第23話
和花さんが住んでいるのは、学校から徒歩五分の場所にあるマンションだった。駐輪場は広く、エントランスも掃除されている。学生の一人暮らしにしては高価な物件だ。
「あの、やっぱり私……外で待っています」
インターホンで和花さんを呼び出そうとすると、背後で凛音がそう言った。
「ここまで来ておいて、今更それはどうなんだ」
「あ、会ったところで、私と姉さんの間に縁は作れません。へ、下手に踏み込んだ会話をすれば、また祟りが発生するだけです」
本当に――日頃の振る舞いから感じる印象とは、真逆の本性だ。
臆病というか、気弱というか。
「話は俺がするから、凛音は傍で聞いているだけでもいい」
「……駄目です。待っています」
「いいから行くぞ」
「い、嫌です……っ」
凛音の細い腕を引っ張ると必死に抵抗された。しかし凛音の体重は軽い。このまま引っ張っていけば和花さんの部屋まで連れていけそうだが――ふと、視線を感じて振り返る。
マンションの外で、俺たちの様子を見ている主婦がいた。その主婦は警戒心を露わにしながら、やたら素早くスマートフォンを操作する。
「違うんです。誤解です。通報しないでください」
「通報してください」
「凛音!?」
その冗談は洒落にならないので、すぐに凛音を放す。
唇を尖らせる凛音に、俺は溜息を吐いた。
「……分かった。じゃあ俺一人で行くから……長くなりそうなら連絡を入れる」
そう言って俺はインターホンで和花さんを呼び出し、ドアの鍵を開けてもらう。入り口で不機嫌そうに佇む凛音を一瞥してから、一人で和花さんの部屋へ向かった。
「いらっしゃい! 待ってたよ!」
チャイムを鳴らすと、すぐに元気良さそうな声と共に和花さんが出迎えてくれる。
「お邪魔します」
「えへへ、お邪魔されまーす」
「機嫌いいですね」
「うん! 友達が家に来てくれるの、初めてだから!」
明るい笑みを浮かべる和花さんに、俺も思わず笑った。家に来る? と誘われた時は驚いたが、和花さんは純粋に友達を自分の家に招いてみたかっただけのようだ。
部屋の間取りは1Kだった。キッチンも洋室も綺麗に整理されている。ベッドの布団も綺麗に畳まれており、本棚に並ぶ本もサイズごとに分けられていた。
「家でも、写真を飾っているんですね」
勉強机の上にある、複数のフォトフレームを見ながら言った。
「賃貸だから部室みたいには飾れないけどね。家では本当に大事な写真だけ飾っているの」
ひとつひとつの写真を大切そうに見つめながら和花さんは言った。
参った。……これから大事な話をしないといけないのに、中々そんな気分になれない。
「悠弥君、晩ご飯はもう食べた?」
「いえ、まだですが……」
「簡単なものでいいなら用意できるけど、食べる?」
そう尋ねる和花さんの瞳は、キラキラと輝いていた。
是非食べていって欲しい。案にそう告げる和花さんの態度に、俺は苦笑する。
「じゃあ、お願いします」
食事をしながらの方が、会話は円滑に進むかもしれない。
――やっぱり、凛音には先に帰ってもらった方がいいかもな。
元々、和花さんとの話は慎重に進めるつもりだった。説明だけなら十分も掛からないが、和花さんが理解するまでの時間を考えると、一時間……下手すれば半日はかかる。
ハナコさんに貰ったスマホを操作し、凛音に入れてもらったライン? を起動する。
「……なんだこれ。どうやって使えばいいんだ?」
「悠弥君、どうかした?」
「あ、いえ、なんでもないです」
スマホを翳しながら悪戦苦闘する俺に、キッチンの方から和花さんが声を掛けてくる。
アプリの操作に苦戦していると、ガタンと小さな物音が聞こえた。
傍にある机に肘を当ててしまった。その衝撃で、上に置いていたフォトフレームがひとつ落下する。それに気づいた俺は、フレームが絨毯に落ちる前に辛うじて受け止めた。
安堵に胸を撫で下ろし、立ち上がる。
フレームを机の上に戻そうとした時――――俺の目は、その写真に釘付けになった。
「この、写真は……」
手が震えた。
この写真が、ここにある意味を、俺は瞬時に理解してしまった。
「……その写真が切っ掛けで、私は写真部に入ったの」
いつの間にか背後にいた和花さんが、写真を見て言う。
その写真には――二人の幼い女の子が写っていた。
公園で撮った写真なのだろうか。少女たちは遊具のある広場を背にして並んでいる。二人とも、無邪気な子供らしい屈託のない笑顔を浮かべていた。
「左に写っているのが私だね。多分、十歳くらいと思う。隣に写っている女の子は、私のお友達……だったのかな。薄情な話だけど、私、この子のことを全然覚えていないの」
寂しそうに、和花さんは言った。
「でもね、なんでか分からないんだけど、私、この写真を見ていると心が温かくなるの。懐かしい気分になるというか、大切な思い出に浸っている気分になるというか……悲しい時も、落ち込んでいる時も、この写真を見たら、また頑張ろうって気持ちになる」
大切なものを慈しむような目で、和花さんは写真を見ていた。
「だから私は、こういう写真が撮りたいと思って、写真部に入ったの」
そう言って和花さんは話を締め括った。
腕の震えを抑えながら、俺はその写真を机の上に置く。
和花さんは、隣に写るもう一人の女の子が誰なのか分からないと言っていた。
だが、俺には分かる。
――凛音だ。
和花さんの隣に写る幼い少女は、凛音だった。
「あぁ……」
両目を強く閉じる。
天を仰ぎたい気分だった。まさか、こんなものを見てしまうなんて。
和花さんは言った。この写真を見ていると懐かしい気分になると。大切な思い出に浸った気分になると。
それは気分ではない。本当にその通りなのだ。
和花さんは、潜在意識で家族の温かさに焦がれている。たとえ縁を解かれても、記憶を失っていても、かつての幸福な日々が本能に刻み込まれている。
凛音――――おい、凛音。
どうしてお前は今、この場にいないんだ。
やはり無理矢理にでも、凛音を連れてくるべきだった。
――二人は絶対に、やり直せる。
凛音は和花さんを姉として迎え入れることに不安があると言っていた。
だが、その不安は杞憂に終わるだろう。
だって、この写真に写る凛音は――とても幸せそうに笑っている。
これこそが在るべき姿なのだと、目の前の写真は示していた。
凛音と和花さんは、絶対、姉妹に戻るべきだ。
「……撮れますよ」
俺は言った。
「きっとこれから、こういう写真を沢山撮れますよ。色んなところに出かけて、誰かを……自分を元気づけられるような写真を沢山撮りましょう。俺も、一緒に手伝います」
祟りさえ解ければ、和花さんはこれからそういう写真を沢山撮ることができる。
凛音と一緒に。妹と一緒に。また、こういう写真が撮れる。
「……ありがとう」
和花さんは、呟くように言う。
「……悠弥君は、どうしてそんなに優しいの?」
「優しい、ですか?」
「優しいよ。だって、今までそんな風に言ってくれた人、いないもん」
――違う。本当はいた筈だ。
和花さんにも家族や友人がいた。ただ今は、それを全て忘れているだけだ。
「あのね。今まで黙っていたけれど……私、友達がいないの」
俯いて、和花さんは言う。
「多分、私に問題があると思うんだけど……いつも、知り合いにはなれても、友達になることはできないの。なんでだろうね……距離感を掴むのが苦手なのかな。施設にいた時も、学校にいる時も、私、ずっと一人だったの」
いつになく悲しそうに和花さんは言う。
「でも、悠弥君は違った。悠弥君だけは何度も私に優しくしてくれる。私は多分、何も変わっていないのに……悠弥君だけは、仲良くしてくれる。……それって、どうして?」
伏せていた顔を持ち上げ、俺のことを真っ直ぐ見て和花さんは言った。
「違うんです……違うんですよ、和花さん」
その誤解があまりにも悲しくて、俺は震えた声で返す。
「本当は、それが普通なんです。俺だけじゃない。本当はもっと色んな人が、和花さんの友人になりたいと思っています。和花さんがそんな風に苦しい思いをしているのは、和花さんのせいじゃないんです……」
こんなことを言っても、和花さんには何一つ伝わらない。
だからせめて俺は、今の時点で伝えられることを伝える。
「和花さんは一人じゃありません。少なくともここに一人、和花さんの友人がいます」
「悠弥君……」
目尻に涙を溜めた和花さんが、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
たとえ自覚がなくても、理不尽な力によって孤立を強いられている少女が、悲しみを抱いていない筈がなかった。曝け出された心の傷は、今も深々と抉られている。
和花さんは救わなくてはいけない人だ。
そして凛音は、和花さんとやり直すべきだ。
寄りかかってくる和花さんを抱き留めながら、俺は二人を救う覚悟を決め――。
『可哀想に』
「――え?」
その時、何故か声が聞こえた。
『可哀想』
「ちょっと、待て……」
『哀れな』
「何が、起きている……!?」
この声が聞こえるということは――俺の体質が、力を発揮しようとしている。
神々が今の俺を見て、力を貸したいと思うほど哀れんでいる。
何故? 今の俺のどこに、哀れまれるところがある?
『助けてあげましょう』
和花さんの全身から黒い霧が放たれるのと、その声が聞こえるのは、ほぼ同時だった。
黒い霧は俺に触れる直前、白い光に阻まれて霧散する。だが俺の身体に触れなかった霧は部屋の窓、壁、床をすり抜け、瞬く間に外へ波及した。
一瞬のことで何が起きたのか全く理解できない。
気がつけば、俺の目の前には倒れた和花さんがいた。
「和花さんっ!?」
床に横たわる和花さんに駆け寄り、上半身を起こす。反応は全くない。身体が僅かに上下しているため生きていることは分かるが、意識が戻る気配はない。
どうすればいい? これは明らかに――祟りに関する問題だ。
「そうだ、電話っ!」
こういう時のためのスマホだ。
ポケットからスマホを取り出して、アドレス帳を開く。最初から登録されていたハナコさんの電話番号をタップし、通話を開始した。
電話はたったの一コールで繋がった。通話が始まると同時に俺は叫ぶ。
「ハナコさん!」
『――誰だ』
冷徹な一言が聞こえた。一瞬、頭が真っ白になるが、すぐに答える。
「誰だって……俺です! 御嵩悠弥です!」
自分から勝手にアドレス帳に登録しておいて、俺の電話番号は登録していなかったのか。
小さな苛立ちを押し殺す。今はそんなくだらないことを気にしている場合ではない。
「和花さんの様子が変なんです! 多分、縁解きの祟りがまた発動したんじゃないかと思いますが……何というか、前回とは感触が違って……」
『……今、何処にいる』
「の、和花さんの家です」
『学校に来い』
その一言だけを告げて、ハナコさんは通話を切った。
何をする気か全く分からないが、素人の俺はハナコさんを信頼するしかない。
倒れた和花さんを背負い、部屋の外に向かう。
学校に呼んだのは、そこに用務員室(拠点)があるからだろう。和花さんの家と近くて助かった。
「……あれ?」
マンションを出たところで、凛音がいないことに気づく。
先に帰ってしまったのか? 席を外しているだけかもしれないが、今は和花さんのことを優先したい。凛音への連絡は後回しにして、とにかく少しでも早く学校へ向かう。
すっかり暗くなってしまった外を、二分ほど全力で走った。
校舎が見えてきたところで――眼前に、真紅の髪を垂らした女性が現れる。
「お前が、御嵩悠弥か」
スカジャンを羽織った赤髪の女性。
要天ハナコは、そう言って――不可思議な模様が刻まれた札を、掲げた。
次の瞬間、俺の周囲でバチリと火花が散る。
「な――っ!?」
「動くな」
鋭い目つきでハナコさんは俺を睨んだ。
「何処で私の連絡先を知った。何故、縁解きについて知っている。そもそも――」
ハナコさんは、最悪の言葉を口にした。
「――お前は誰だ」
完全に想定外の言葉を告げられ、俺の混乱は最高潮に達した。
息すら忘れるほど驚いて、窒息する寸前で我に返り、俺は――悟った。
「まさか……俺のことを、忘れて……」
俺の呟きをハナコさんは否定しなかった。
――そうか。
先程、神々の哀れみが発動した時、俺は違和感を覚えた。前回、縁解きを無効化した時とは異なる感触がしたのだ。その理由が今、発覚する。
今までの縁解きは和花さんが中心となって発動していた。
しかし今は――俺自身が縁解きの対象となっている。
和花さんとの縁ではない。俺の、あらゆる縁が断たれている。
「その力で何をするつもりだ」
「な、何もしません。俺はただ、和花さんを……」
「戯言を抜かすな」
敵意に満ちた視線に射貫かれる。
「私の目は節穴ではない。……その霊格、世界で五指に入るだろう。それほどの霊能力者が何故この地にいる。八百万の神で百鬼夜行でもする気か? この国を滅ぼすつもりか?」
先程からハナコさんが何を言っているのか分からない。
混乱と同時に、激しい焦燥も湧いた。
――こっちには余裕がないんだ!
和花さんの体調が心配だ。ひょっとしたら一刻を争う事態かもしれない。
こんなことをしている場合ではない。そう判断した俺は、決意した。
「土下座します!」
「は?」
俺は和花さんを静かに地面へ寝かせた後、素早く土下座をしてみせた。
「話を聞いてください! お願いします!」
額を地面に擦り付ける。
「演技をするにしても、もう少しマシな方法が――」
「これが演技に見えますか!」
額に砂利が食い込んだ。
完全な静寂が場を包み込む。
「……場所を、変えるぞ」
やがて、ハナコさんは呆れた様子でそう言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます