第22話

 放課後。俺は写真部の戸を叩いた。


「失礼します」


 部室には既に和花さんがいた。

 椅子に座っていた和花さんは、俺の顔を見て朗らかに笑う。


「入部届、正式に受理されたよ。これで悠弥君も写真部の一員だね」


「はい。これからよろしくお願いします」


「こちらこそ!」


 和花さんは満面の笑みを浮かべる。


「じゃあ早速、活動しよっか!」


「今日は何を撮影するんですか?」


「学校の風景を撮影しようと思っているの。テーマは、学校に馴染みつつある新入生かな。春は新鮮な風景が沢山あるから、写真部にとってはいい季節だよ」


 わくわくした様子で、和花さんはカメラを用意した。

 俺も鞄からデジカメを取り出したところで――ある疑問を抱く。


「……和花さんは、一昨日のことを覚えてるんですよね」


 不意に呟いた俺に、和花さんは目を見開いて答えた。


「わ、忘れるわけないよ! その、凄く……楽しかったし」


「……俺もです」


 部室を出て、和花さんが鍵を閉める。


「和花さん。このデジカメ、凄く使いやすいですよ」


 廊下を歩きながら、俺は和花さんに言った。


「そのカメラ、昔流行った型だね。悠弥君ってやっぱりカメラに詳しいんじゃないの?」


「……いえ、偶々評判のいい型が手に入っただけです」


 その問答で、縁解きの影響を把握する。


 ――先々週の記憶を取り戻したのは俺だけか。


 俺の体質によって無効化されたのは、あくまで俺を対象とした縁解きのみらしい。縁というのだから、片方が回復すればもう片方も回復するのではと思っていたが、俺の力で強引に無効化したため半端な状態になっているようだ。……当然か。縁は一方通行の概念ではない。双方の記憶が回復することで、再び結ばれるのだろう。


「和花さん」


 校庭の写真を撮影する和花さんへ、俺は言う。


「今日の活動が終わってからでもいいので、少し時間を作ってもらってもいいですか? 大事な話があるんです」


 雑談ではなく真剣な頼み事だと察した和花さんは、撮影を中断して振り向いた。


「分かった。じゃあ今日はちょっとだけ早めに切り上げよっか」


「ありがとうございます」


 礼を言いながら、俺は和花さんにどうやって事情を説明するか考えていた。

 話すべきことは山ほどある。神事会という組織や、凛音、ハナコさん、俺の体質について、そして和花さんの祟りについて。ゆっくりと説明しなければならない。

 和花さんから貰ったデジカメを起動し、モニタを見つめていると――凛音の姿が映った。


「……凛音?」


 こちらの存在に気づくことなく、凛音は校庭を歩く。その顔は酷く青褪めていた。今にも泣き出しそうな目を隠すかのように下を向き、覚束無い足取りで外へ向かっている。


「……和花さん。ちょっと、失礼します」


 和花さんに一言断りを入れて、俺は凛音のもとへ向かった。


「凛音。何処に行くんだ?」


「……散歩です。夜まで時間がありますので」


 答える凛音の声は、僅かに震えていた。


「何かあったのか?」


「……先輩には関係ありません」


 そう言って凛音は踵を返し、学校の外に出た。

 鞄を持っていなかったということは、また帰ってくるのだろう。今日の夜も、凛音は屋上で巫女舞をしなければならない。その役割を果たす気はあるようだが……。


「……行っちゃったね」


「……そうですね」


 後ろから様子を窺っていた和花さんと共に、俺は遠退く凛音の背中を見届けた。

 丸められたその背中を見て確信する。明らかに様子がおかしい。いつもの凛音は、背筋を正して自信に満ちた表情をしている。それが今では、触れるだけで散ってしまいそうな儚さを醸し出していた。日頃の気丈な態度が、今は全くない。


「……和花さん、すみません。急用ができました」


 こちらの意図を察したのか、和花さんは特に驚かなかった。


「大事な話は、また今度でもいいの?」


「そう、ですね。早いに越したことはないんですが……」


「だったら今日の夜、私の家に来る?」


「……はい?」


「多分、直接話した方がいいことなんだよね? ……私の家、学校から歩いて行ける距離にあるの。悠弥君さえよければだけど、落ち着いて話したいなら私の家を使う?」


「いや、でもそれは、流石にご迷惑では……」


「全然迷惑じゃないよ。私、一人暮らしだから、こういう時は融通が利くの」


 夜という時間帯に、男が一人暮らしの女性を尋ねる。それが非常に邪推されやすい行為であると、この人は気づいていないらしい。

 しかし正直、ありがたい提案でもあった。独断専行で凛音を追った結果、本来の仕事に遅れが生じるのはあまり好ましくない。


「じゃあ……お願いしても、いいでしょうか」


「うん! おもてなしの準備をしとくね!」


 純真無垢に和花さんは笑う。この人の前で邪念を持つのは罪悪感に駆られることだ。

 家の場所を聞いた後、和花さんと別れ、学校の外に出た凛音を探す。小さな歩幅で歩いていた凛音はそう遠くまで移動していなかった。横断歩道を二つ渡り、凛音へと近づく。


「凛音」


 振り返った凛音は、僅かに目を丸くして驚いた。


「……姉さんとの話は終わったんですか?」


「その件については、今日の夜に改めて話すことになった」


「夜……?」


 言及されると話が逸れてしまいそうだ。さっさと本題を切り出すことにする。


「凛音、何かあっただろ」


「だから先輩には関係ありません。まさか、そんなことを言うためについて来たんですか」


「……明らかに様子のおかしい同僚を、心配して見に来るのがそんなに変か?」


「仕事のことを心配しているようなら無用です」


 突き放すように、凛音は告げる。


「多少、気持ちが不安定になったところで、私は問題なく役割を全うできます」


「……いや、初めて会った時、普通に失敗していただろ」


 凛音が「うっ」と呻き声を漏らす。完全に忘れていたらしい。


「……仕事のことを心配しているわけじゃない」


 プライドの高い凛音のことだ。こちらが心配で見に来たと言ったところで、悩みも弱音も吐き出してくれないだろう。少し考えて、俺は先程の言葉を撤回する。


「心配だからというより、力になりたいと思ったからここに来たんだ」


 凛音が無言でこちらに視線を向けた。


「今までずっと、俺が何も知らずに過ごしている間、凛音は毎晩のようにあの屋上で歪みを修復していたんだろ? それを知った以上、俺は凛音に抱えきれないほどの恩がある」


「……別に、そんなつもりで修復していたわけではありません」


「俺の気持ちの問題だ。凛音がどう思おうと、俺は感謝している」


 だから、凛音が困っているなら助けになりたい。

 暗にそう伝えると、凛音は力なく笑った。


「やっぱり先輩は、正義感が強い人ですね」


 前にも同じことを言われた気がする。

 両親という二人の反面教師がいることは、態々凛音に伝える必要はないだろう。


「その……話せば、楽になるかもしれないぞ」


 そう言うと、凛音はゆっくりと口を開いた。


「では……ほんの少しだけ、聞いてもらってもいいですか?」


「……ああ」


 思ったより簡単に凛音が折れたため、俺は内心で拍子抜けした。

 いや、違う。決して簡単ではない。今の凛音は――それほど弱っているのだ。


「私は……怖じ気ついているんだと、思います」


 怖じ気つく。それは、何に対してだろうか。


「姉さんの祟りが解消されると、今まで解かれていた縁が、再び結ばれることになります。つまり、私と姉さんの間にあった家族という縁も復活します」


「家族……」


 訥々と告げられる凛音の言葉を聞いて、俺は今更、ある事実に気づいた。


 ――そうか。


 どうして俺は今まで気づかなかったのだろう。


 ――凛音も和花さんのことを覚えていないんだ。


 いつの日か、凛音と和花さんは俺の目の前で遭遇した。あの時、二人は一言も声を交わさなかったため、俺はてっきり姉妹仲が悪いと思っていたが……そうじゃない。

 二人とも覚えていないんだ。

 家族という縁が切れているから。今の凛音と和花さんは、他人なんだ。


「姉さんが祟りを受けるまで、私たち姉妹の仲はとても良かったそうです。ですが……祟りが解消された後、私は以前のように、姉さんと仲良くなれるとは思えません」


「それは……どうして」


「私が神事会の一員になったのは、八歳の頃……姉さんが縁解きの祟りを受けた直後です。天鈿女命アメノウズメの神痕を持つ私は、ハナコさんの指導のもと、姉さんの祟りを解消するために尽力してきました。……ですが、今も昔も、私にとって静真和花という人間は、姉であると言い聞かされただけの赤の他人に過ぎません」


 冷たい声音で凛音は言う。


「そんな赤の他人のために、私はずっと身を粉にして働いてきたんですよ? 趣味や人間関係など、色んなものを犠牲にして、私は……あの人の妹であるという理由だけで……」


 沈痛な面持ちで凛音は語った。


「だから、姉さんの祟りが解消されるかもしれないと思った時、私の脳裏を過ぎったのは、姉さんとの感動的な再会ではありませんでした。……私はきっと、姉さんを許すことができません。姉さんは何も悪くないのに……私は、我慢できないかもしれません」


 まるで自分を責めるかのように、凛音は強く拳を握り締めて言う。

 前から思っていたが…………凛音は、見た目ほど心が強い人間ではない。

 凛音は繊細だ。日頃の振る舞いに惑わされてはならない。


「今までは、可哀想な他人という認識だったから、耐えられたんだと思います。ですが、その相手が姉になったら、私は受け入れられるのでしょうか。……それが不安なんです」


 俺は、縁解きという祟りについて、まだ理解が浅かったのかもしれない。

 縁解きが解消されると、解かれた縁は元に戻る。けれど、その祟りによって翻弄された日々が無かったことになるわけではない。

 凛音は、そうした日々を抱えたまま、和花さんを家族として迎え入れなくてはならない。


 毎朝、顔を合わせることになるだろう。毎晩、同じ部屋か隣の部屋で過ごすことになるだろう。そんな時に、かつての翻弄された日々が脳裏を過ぎらない保証はない。

 凛音が抱えている不安を、漸く理解できたその時、遠くから学校のチャイムが聞こえた。


「……先輩、ありがとうございます」


 頼りなく微笑を浮かべて凛音は言う。


「こうして人に話すだけで、本当に気持ちは楽になるんですね」


「……楽にはなったかもしれないが、何も解決はしてないだろ」


「先輩にそこまでのことは求めていません」


 敢えて突き放すための発言であることは明白だった。

 凛音が本当は繊細な少女であることを、俺はもう理解している。

 だから、ここで何も言わずに彼女と離れてはいけない。


「凛音。……俺はこの後、和花さんと話をするつもりだ」


 だから何だと言わんばかりに不審な目をする凛音に、俺は続けて言う。


「一緒に行こう。和花さんを受け入れられるか不安なら、一度、話してみればいい」


 凛音は、目を見開いた。

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