさん。凛音のことも……?」


「ああ、忘れている。どうやら凛音もお仕置きの対象にされたようだ」


「そんな……俺と和花さんが話している間、凛音は傍にいませんでしたよ?」


「直前までお前と一緒に行動していたから、仲間だと思われたんだろうな。加えて……凛音の心境にも変化があったんだろう」


 心境の変化。その意味が分からず眉根を寄せる俺に、ハナコさんは言う。


「家族という縁は理不尽なほど強力だ。それ故に縁解きの引き金にもなりやすい。……同じタイミングで、静真和花の方でも凛音を連想する出来事があったんじゃないか?」


「……あ」


 幼い凛音と和花さんが写っていた、あの写真を見た時だ。


「お前には言っていなかったが、あの二人を必要以上に近づけるのは好ましくない。縁解きが頻繁に起きてしまうからな」


「……すみません」


 縁解きを防ぐためには、和花さんと必要以上に接触しなければいい。

 俺は特殊な体質であるため問題ないが、それを他の人に当て嵌めてはならない。


「当面の問題は凛音の方だ。お前は自らの体質で自分の記憶を守れたが、凛音はそうもいかない。恐らく今の凛音は静真和花とほぼ同じ状態になっているだろう」


「……お仕置きってレベルじゃないですよ、それ」


「神レベルのお仕置きだからな。と言っても、所詮はお仕置き。静真和花のものと比べて一過性だ。つまり放っておけば治る」


 それなら、焦る必要はないのか?

 そう思ったが――。


「治るが……縁解きの祟りは広範囲へ伝染する。姉の方だけでも歪みの対処で精一杯だったんだ。妹の方をこのまま放置すれば、歪みが洒落にならん規模まで拡大してしまう」


 そう言ってハナコさんは俺を見た。


「ここからは短期戦だ。縁解きは、一刻も早く解消しなくてはならない」


「短期戦ですか? 前は長期戦と言っていましたが……」


「以前の私ならそう言うだろうな。神の怒りを鎮め、和解するには、できるだけ神を刺激しないよう慎重に事を運ぶのが定石だ。しかし既に敵対対象として目を付けられた以上、被害が拡大する前にケリをつけるしかない。……さて、どうするべきか。貢ぎ物の用意も不十分だしな。気は進まないが、強攻策に出るしかないか……」


 ハナコさんは顎に指を添えて思考する。


「とにかく、まずは凛音を探してこい」


「はい」


 凛音を和花さんの近くまで連れて行ったのは俺だ。責任を取らねばならない。


「……悠弥。張り切っているところに水を差すようだが、無茶はするなよ」


「別に俺は、無茶なんて……」


 全くしていませんよ――そう言おうとしたが、何故か言葉は出てこなかった。

 急に視界が霞む。平衡感覚が失われ、俺はいつの間にか四つん這いに倒れていた。


「あ、れ……?」


 鼓動が激しい。止めどなく汗が流れ出る。

 なんだこれ? 俺の身体に何が起きた?


 胸の辺りに違和感がある。俺は蹲りながら、襟を開いて自身の胸を見た。

 胸の中心に――赤黒い亀裂が走っていた。


「う、あぁ――ッ!?」


 自分の身体に、明らかな異常が生じていた。それを目の当たりにして混乱する。

 そんな俺を見て、ハナコさんは小さく頭を下げた。


「すまない。本当はそうなる前に、片を付けたかった」


「な、何ですかこれ……何が、起きているんですか……!?」


 蹲る俺に、ハナコさんは神妙な面持ちで告げる。


「儀式も供物も捧げずに、人の身でありながら神の力を借りるなど、本来ならあまりにも恐れ多いことだ。……その力に頼り過ぎると、いつか人間を辞めることになるぞ」


「に、人間を、辞めるって……じゃあ、何になるんですか」


「人でも神でもない、ナニかだ」


 決して冗談ではない。それはハナコさんの表情から理解できた。


「お前の力にはリスクがあると予想していた。だから、頻繁にその力を使わせるつもりはなかったが……すまない。背に腹はかえられない状況となってしまった」


 ハナコさんは、苦虫を噛み潰したような顔で言う。


「今回の件でお前の身に何かがあった場合、その責任は私が必ず取ろう。だから、どうかもう少しだけ手伝ってくれ。……お前の力が必要だ」


 頭を下げて――あのハナコさんが、謝意と誠意を見せて言う。

 それは、俺の混乱を鎮めるには十分過ぎる光景だった。


「……言われるまでも、ありません」


 弱腰になった自分に活を入れるように、俺はもう一度はっきりと伝えた。


「言った筈です。今の俺には、助けたい人がいます」


「…………そうか」


 和花さんだけではない。凛音も、助けなければならない。

 あの姉妹はもう十分苦しんだ。きっと今の俺よりも深く傷ついてきた。

 だから俺は――あの二人が姉妹に戻るためなら、なんだって協力してやるつもりだ。


「お前を部下にして正解だった」


 ハナコさんが不意に告げる。

 風の音の如く、聞き逃しそうな声だったが……俺の耳にはしっかり届いていた。


「……そういうのは、全部終わってから言ってください」


 そんな俺の言葉を聞いて、ハナコさんは「そうだな」と微笑した。


「しかし、人を辞めるか。……ふむ。やはり、それしかないか」


「どうかしたんですか?」


「いや……今回の件の、解決策を思いついただけだ。……あまり気は進まないがな」


 呟くようにハナコさんは言う。


「急いで凛音を探せ。これ以上、歪みが拡大すると面倒だ」


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